相変わらず割礼の有無を問うガラテヤの信徒たちに、パウロは「新しく創造されること」を勧める。
韓国ドラマから、脚本を変えることや、救いの意味を教えられる。
イエスの十字架は、神の予定通りの計画だったろうが、それは罪の象徴だけでなく、救いの象徴でもあった。
イエスが一般の人々に向って「弟子の条件」を説いたことがあった(ルカ14章)。「肉親を憎まないなら、十字架を背負ってついて来ないなら弟子ではない」との厳しい言葉だった。
が、「憎まないなら」は、「より少なく愛する」が本来の意味である。また自分の十字架を本当の意味で負い切ることはできない。それができるならイエスの十字架の意味が失われる。
真の赦しは神による。その神をこそ肉親以上に愛せよとイエスは語ったのだ。
自らの罪を忘れることは許されない。しかし悔いて悶々と歩むことを神は望まれない。神の赦しの上に、新たに耕された人間関係の中に生きること。パウロはそれを伝えた。
「おそ松君」に登場するイヤミの驚き方は斬新だった。作者の懸命な新しい創造だ。私たちも「おニューざんス」に歩みたい。

〈メッセージ全文〉
今朝、聖書日課から与えられたテキスト、ガラテヤ書には、イエスの福音が与えられたにも関わらず、相変わらず救われるためには割礼が必要だと思い込んでいるガラテヤの信徒たちに向けて、大事なパウロからの言葉が書かれています。

それは15節、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」という文章です。「新しく創造されること」、ユダヤの慣習に縛られる人々が、パウロには根拠のないものにしがみ付いている古い体質、古い生き方に見えたのだと思います。

実のところ、パウロ自身がかつてはそういう生き方をしていました。その頃、それが古い体質、古い生き方だとは微塵も思っていなかったことでしょう。しかし、今はそう見えるようにされました。14節の言葉、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」とあるように、古い体質・古い生き方とは、割礼に象徴される「形に縛られて生きる生き方」だったし、同時にそれは「自分を誇る生き方」だったのです。

ところで私は、韓国ドラマをよく見ます。日本のドラマとはやっぱり違うので、ドラマから何か示されることが少なくありません。例えば、とあるドラマでは、主人公がガンになって入院します。ちょうどガンを患った人のテレビドラマが放映されていて、主人公は同室の患者たちとそれを見るのです。テレビの登場人物は病状が日に日に悪化して、恐らくもう助からないだろうという展開になって行きます。主人公の男性は、そのドラマに自分を重ね合わせて、どんどん気が滅入り、もうあかんと気弱になって行くのです。実際には彼は手術がうまく行って、回復するのですけど、テレビドラマを観るたびに落ち込んで行く夫を心配して、妻は密かにドラマの脚本家のところに電話をして、ドラマの筋書きを変えろと訴えるのです。ガンが進行して死んでしまうようなことは許さないと迫ります。脚本家からしたら迷惑千番な話で、あり得ない出来事ではあるんですが、奇跡が起こることを心から期待して観ている患者がいるんだ、という妻の訴えが脚本家に聞かれて、ついに驚くべき回復を遂げるという最終回の筋書きへと変えられるのでした。

私は、これを見ていて、もしかしたら十字架の出来事も同じだったのではないか、などと想像を巡らしました。もし、イエスが十字架上で亡くなってしまって、それですべての話が終わっていたら、どうだったかと思う訳です。

イエスのなした言動は、むしろ生前の事々にこそ大きな意味があります。だから例えばパウロも含めて弟子たちは、イエスの生前の言動だけを伝えて生きるだけでも十分意味があったことでしょう。
ただ、恐らくそれではイエスの死後の出来事は始まらなかったと思うのです。十字架上の死ですべて終了していたら、十字架刑からさえも逃げ出してしまった弟子たちには、重い重い罪意識しか残らなかったに違いありません。裏切った彼らが、どうしてあるじイエスを伝える働きにつくことができたでしょうか。

先週、最近見ていた「トッケビ」という韓国ドラマが終了しました。このドラマ、生前の罪のために、裁きとして900年も生かされる人が主人公でした。罰として死を与えられるのが普通の話なんですが、この人は逆でした。無理やり生かされます。でもどんなに良い関係を作って交わっても、周囲の人たちは寿命を全うして先に死んで行く中で、彼だけは死なずに、空しさや悲しみや寂しさを引きずって生きて行かねばならないのです。あくまでもドラマなんですが、随分考えさせられました。
いつまでも死なないという設定は、キリスト教的ではありませんが、もしそうだとしたら、どんなにしんどいことでしょう。犯した罪を繰り返し繰り返し心に刻みながら、だからと言って何も償いなどできないのです。どんなに悔いて少々善行を積んだとしても、償い切れない罪があることを実感させられるだけなのです。そんな罰に、耐えられる人がいるでしょうか?それは例えば「永遠の命」ではないと思うのです。

主人公が「900年も生きて私はまだ赦されないのでしょうか?」と涙するシーンがありました。私は思わず画面に向かって言いました。「あなたの罪は赦される」。もう赦されている。
決して神さまに成り代わって言った訳ではありません。私たちキリスト教の信仰が教えてくれるものに従うなら、赦される、赦されているとしか言えないのです。そうでなければイエスの十字架に何の意味があったことでしょう。

イエスは生前、自分は「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と三度に渡って予告しました。だから神さまは脚本を後から変えたのではなく、初めから定められたストーリーだったのでしょう。自分が作られて「きわめてよし」とされた人間ですから、一人子イエスの死だけで終わることは端から神さまの脚本ではなかったのです。

確かにイエスの十字架は、人々の罪の象徴でした。でも罪だけを示して終わっていたら、弟子たちだけでなく人々は皆誰もが犯した罪の大きさ、重さの故に、立ち上がることはできなかった。分かっていたことです。だから神さまは、三日後に復活の出来事を最初から備えられたのです。十字架は、ですから罪の象徴であると同時に、赦しの象徴でもありました。最初に紹介した韓国ドラマも、脚本家が筋書きを変えたのだけど、主人公は毎晩のようにコインをたくさん握りしめて病室から消える妻を不審に思って、ある時こっそり後をつけるのです。そうしたら病院の公衆電話で脚本家に筋書きを変えるよう懇願している妻の姿を見て、すべてを悟るのです。脚本じゃなかった。問題は自分自身だった。その時にもう彼の復活の道が始まりました。

さてイエスは、12弟子たちを無条件で弟子としました。にも関わらず、一般の人たちに向って「弟子の条件」について語っているのです。ルカによる福音書14章にそれが記されています。25節から27節を読みます。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父・母・妻・子ども・兄弟・姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、わたしの弟子ではありえない。」

何と言う厳しい条件かと思います。「父・母・妻・子ども・兄弟・姉妹」ということは、要するに自分の肉親のすべてと言えます。それに加えて「自分の命」を憎まないなら、と言うのです。家族と自分の命を憎め、と言われて実行できる人がいるでしょうか?ついでに言えば、自分の十字架を背負うということも、本当にできるでしょうか?

26節の「これを憎まないなら」という訳は、その通りではあるんですが、「より少なく愛する」というのが本来の意味です。どうしてこんなモノの言い方になったのか、よく分からないのですが、イエスの言いたいことは、「肉親を超えて、自分を、神を愛せよ」ということでした。

誰でも人に言うこともはばかられる失敗やつまづきが人生の中で起きます。自分だけで失敗したのではなく、そこに他者を巻き込んで傷つけていたら、それこそ家族にさえ言えないかもしれません。いや、それでももしかしたら家族なら、思い切って告白すれば赦してくれるかもしれません。でもそれでは、本当の意味で十字架を背負うということにはならないのです。家族を頼って脚本を書き換えることになります。十字架を背負うということは、犯した罪を忘れないということです。忘れてはならないのです。

でもそれと償いとは違います。現実には謝って、謝罪し、相応の償いをなして何とか赦されるということはあるでしょう。でもどんなに謝っても済まない類の罪があります。また自分が気が付かないでいる罪もきっとあるはずです。それらを含めて、全部自分で負うことは到底無理です。自分では負うことができない十字架があることに気づかされること、もはやその赦しは神でなければなしえないこと。それがイエスの弟子の条件の話の真の意味でした。

あるじの十字架刑の前に逃げ去ってしまった12弟子たちと違って、パウロには自ら犯した出来事への罪意識は当初なかったことでしょう。何もないところから赦されて、従う者とされたからです。しかし、だからこそイエスの生涯と教えを懸命に学び、それに従って、生き方を変えられ続けました。それが最初に紹介した、「大切なのは、新しく創造されることです」という言葉に集約されています。

私たちは、誰もが、もし何か罪を犯したなら、その自分と向き合わねばなりません。そこに他者が含まれるなら、言うまでもありません。勝手に忘れることは赦されません。しかし繰り返しますが、徹底的に自分の罪に向き合うなら、それこそ生きることはできないでしょう。また多くの場合、そこまで向き合うこと自体ができないでしょう。

 でも犯した罪を悔やんで、殻に閉じこもり、社会を恐れ、悶々と悩み続け、恥続け、一切の関わりを絶って生きることを、神はよしとされるでしょうか?それは償いになるでしょうか?そんな生き方を神は決して望んだりされないのです。

 パウロは16節で「このような原理に従って生きていく人の上に」と続けています。このような原理とは、新しく創造されることを指しています。新しく創造されて生きていく人の上に、平和と憐みがあるように、そう祈るのです。

 どんなに後悔しても、反省しても、それだけは足りないものがあるのでしょう。それを補うためではなく、むしろ真摯な後悔と反省の上に立った上での、新しい生き方があるはずです。もはや自分にはイエスしかないと懸命に新たな人生を歩んだパウロのように、です。

 今日のタイトル、変なタイトルだと思われたでしょう。自分でもそう思っています。でも「新しく創造されて」というパウロの言葉を読んだ時、何故か「おニューざんス」というイヤミのセリフが浮かんだのです。御存じでしょうか?赤塚不二夫の「おそ松くん」というマンガに登場するキャラクターです。驚いた時「シェ―!」と叫んで独特のポーズをしました。あの頃、驚いたってそんなポーズする人なんかいないぞ、と思いましたが、結構みんな真似てました。

 今、あのポーズをする人はいませんが、シェ―は赤塚不二夫さんの渾身の「新しい創造」だったのだと思います。斬新でした。

 パウロはいつまでも割礼を持ち出す古さにうんざりしていました。これ以上自分を患わせて欲しくないと正直に述べます。もうええやろ?新しく生きようや、それが赦されて生きるということやで。
割礼はないけど、生きづらさ・息苦しさを感じる様々な環境の中に生きる私たちです。神さまの赦しを受けて、新しく創造されて生きたいと願います。
「おニューざんス」です。

神さま、あなたの赦しに感謝します。それに応える者として下さい。