小学4年生の時、文章には「表現」があることを学んだ。
アダムとエバの物語。ここから「蛇がそそのかした」、「女が男を誘った」などの刷り込みが行われた。挙句に5C、アウグスティヌスによって人間の神に従わない「原罪」論が展開されて行った。
それは「時代錯誤の誤読」と山口里子さんは言う。勇気をもって実を食べ、パートナーにも分かち合ったのだとしたら、女(エバ)への見方がまるで違って来る。
この創世記2~3章が書かれた紀元前10Cの頃は、ユダヤの人びとはバビロニア捕囚が終わって気力を失っていた時代。著者たちは、立ち上がる人間を支える神の姿を伝えようとしたのだ。
更にイエスの時代から400年は、人びとはローマに抵抗して、自立しようとの励ましをもって、この物語を読んだという。
蛇が「食べろ」などと一言も書かれていない。問題があったとすれば、神からの問いかけに、男も女も、責任逃れして偽ったことにある。
それでも神は着るものを備えて二人を送り出した。失敗してもなおサポートされる神である。この神の思いに応えて歩みたい。

<メッセージ全文>
 姫路で子どもが遊ぶところと言えば、今はセントラルパークですが、私の子どもの頃はドリームランドでした。忘れもしません。小学校4年生の時、夏休みに家族で遊びに行ったのです。

 色々遊びましたが、夏休みの作文の宿題で、ドリームランドのお化け屋敷に入ったことを書いたのです。多分、「とても怖かったです」みたいな平凡なことを書いたはずです。

 忘れもしないのは、お化け屋敷のことではなく、その作文のことなのです。母親がそれを読んで、「心臓が止まりました」と書きなさいと指示したのです。正直、嫌でした。何故かと言うと、二学期の初めに発表会があって、それを読まねばならなかったからです。結果ははなから見えていました。

 案の定、友人たちからはやされました。「お前、死んだんじゃろ?」「なんでじゃ。」「心臓が止まったって言うたじゃろ。」

 ところが、その後その作文は優秀賞をもらうことになったのです。嫌々母の指示に従った訳です。自分の表現ではありません。母が書いたようなものです。でも、私は初めて、表現とはこういうものだということを学びました。

 さて、永眠者記念礼拝の今日、創世記からアダムとエバの物語が与えられました。この記事を読んだことがない人でも、何となくストーリーを知っている箇所です。つまり、神さまが食べてはいけないと命じられていたエデンの園の中央に生えている木、だいたいいつのまにかこれはリンゴの木ということになりました。蛇が女をそそのかしたので、つい女はそれを食べ、自分だけでなく男にも食べさせた。それを知った神さまが怒って、限られた人生を生きる者とした上で、エデンの園から追放した、ざっとこういう物語です。

 この筋書きが、予め私たちに刷り込みをしてしまいます。蛇はいかにも人をだます狡猾な生き物であり、その誘惑に負けたのは女が最初に負けたので、女は男よりも弱い存在であるという構図が生まれました。更に、初めの人間が双方、神が禁じられたことを守ることができなかったということで、人間は当初から「弱さ」或いは「愚かさ」という原罪を抱く存在、という理解が生まれることにもなりました。

 何で食べたんやろ。その木以外のもので満足していたら、神さまの命令を聞いていたら、未来永劫何の苦労もなく、楽しく気楽に生きて行けたのに。蛇の奴。エバの奴。アダムの奴。と、それこそ呪いたくなるような物語である訳です。

 しかし、改めてこの箇所をよくよく読んでみると、蛇は神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い生き物だったとしか書かれていないのです。蛇が知っていたのは、園の中央に生えている木が、食べると善悪を知るものとなるということでした。実際、それを食べてしまった結果、善悪を知ったアダムとエバは、約束を破ったことを認識して、神さまが怖くなった。これが書かれているストーリーです。

 人間は、生まれながらに神さまからの命令を破る可能性を持っているとして、これを原罪と名付け、そのように教え広めたのは5世紀の教父アウグスティヌスです。この物語の初めからそういう思想があったのではありません。そう考えることが教会と国家にとって都合が良かったのです。

 そもそも、創世記が旧約聖書の最初に位置されているのは後の人たちの編集の結果です。創世記そのものも、中身は編集だらけと言って過言ではありません。例えば、先週読んだ1章は、紀元前6世紀に書かれたものです。2章3章、すなわちアダムとエバの物語は、それから400年も経った紀元前10世紀に書かれたものです。

 聖書は、科学書でもなければ歴史書でもありません。書いた人たち、編集した人たちの「これを伝えたい」という意図があって編まれた文書です。その時代の、様々な状況があって、独特の表現に満ちています。その時代の、様々な状況があって書かれた物語から、私たちは何とか真意をゆがめずに受け取りたいと思うのです。

 食べたら死んでしまう、と言われていた木の実がありました。最も賢い蛇が「食べても死なない」と言いました。それでエバが木を見ると、いかにもおいしそうに見えたとあります。

 創世記2章には、確かに「善悪の知識の木から食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」との神さまからの強い戒めが記されています。でもそれを言われたのは男でした。その戒めの後で女が造られたのです。とういうことは、その戒めは男を通して女に伝えられたということなんでしょうか?

 考えられることは、神さまの戒めは、確かに食べさせないないための、一種脅しのようなものでしたが、食べたら死ぬということは、生命的に死ぬということより、善悪の知識を知ってしまうことは、それほどの大きな責任を負うことという意味合いがあったのではないかと想像するのです。何も知らずに好きに生きられたら、その方がよほど楽な訳で、死ぬほどの責任を負ってまで善悪の知識を知ることはないのだ、これが神さまの戒めの裏にあった思いではないかと思います。

 いずれにしても、私、いつも思うことですけど、一番最初にウニとかフグとか食べた人は凄いなって思うのです。何で食べたんやろ?やっぱり、おいしそうに見えたんでしょうか?いずれにしても相当の勇気が伴うはずです。下手をすると死んでしまうこともありますから。もしかして、男から戒めを伝えられたのなら、神さまからの直接的な戒めより重しが軽かったのかもしれません。食べても死なないという蛇の言葉は後押しになったのでしょう。

 ですから、思い切って食べたエバは、誘惑に負けたというより、実に勇気があったのです。しかもそれをアダムにも渡した。きっと単純においしかったからです。それを一人占めしませんでした。禁令を犯した仲間に引きずり込んだのではありません。互いに助け合う者として造られた者として、当然の分かち合いをしたのです。そうならエバは大変に大胆で、かつ心暖かいパートナーだったと言えるでしょう。

 キリスト教始まりのおよそ400年間、この物語はローマ帝国の権力に抵抗する根拠として、人間の主権や自由、自立、与えられた責任を覚える話として理解されていたそうです。ですからこれが人間の「原罪」と考えるなど論外の話でした。その頃の人たちがアウグスティヌスの解釈を聞いたら、この物語を描いた紀元前10世紀の著者たちはもちろん、イエスもびっくり仰天したことでしょう。時代錯誤の誤読です。-そう山口里子さんは述べています。

 蛇がエバをそそのかして「食べてみろ」と言ったなどと一言も書かれていません。それどころか、「食べても死なない」と言ったことは事実でした。事実を伝えただけ。それなのに、呪われるものとなった、という神さまの言葉は酷かもしれません。とばっちりを受けたとしか言いようがなくて蛇は気の毒です。

 それよりも。何で食べたんやろ?の後こそがこの物語の焦点だったのです。「おいしそうだったから!」とエバは正直に答えるべきでした。食べても死なないという直感が働いたのなら、そう答えても良かったでしょう。それなのに神さまからの問いかけに対して男は「女が与えたので食べた」と答え、女は「蛇が騙したので食べた」と答えました。それは明確に嘘です。ごまかしです。しかも神さまに対しての偽りです。もし私たち人間に生まれながらの原罪があるとしたら、この、神さまに対する偽りであり、ごまかしにあるのでしょう。

 その偽りとごまかしを神は拒否された。言い換えれば責任逃れしたことを見逃さなった。それで男、女それぞれに生きるに限界を与え、また生きて行くための少しく厳しい課題を与えたのです。新たな責任を負わせました。そして園からの追放となりました。

これが神からの「罰」ということになっています。

 しかし、ただ怒りに任せて罰を与えたのではありません。21節に「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。ちゃんとエデンの園を出たあとのことを事前にサポートされたのです。失敗してなお、支えを与えられる神でした。そう受け取るなら、エデンの園からの追放は、新しい出発と言えるのかもしれません。

 この物語が書かれた紀元前10世紀は、バビロニア捕囚が終わって、ユダヤの民たちが生活もボロボロ、気力も信仰も何もかも失って落胆していた頃でした。振り返って確かに、私たち人間には自分勝手なところがあって、自業自得の結果を招くこともあります。何で食べたんやろ?と言われても、自分でも分からないことも少なくありません。それでも自分で立って、限りある命の中で懸命に人生を耕しつつ生きることを神さまは認められ、そういう人生をよしとされ、あまつさえサポートして送り出して下さる。私たちの神はそのような神なのだ、と著者は伝えたかったに違いないのです。

 混沌の中で言葉をかけられること、暗闇を光で照らして下さること、これが神さまの創造の第一だと先週教えられました。それに加えて、失敗してもサポートして自分で立って生きるよう送り出して下さる神さまだと今日示されました。これに応えて生きる私たちでありたいと心から思うのです。

神さま、私たちの人生はつまづきと失敗に満ちています。でもいつもあなたの励ましがあり、許しがあって、再び立つことができますことを感謝します。あなたのサポートを感謝して生きる者として下さい。