宗教改革記念日を意識して、一つの物語を紹介。日本語訳初の聖書は、ギュツラフ宣教師が漂流漁師の協力を得て、シンガポールで1837年に刊行したヨハネによる福音書。
このギュツラフがオランダで伝道説教した時、フルベッキという少年が聴衆の一人にいた。彼は後にアメリカで鉄道技師として働くが、病床に倒れる。その時、回復したらギュツラフのお勧めに従い、外国伝道に出ると決意した。
神学校を出て日本の長崎にやって来たが、当時の事情で佐賀藩の致遠館で英語教師として働かざるを得なかった。
思いがけず発見された英語の聖書の中身を何とか知ろうと努力した佐賀藩家老の村田政矩。何年もかかってフルベッキと出会い、受洗。家老を引退して作った集会がもとになって、佐賀県初の伝道所が生まれた。すべて混沌の中に注がれた神の光による。
テキストはまさに暗闇の中に照らされる神の言葉を示している。
ラグビー日本代表の解散会見で、試合に出られなかった選手たちを讃えるコメントが出された。埋もれてしまう混沌の中で、片隅を照らす光がある。神の「命の言葉」である。私たちはそれに生かされている。

<メッセージ全文>
 今週木曜日、10月31日は宗教改革記念日です。ルターが働きを開始して502年になります。長いような、短いような不思議な500年です。今日は、そのことを思いながら、一つの物語を紹介します。物語と言いましたが、すべて史実です。

 プロテスタントの歴史の中で初めて日本語の聖書が訳されたのは、1837年のことです。当時マカオにドイツ人の宣教師ギュツラフがいました。ギュツラフは日本で伝道する志をもってモリソン号に乗って来日しますが、砲撃されてやむなくマカオに戻り、中国伝道に携わることになります。

 たまたまマカオに嵐で漂流して流れ着いた3人の日本人漁師たちがいて、ギュツラフは彼らから日本語を学びつつ、ついにヨハネによる福音書の日本語訳を完成します。初めに言葉があったという、冒頭の言葉は「はじまりにかしこいものござる」と訳されました。それは漁師たちの語彙によるのですが、「言葉」を「かしこいもの」としたのは、存外に深い意味を示しているように思います。

 このギュツラフがオランダを訪れて伝道礼拝を行った時、それを聞いた聴衆の一人にフルベッキという少年がおりました。本当はヴァベックというのですが、日本語発音でフルベッキと言います。彼はいったん鉄道建設の技師としてアメリカで働いていましたが、激務と猛暑で病に倒れてしまうのです。

 その病床で、少年時代に聞いたギュツラフ宣教師の「汝、すべてを神に委ねて外国伝道に献身せよ」という言葉を思い出したのです。そして、もし病気が治ったら、生涯を外国伝道のために捧げると決意しました。

 幸い回復したフルベッキは神学校に入学し、オランダ改革派教会が日本への宣教師を募集していると聞いて即座に応募したのでした。1859年5月、結婚したばかりのマリアを伴い、サプライズ号に乗ってアメリカを出発、上海を経由して11月に長崎に到着しました。しかし当時の日本でキリスト教伝道はできませんでした。

 日本が1868年の明治維新を経て、キリシタン禁制を撤廃したのは1873年(明治6年)のことですから、フルベッキは14年の間、宣教師としてではなく英語教師として働くことになります。

 長崎に来た次の年1860年に初めての子どもが生まれるのですが、2週間で亡くなってしまいます。その時アメリカの伝道団に宛てて書いた手紙を読みます。

 「1月26日、可愛い女の子が生まれ喜びに満たされました。日本が開国して最初のキリスト信徒の誕生です。一週間、健康そうに見えましたが、二週目には病気で衰弱し、今月9日、この小さい生命は主に召されてしまいました。

 死ぬ前の安息日には、わたしはこの娘にバプテスマを授け、エンマ・ジャポニカと名付けました。これは日本で最初の幼児洗礼でした。

 この突然の悲しみは本当に深刻でした。多くの希望も失意に変わり、希望に満ちた歓喜も悲嘆に変わりました。この異教の荒野と孤独の中に耐え難い思いです!

 でも、死んだこの娘は、この世がこの幼児に与えるよりももっと救い主のもとにあって、より祝福を受けるでありましょう。そう思うと、悲しみはまた、喜びに変わります。主はすべてをよく導いてくださいます。」

 日本はまだ幕末の混乱期にあって、これから何がどうなるか全く先が見えない混沌とした状況にありました。そんな中で、初めての子どもを失う悲しみを抱えながら、フルベッキは佐賀藩が長崎に作った英語伝習所「致遠館」の英語教師として働くのでした。

致遠館は長崎に佐賀藩の藩校でしたが、ここには佐賀藩だけでなく、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥後藩など様々な藩の若い藩士たちが学んでいました。

 さて、1854年にアメリカに続けとイギリスが東洋艦隊を長崎に送り込みました。イギリスとの交渉役に立てられた一人が、当時の佐賀藩家老・村田若狭守政矩という人でした。

 或る日、家臣の一人が長崎湾の波間に漂う小さな包みを発見して拾い上げると、中には外国語の書物が入っていました。家臣はそれを家老の村田に提出しました。オランダ語の通訳に尋ねたところ、英語の聖書だったのです。

 村田は、わざわざ上海から漢文の聖書を取り寄せ、何とか内容を知ろうと格闘しましたが、一人では無理でした。長崎の致遠館にフルベッキという宣教師がいることを知った村田は、弟を含めた3人の佐賀藩士をそこに送り込んだのです。まだキリスト教は解禁されていませんでしたし、何と言っても家老という立場上自分が赴くのは不可能でした。

 3人の青年たちが4年間長崎で研修を受けた後1866年5月、ようやく村田はフルベッキと会うことができました。その時彼は「私は長い間、心の中であなたを知り、語り合えるのを夢見ていた。神の摂理により、今日実現したのは大変に幸せなことである」と語ったのです。

 更に聖書を読んだ時の印象を次のように語りました。

「私が初めて、イエス・キリストの品性と事業を読んだ時の感激は言葉には表せない。かくの如き人物を見たことも聞いたことも想像したこともなかった。彼の品性と生きざまに私の心は虜になった。」

 そうして出会ってわずか6日後に申し出て、弟と一緒にフルベッキから洗礼を受けたのです。まだキリシタン禁制でしたから、刑罰を覚悟せねばなりませんでしたが、村田は家老職を退いて引退することを藩主に願い出て許されたのでした。

 その後、村田は農家の納屋を借りて集会を行い、家臣や親族に伝道し、聖書の和訳にも取り組んで明治5年、禁制が解ける前年に世を去りました。この集会が母体となって8年後に佐賀県で最初のプロテスタント教会である辻堂聖書講義所が開設されたのです。これが現在の日本キリスト教団佐賀教会です。

 長々と一つの物語を紹介して来ました。不思議な出会いと繋がりの物語です。フルベッキという一人の宣教師の人生も、彼に出会った村田政矩という人の人生も、何がどう起こるか分からない全く混沌の中で、進みました。ただ一つだけ言えるのは、その混沌を聖書の言葉、すなわち神の言葉が導いたということです。

 今日読んだ創世記の記述は、まさしくそのことが描かれていました。混沌の中に、神さまの言葉が語りかけられるのです。暗闇としか言いようがないところに、光が照らされること、それこそが神さまの創造であるのです。

 先週月曜日、初めて8強となり、残念ながら順々決勝で南アフリカに敗れたラグビー日本代表チームの解散会見が行われました。ある記者が今大会で、一番思い起こされるベストプレイは何だったか?と選手たちに尋ねました。

 それはあのパスだった、あのトライだった、と選手たちはそれぞれに振り返りました。ところが一人、全く違うことを語った選手がいました。(中村亮土)。彼はこう言ったのです。

「グラウンドに出ていないメンバーのウオーターボーイや伝達がベストプレイ。ワンチームで戦うっていう意味で、どのプレーじゃなくて、それを産むまでの準備やサポートが土台として大きいので、メンバーのサポートが非常に助かった。」

 じ~んと来ました。代表チームには31人の選手が選ばれたのです。でもベンチ入りできるのは26名。ですから5名の選手たちが一度もグラウンドに立つ機会がなく終わってしまいました。5人にとって、それ自体はとても悔しいことだったでしょう。それでも、彼らは自分にできる精一杯のことをして、チームを支えたのです。

 嬉しかったのは、ベストプレイは何だったか?と聞かれて、試合に出られなかった選手たちの働きに言及した選手がいたことです。出られなかった選手たちが何も貢献していないはずはないし、わざわざ言わなくても良いことだったかもしれません。でも活躍した選手たちがまずは大きく取り上げられる中で、敢えてそれを言葉にした選手がいた。黙っていれば、そのまま何もなかったかのように終わっていた会見で、とても大切なことを思い起こさせてくれました。命の言葉って、こういうのだと思いました。

 放っておけば忘れ去られる、片隅に追われて覚えられない、そういう出来事が私たちの人生や歴史に多々あります。創世記の頃の話ではなく、明治維新の頃の話でもなく、現代も同じです。先が見えない混沌とした時代を、いつも人は生きています。その暗闇、その混沌に光を当て、命を後押しする神の言葉があります。私たちは間違いなく、その命の言葉によって生かされています。人生はやっぱり捨てたものではありません。

天の神さま、私たちに命を言葉をかけ続けて下さい。あなたの光で包んで下さい。