台風19号の影響で試合が中止となってしまったが、カナダチームはそのまま釜石に残って泥かきのボランティアをした。大きな励ましだった。
 テキスト・ヘブライ人への手紙は、迫害を恐れて揺れる人たちに向けた励ましの書。11章では「信仰によって」が繰り返される。この世的価値観ではないという強い思いだ。
 ユダヤの歴史を彩る有名な人たちの名前が列挙されているが、その紹介が目的ではない。それぞれ良いことも、つらいこともあった、そのすべてが「信仰に」よるのだった。
 残念ながら、彼らは約束されたものを手に入れることはなく、更にまさったものが与えられなかった。それは救い主イエスを指し、更には聖霊、天のみ国を意味した。
イエスが与えられた今、むしろおびただしい(無名の)証人たちから伝えられて来たように、それぞれ自分の道を進めば良い。著者はそう励ましの言葉を贈った。
 カナダチームによって、天のみ国をかいま見る思いがした。まだないが、もうある幻だ。著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と明確に書き記している。

<メッセージ全文>
 今月8日、御崎公園球技場にラグビーワールドカップの一次リーグの試合を観に行きました。南アフリカ対カナダです。今晩日本と相対する南アフリカが圧勝しました。66-7でした。結果そのものは、予想通りでしたが、驚いたのは、圧倒されているカナダチームの姿勢でした。どんなに点数を取られても、全く意気消沈しないのです。もう完封されると多くの観客が思っていたでしょう。でも後半終了間際に初めてトライを決めると、球技場全体で大歓声が沸き上がりました。南アフリカのファンも含めてでした。

 そのカナダは、一次リーグで敗退が決まりましたが、先週13日に岩手の釜石でナミビアとの試合の予定でした。ナミビアも敗退が決まっていて、敢えて言うなら、消化試合のようなものでした。でもみんな試合やりたかったのです。なぜなら、それは励ましのための試合だったからです。

 かつて日本選手権で7連覇した新日鉄釜石の面影は、もう釜石にありません。鉄鋼業の衰退という経済の事情もありますし、地方の衰退という事情も重なります。それに加えて東日本震災が追い打ちをかけました。わざわざ釜石が会場に選ばれたのは、東北の人々、とりわけ被災者の方々への励ましという要素が強くあったからです。

 それなのに台風19号が邪魔をしました。中止が決定となって、チームも期待して待っていた観客も本当に無念だったと思います。残念でした。ところが、御存じの方多いと思いますが、カナダチームはやっぱりここでも意気消沈しなかったのです。試合はできませんでしたが、彼らは台風でまたしても泥だらけの町になった釜石に居残って、泥かきや家財運び出しなどのボランティアに出かけたのです。これには釜石の人たち、それこそ大きな励ましを与えられました。私もニュースを見て、スコットランドに勝った日本のゲーム以上に胸を熱くされました。天国って、こんなところやないかと思いました。

 さて、今日与えられたテキストはヘブライ人への手紙です。著者はよく分かっていません。パウロに影響を与えられた弟子の一人だろうということですが、名前は不詳です。内容は一言で言うと、迫害が大きくなっていた1世紀の頃、せっかく信仰を与えられながら、不安に捕らわれ、心が揺れていたヘブライ人に励ましを贈るために書かれた手紙です。

 中でも今日読んだ11章は、信仰の書と呼ばれている、この手紙の中心箇所です。読んだのは32節からですが、11章最初から繰り返し、繰り返し「信仰によって」という言葉が使われています。それはこの世の価値観、人間の価値観ではないのだという強い思いを表しています。

 最初から読むと、アベルとカインに始まって、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブといった始まりの頃の人たちの名前が次々に登場します。そしてモーセに続いてラハブが登場し、今日の32節へとつなげられるのです。そこでも、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル・・と旧約聖書を彩るよく知られた人たちの名前が列挙されています。

 これらの人たちがどんな人生を送り、イスラエルの歴史の中でどう位置付けられているか説明するには、到底時間がありません。時間が足りないでしょうとある通りです。ただ、32節の冒頭に「これ以上、何を話そう」という言葉が挟まれているのは、実はこれらよく名の知られた人たちの詳細な人生を紹介することが目的ではないということを示しています。

 そもそもこれらの人たちの名前は聞く人たち、この手紙を読む人たち、ユダヤ人にはよく知られているのです。人によっては凄く立派なことも行ったし、一方で辛い目や悲しい事々にも遭ったのです。それは人生いろいろ、山あり谷ありという、よくある一般的な振り返りではなく、それらすべてのことが「信仰によって」与えられたのだ、そのことを伝えているのです。

 12章1節で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」と書き綴られているように、名前が書かれている人たちはたまたまよく知られている人たちだからであって、著者が言いたいのはむしろ名前も知られていない、しかし自分に繋げられる大多数からの人々の励ましにあるのです。

 今のようなペンや紙など書くのに必要なものがあって、名前が留められるなら、つまり教会50年誌とか100年誌みたいな記録書がもし当時あったら、名前くらいは残されたかもしれません。それがなかったので、口伝承で伝えら続けたごく一部の人たちの名前がたまたまこの手紙で用いられました。

 しかし例えばあのダビデでさえも、自分一人で生きた訳でもなく、一人で繋げたのでもないのです。かえって人間的には失敗やつまづきだって多々ありました。それでも、何かをなし、次へとつなげ得たとしたら、それは一切が「信仰によって」なされたことでした。まして無名の大多数の人たちはそうだったろう、と著者は言いたいのです。

 「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」と39節にあります。何か立派な功績を残したということによるのではありません。その信仰のゆえに神さまが認めて下さった。でも約束されたものを手に入れることができなかった、それは足りないものがあったから、というのでもないのです。

 ここで言う、約束されたものとは、言うまでもなく救い主イエスのことを指しているのです。更にはイエスが約束した聖霊であり、更にはいつの日か与えられる天の国を意味しています。

 例えばダビデたち、イエス以前のすべての人たちは、有名な人も大勢の無名の人も、それぞれ個人の人生をその人なりに生きたことでしょう。一人のユダヤ人として、それはそれで十分でした。

 でも神さまは「更にまさったもの」を備えて下さったので、彼らは残念ながら完全には満たされなかったのだ、と40節に書かれてあります。著者にとって、更にまさったものとは、イエス以外にないのでした。

 しかし今やイエスが与えられたのです。イエスこそは信仰の創始者であり完成者だと著者は言います。このイエスを見つめながら、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか!」と力を込めて語るのです。まさに、信仰への励ましの言葉です。

 ラグビーの試合を観ていると、時に一瞬の隙を突いて、何十メートルかの独走トライという場面に出くわします。その時選手に、後を振り返ったりする余裕などありません。ただただ前を臨んで、インゴール目指して走るだけです。ちょうどすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨ててて、と著者が表現した通りのシーンです。自分でそうしたというのではなく、著者には、こんな場面を目撃して心を熱くした体験がきっとあったのでしょう。

 イエスが与えられるまでは、人びとは神に従いつつ、己の弱さも愚かさも自分で引き受けねばならない厳しさが課せられていたでしょう。だからこそ彼らは、律法を守り、訓練を重ねなければなりませんでした。

 けれどもイエス以降は一変したのです。イエスは十字架と復活の故に、罪を一身に背負い、かつ神さまを通して赦して下さったのです。だから後はただ、自分の進む道を進むだけだ。それを忘れかけていた人たちに、著者は力強い励ましを書きました。

 カナダチームは、試合をしませんでしたが、釜石の人たちに大きな暖かい励ましを残しました。感謝です。その一方で、東京・台東区では、ホームレスの人たちを避難所が排除しました。怒りを覚えます。

 イエスの後という意味において、私たちは、私たちもまたこのヘブライ人への手紙が出された人たちと同じ立ち位置にあります。イエスはもう与えられたのですから、あとはただ自分の進む道を進むだけです。でもまだ更にまさったもの、すなわち天のみ国は与えられていません。住所がないという理由で、避難して来た人を拒否するところは、天のみ国ではないのです。

 それでも、カナダチームのボランティアを通して、私たちは一瞬天のみ国をかいま見ることができました。もちろん、こういうことは他にもたくさんあります。目立たないけど、あ~これが、こういうことが天国やないか。人生にはそういう希望が散りばめられています。
まだ本当にはないけど、まだ来てないけど、でももうある、既に与えられてある、それをもうちょっとだけかいま見た、そういうことがあるのです。そのほんのちょっとを固く信じることが信仰なのでしょう。著者は11章の1節に明確にこう書き記しました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と。