マンガ、ブラック・ジャックに憧れて医者を目指した人がいる。主人公は表面上は法外な治療費を要求する悪徳医だが、陰ではそれ良いことに用い、患者によっては実はお金を取らない。そんな隠された人柄に惹かれるのだろう。
タイの通信会社のCMが泣けると話題。子どもの頃の恩返しの内容だが、実話の元ネタがある。一杯のミルクをもらった少年の恩返しだ。見返りを求めない行動が原点にある。
テキストで、パウロは、コリントの教会では無報酬で働き、他では「かすめ取る」ほど支援を得たと述べる。エルサレムの教会のために献金を必要としたが、行く場所によって態度を変えたパウロだった。それを今後も続けると書いている。
思いがけずイエスと出会い、用いられることになったパウロは、神の恵みのわざは一人一人違う形で表されることをよく知ったのだろう。人間は一見の公平・公正さをいつも要求するが。
イエスは、宴会を催すときは、お返しができない人を招くよう語った。それが神さまの恵みの業の表し方だった。
 私たちもまた、それに倣いたい。

〈メッセージ全文〉
私たちが何かの職業を目指すという時、案外に身近なところでの目標やお手本があります。例えば、テレビドラマの「金八先生」を見て、先生になったとか、「海猿」に影響されて海上保安官になったとか。同じように「ブラック・ジャック」に憧れて医者になったとか。実際おられると聞いています。

ブラック・ジャックは、御存じ、手塚治虫の不朽の名作漫画です。1973年から10ねんばかり連載されました。天才的な技術を持つ外科医の物語です。でも医師免許を持っていません。裏世界での医者です。名声を聞いて、一般社会では治せないとか密かな事情を抱える患者が後を絶たないのです。

彼は治療費に法外な額を要求するので、一部からは悪徳医者のように思われています。でも実は、そのお金で密かに施設を支援したり、自然を大事にする事業を支えているのです。また、一件法外な治療費も、その人の命の値段を表していて、払える人には払ってもらう一方で、貧しい人に請求したりはしないのです。つまり本当のところ決して悪徳医師ではなく、むしろポリシーをしっかり抱いたヒューマンドクターであるのです。ブラック・ジャックに憧れて医者になったという方は、凄腕の外科医という部分より、秘められた人柄に惹かれたということなんだと思います。

さて、CSではSさんから時々、医者に関わる話を聞きます。先週と6月と、同じドラマを見せてくれました。それはSさんが疲れた時に見て、初心に戻るための大事な映像だそうです。タイのCMです。

貧しい少年が薬局から薬と栄養ドリンクを盗もうとして捕まるのです。厳しく問い詰められて、病気の母親のためにと答えます。その様子を見かけた近所の小さな食堂の店主が、代金を代わりに払った上、店の野菜スープを持たせるのです。30年後、同じように貧しい人には野菜スープをただで振る舞う相変わらずの主人でした。が、或る日異変が起こり倒れてしまいます。病院に運ばれ、治療の結果、助かるのですが、莫大な治療費を捻出するために、娘は店や家を売り払おうとします。それでも払えないほどの額、今の日本で言えば300万円くらいでした。どうしたらよいか疲れ果てて父親のベッド脇で突っ伏す娘の元に、治療費が0バーツと書かれた明細書が置かれるのです。そこには「30年前の野菜スープによって、すべて支払い済み」というメモがありました。それを書いた担当の医者プラジャーク・アルーントン先生こそは、あの泥棒を働いて主人に助けられたかつての少年でした。

これはタイの通信会社によるCMで、「手渡すということが最高のコミュニケーション」というテロップが流れるのです。何度見ても泣きます。話しているだけで、涙が出そうになります。私はこの医者の名前がプラジャークとは、もしかしてブラック・ジャックのもじりかとさえ思いました。タイは日本のアニメがたくさん放映されているからです。

ちなみに、タイの生命保険会社のCMは、これまた、ただただ泣けるので有名です。タイの人はCMが嫌いでCMになるとトイレに行ったりするので、懸命に引き止める作品を作っているという分析もある一方、感情がとても豊かなのでこういう作品ができるという分析もあります。ともあれ、「タイの泣けるCM」とパソコンに打ち込むだけで幾つも観ることができます。100%泣けます。CMであんなに泣いてたら、本来のドラマを見る気が失せるのではないか、なんて思います。
あるシリーズのCMは、お父さんがろうあ者だというので、一人娘が学校でいじめ続けられ、どうしようもない苛立ちや憤まんをお父さんにぶつけてしまうのです。自分は普通の父親が良かった、と。応答することができず、悔やむ父親。誕生日の日、バースデーケーキを用意して、障がいがある自分を許して欲しい、だけどお前を愛しているよという手紙を書いて伝える練習をしているところに、娘がリストカットしてしまうのです。お父さんは娘を抱えて病院に行き、必死の形相で全財産を売ってもいいから娘を助けて欲しい、自分の血を使ってくれと医者にすがるのです。もちろんすべて身振り手振りでです。そこに「理想通りの父親などいないだろう」というテロップが流されます。何とか助けられ、意識を回復した娘は、横で寝ている父を発見して涙を流すのでした。

ちょっと脱線してしまいました。最初の野菜スープのCM、実はアメリカに実話の元ネタがあるそうです。世界的にも屈指の医科大であるジョーンズホプキンス医科大学。これを創設した5人の医師の一人が、ハワード・ケリーという産婦人科医でした。貧しかった彼は、子どもの頃からモノを売ってお金を貯めようと頑張っていました。或る日とても疲れ、空腹で、と或る家で一杯の水を飲ませて欲しいと頼むのです。出て来た少女は、少年の様子を見て水ではなくミルクを差し出します。幾らか?と問う少年に「見返りを求めてはならないと教えられている」と答えた少女。その少女が大人になって難病に侵され、医者になっていたハワードの病院に入院するのです。懸命な治療に当たった末、回復することができました。しかし高額の治療費が心配でした。その彼女に差し出されたのが、「一杯のミルクによってすべて支払い済」というケリー医師からの明細書でした。これがもともとの実話でした。

CMも実話も心打たれる出来事です。心からえ~話やと思います。見返りを求めず、ほんの小さな思いやりを相手に具体的に示すことの大切さを教えられます。しかし、この人間的には文句なく暖かいこれらの話の中に、神さまがなされる恵みやわざは、相手によって変えられる不公正なものであることを知らされるのです。そのことが今日のテキストには描かれていました。

パウロはかつて自身を自他共に認めるユダヤ主義者、熱い律法主義者として生きて来ました。そこで語られる公正は、誰がどのような状況であろうと勝手に変えたりしてはならないのです。だからこそ、安息日はこうでなければならない、その戒めは基本的に絶対のもので、人によって事情によって変えるべきものではなかったのです。厳格にそれに従う者として、パウロには自負があったでしょう。

けれども、そんなパウロが、イエスとの出会いを通して変えられたのです。思い起こせば、熱情のあまり、殺人を犯すほどにキリスト者を弾圧、迫害しました。そのことを反省した訳でも、後悔したのでもありません。他の弟子たちのように、イエスから直接薫陶を受けた訳でもありません。何故そうなったか、神さまの真意も分からないうちに、イエスと出会わされ、その福音を説く者として用いられたのです。人によっては全く不条理な出来事の中で、苦しみ抜き、意に反して死に至る人も大勢いた、それなのにパウロは赦され、今豊かに用いられているのです。神さまの恵みは、神さまの思いによって、それぞれに違って与えられるのだと、遅まきながら知らされたパウロでした。

ちょっとまた脱線しますが、私が釜ヶ崎で時どき行く居酒屋は、明朗会計ではありません。凄い飲んだなと思っても1000円って言われる時もあれば、そこほど注文した覚えがないのに、2000円だったりします。もちろん基本的には頼んだものに比例はしているのですが、どう考えても店主の胸先三寸で請求されているようです。もっとも最高でも2000円ですから、法外な支払いにはならないのですが、想像では、この客は今日は満足したろうとママが判断すれば2000円だし、今日は懐が寒そうだし、あまり楽しく飲み食いできたようではなかったと判断すれば1000円、そんなシステムのように思われます。

それと神さまの恵みのわざを一緒にはできないのですが、パウロはほうぼうの教会を回っては、エルサレムの教会を支える献金を集めて回っておりました。地方の教会も大変でしたが、当時エルサレムの教会こそ経済的に大変だったからです。もちろん、自分自身の伝道旅行のためにもお金は必要でした。

コリントは商業の盛んな、経済の面では豊かな町であり、同様の教会でした。本来であれば、ここでこそ強力に献金を訴え、充分な見返りを得ても何も悪くはなかったことでしょう。しかし、それをしなかったのです。訴えようと思えばできないはずはなかったのですが、それをすることはコリントの教会、信徒にとって益とはならないという判断を下したのです。それは個人の判断、この世的な分析による判断ではなく、彼自身が神さまから与えられた恵みのわざにならう判断でした。

一方、そこが少々貧しい地域、場所、収入に乏しい環境だと分かっていて、でもそこでなら、必要を訴えることが許される、そこではきっと訴えに応えてもらえる、そういう関係が作られていると判断した場所では、パウロは遠慮なく振る舞いました。

今日のテキスト前半の一段落では、コリントでは無報酬で働いたこと、他のところではかすめ取るようにしてまでも活動費を手に入れたと隠すことなく書いています。コリントで生活に不自由を来した時にも、敢えて負担をさせなかった一方で、マケドニアからの友には遠慮なく窮乏を訴えたと書かれてもいます。

更にこういう言わば落差のある言動を、今後も続けるつもりだと12節には記しているのです。人間の見る公平公正は、相手の状況を何ら考慮しません。来月から上げられる消費税は、貧しい人であろうと等しく2%上がります。そんなこと当然、それこそが公正だと、役人やお金持ちは特に主張することでしょう。

パウロも、こうした表面上の公正をしたり顔で説いて回る連中に、繰り返し出会って来たのです。13節・14節の指摘は極めて辛辣です。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」こう語ります。

イエスは宴会の譬え話の中でこう語りました。「宴会を催すときは、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」(ルカ14:13)。

ブラック・ジャックは患者によって報酬を変えました。あくまでマンガで現実には存在しない彼に憧れて医者になった人もいます。パウロはイエスを慕い、それに倣いました。現実には一度も直接出会ったことのないイエスにただただ憧れ、従ったのです。私たちも同じです。

天の神さま、あなたの恵みはしばしば一人ひとりに応じた形で表されます。感謝します。私たちもそれに応える者として下さい。