「万が一」の事態に備えるべく、様々な保険が用意されている今日。それだけで万全ではないにせよ、選択に迷う。
「一冊の本の中で、たったひと言でもこれだと確信するものを掴むことができさえすれば、よしとする」と某牧師。
テキストは巨人・モーセの人生の出発点。本来は申命記まで続く長い記述を読んで初めて全貌を知ることになる。
さわりだけで分かった気になってはならないが、テキストに描かれることだけでも、これだと思わされる内容。
それはモーセの人生を様々な人々が助けたという事実。誕生から、何人もの女性が彼を生かそうと動いた。それはモーセ自身のあずかり知らぬことではあるが、これこそ神さまの支えである。
このことは誰の人生でも同じだ。試しに、自分の頑張りの記憶をノートの左欄に、助け支えられた記憶を右欄最後まで書き出してみれば分かる。どれだけの支えがあったか。まして記憶にない支えは数知れないだろう。
齋藤神学生が「選択しない選択」という奨励をした。彼女だけの選択ではなく、信仰は誰にとっても「選択しないという選択」の決意の連続だ。
思い切って、自分自身を神さまに預ける。これが究極の保険である。

<メッセージ全文>
 テレビのコマーシャルを見ていて、サプリメントや健康食品に続いて数が多いなと感じるのが、様々の保険のコマーシャルです。「通販型もいいかなって」とか、「そんなに?」とか、「10分で無料お見積り」とか聞かされ続けていると、やっぱり保険は必要なんだろなと洗脳されて来ます。「そんなに?」というのは、そんなに安いの?という意味です。

 でもいつも、いや待てよ、とブレーキをかけられるのが、「10年連続業界ナンバーワン」だとか、「お客様満足度97.5%」とかいう数字です。つい「ほんまか?」と突っ込みを入れたくなるのです。

 確かに人生何が起きるか分かりません。その「万が一」に備えて、数多くの保険が用意されている訳です。が、予想される「万が一」が実のところ結構多過ぎて、すべてを網羅することは不可能です。諦めて「なるようになれ」で生きるのも心元ありませんけど、サプリメントや健康食品に似て、どれだけ求めたとしても万全ではないし、それだけで人生が安心や満足ということにもならないのでしょう。

 「本の広場」というキリスト教関係の書物の書評を集めた小冊子が月刊で出ています。その巻頭言に毎月牧師や神学校の先生たちが自分に影響を与えた本や人間を紹介するコーナーがあります。

 正直、題名も知らなかった、著者も聞いたことがないというような本が紹介されることがあります。その本と若い頃出会って、懸命に読み、衝撃を与えられ、今に至っている。そんな文章を読むと、私は少しく落ち込みます。自分にはそこほど決定的な出会いもないし、そこほど懸命に読んだ記憶もないからです。

 毎日新聞のコラムで、幅広いジャンルに渡って誰かの言葉を紹介されている鷲田清一さんは、家庭の医学とかしかない家に育って、初めて一冊本を読んだのは16歳の時だったと書かれています。そういう話を聞くと、何だかホッとさせられるのです。

 本の広場の9月号巻頭言で、岡山の旭東教会の森言一郎牧師が「身勝手ですが、これでもだいじょうぶ」という文章を書かれていていました。

 その大丈夫とは、応用可能な本の読み方をするという術で、こう言われています。
「一冊の本の中に、一行、一文。否、たったひと言でも「これだ」と確信するものを掴むことが出来さえすれば、よしとする、というもの。実際、そのような邂逅を与えられた数冊の本を時どき引っ張り出しては、しばらく眺め、重ね置き、私は安心して生きている。」

 そう書かれているのです。これもまた心慰められる思いがします。万が一に備えてあれこれの保険をかけないで良いよ、少々いい加減でも、必要なことはきっと与えられるよ、そう言われているような気がするのです。自分に都合の良い解釈かもしれませんが。

 さて、今日テキストに登場したのはモーセです。ユダヤ民族にとっては、まさしく「巨人」のような存在です。彼の一生を知ろうとしたら、この出エジプト記から始まって、レビ記、民数記、申命記まで読まねばなりません。間にたくさんの神さまからの命令がはさんであるので、なかなかに大変です。

 申命記最後の34章に120歳で亡くなったということ、その後モーセのような預言者は現れなかったということが書かれています。エジプトの地から、男性だけで60万人のユダヤ人同胞を引き連れて脱出し、40年に渡る旅をリーダーとして導き、約束の地カナンに入る前に亡くなったモーセでした。ただただ偉大としか言いようのない人です。

 その偉大な人生の始まりの部分を今日テキストとして読みました。彼の人生の全体像からしたら、ほんのしょっぱな、一部に過ぎません。それでも森牧師の文章をお借りするなら、今日読んだわずかな文章の中からでも、「これだ」と確信するものが掴めると思いますし、そうであれば「それでよし」として良いのだと思うのです。

 いやいや、それは身勝手過ぎる。やっぱり最後まで読むのが基本だと言われる方もいらっしゃるでしょう。それはその通りです。もしかしたら、誰よりもモーセ自身が一部分じゃなくて、全部を読んで欲しいと言うかもしれません。でも読んだら、モーセも結構悪いことをしていて、幻滅してしまうかもしれませんよ。それでも良かったら、全部読みましょう。

 今日読んだモーセの人生のほんのさわりですが、そこには驚くべき神さまの守りが満ちあふれていました。エジプトで増大するユダヤ人たちの存在を嫌って、王ファラオはユダヤ人男児の殺害命令を出すのです。ひどい虐殺の命令ですが、王の命令は言うまでもなく絶対です。

 下手をすれば背いた罪で、自分の命も危うい状況の中で、まずは助産婦たちが行動するのです。これは1章最後に記されていることです。

 助産婦たちの賢いやり方の上で、無事生まれたモーセは、パピルスの籠に入れられてナイル川へと流されます。これはこれで賭けですから、命のピンチです。でも何と王女が救うのです。更には姉であるミリアムが上手に立ち回って、実母のヨケベドを乳母にして直接育てることに成功します。そして王女からモーセという名を付けられるのでした。

 こんな風にして、もしかしたら最初からなかったかもしれない命が、女性たちの思いがけない、しかし命がけの度重なる行動を通して守られ、モーセは成長をしてゆくことになります。モーセにとっては、全く乳幼児の頃のことで、全く預かり知らないことでした。彼自身の努力や頑張りは、ここには何一つないのです。本人の関わりようがない場所で、命をつなぐリレーが行われました。これが神さまの配慮と計画でした。

 もちろん、モーセの人生を振り返れば、たくさんの課題がいつもあって、彼は誠実にそれに向かい合って生きました。何も考えず、なるようになれという人生を送った訳ではありません。彼には彼の努力もあり、頑張りは当然ありました。自分の知らないところでの助けをことさら言われても困るという反論もあり得るでしょう。

 しかし、それはないのです。誰でもだからです。みんな、自らの預かり知らないところからの助けを得て今があるのです。預かり知るところの助けもまた幾多あることは、言うまでもありません。40年に及ぶエジプト脱出の旅は、モーセ一人で成し遂げられたのではなく、アロンを始め色々な助けと支えがあって実現しました。それを備えたのは神さまです。2章にはそのことがぎっしり凝縮されていました。

 旅を無事に導いたモーセは、「リーダーになれ」と神さまから声をかけられた時、私にはとても無理と断った初めの頃とは全然違う心の余裕を十分に持っていたことでしょう。自分一人では無理だから、神さまが行く先々で必要な助けと支えを下さった。これ以上の満足はない。だから安心してヨシュアへとバトンタッチをなしました。思えばモーセにも二人の息子がいましたが、彼は息子に継がせること、何かの要職に就かせることなど何もしませんでした。それはまさに神さまの仕事だったからです。

 例えば生命保険に入るには、幾つかの条件をクリアしなければなりません。現在ガンではないとか、心臓や脳の疾患ではないとか。何より安いと言っても、保険料が必須です。保険って、保つのが険しいって書くのは、誠に皮肉ですよね。

 皆さん、私たちは人から「怠け者」のように言われたくないという小さいプライドがありますから、俺だってせめてこれくらいの努力はしたんだぞ、何もしなかったんじゃないぞと密かに思っていませんか?私は思っています。

 自分の努力、それをノートに左の欄に書きだしてみましょう。それから一方で、右の欄には、あの時あの人にお世話になったという記憶を、これも思いつくまま書いてみましょう。恐らく結構あるのではないかと想像します。でも人によっては、他人からそんなお世話になった覚えはないという人もいるかもしれません。ではモーセのように赤ちゃんだった時はどうだったでしょう。自分の預かり知らぬところでの支えがあって、今の自分がある、このことはどうしても記さねばならないことでしょう。

 10月第2週の神学校日礼拝で、齋藤歌歩さんが「選択しないという選択」という奨励をされました。あれこれ選ばない、目の前に与えられるものに対応して生きて行くという、とても爽やかで誠実で、心が洗われるようなメッセージでした。

 その通り、それは彼女のみの選択に非ず、信仰は誰にとっても選択しないという選択、その決断の連続であるのです。お金ではありません。自分はこれだけの努力をしますという条件でもありません。信じて、すべてを神さまに委ねます、賭けますという決意だけです。何かの折に、どうなるかは分からないけれど、思い切って神さまにみんな預ける。自分自身を賭ける。これこそが究極の保険なのです。この保険にともども入りたいと思います。

天の神さま、あなたを信じ、あなたにすべてを委ねます。その決意を与えて下さい。その生き方の向こう側に平安が待っていることでしょう。その平安に、私たちを招き入れて下さい。