「労伝ニュース」最新号の巻頭言にかつてインターンで釜ヶ崎の人たちから多くの励ましを与えられた感謝を、Fさんが綴っている。
幼子になけなしのお金をあげようとした労働者の光景を思う。綺麗ではないが、計算のない姿は美しかった。
バビロニア捕囚によって祖国イスラエルに残って生きた人たちも、希望のない半世紀を送った。テキスト:イザヤ書52章、「良いしらせを伝える」預言が、彼らに与えられた。預言者の脳裏に浮かんだのは、知らせを伝える人の足だった。
男性を戦いに取られた人たちの望みは、勝ち負けの報告を超えて「終わった、解放された」の知らせに尽きたことだろう。
ボロの「ランナーの靴音」は、「立ち上がれ、自分を蹴り、悲しみも涙もない勝利など聞いたことがない」と歌う。
その歌詞のごとく、終わったからとて、すべてが変わる訳ではない。愛する夫・息子らが帰って来るのでもない。
それらの悲しみをすべて知る神さまは、それでも「奮い立て」と励ましを送る。それは「立ち上がれ」ということに他ならない。
アドヴェントが来た。真に解放を告げる方の誕生がやって来る。一人でも多くの友にその喜びを告げるランナーに、私たち自身がなりたいと思う。

<メッセージ全文>
 関西労働者伝道委員会の通信である「労伝ニュース」。最新の166号を先週出しました。今号の巻頭言はFさんが「働きたくなかった私へ」と題して文章を書いてくれました。Fさんは、東神戸の礼拝にも一度来てくれましたが、私にとっては神学部の後輩でもあり、神学生の時に関西労伝のインターンを経験した仲間でもあります。

 学生時代、上手く行かない家庭の問題などから、少々精神的に疲れていたFさんでした。「働きたくなかった」というのは誇張ではなく、本心からで、それは怠けたいということでは決してなく、将来に絶望的だったからです。無理やり自分を押し殺して働く人生に堪らなく不安が募っていたのです。

 今や沖縄で働いている彼女ですが、「最近、働くことの意味は、お金を稼ぐだけではないという実感に、徐々にたどり着いています。」と書いてあって、共感させられました。
そして、ここまで彼女を支えてくれたのは、誰よりも釜ヶ崎の人たちだったと改めて知らされました。
「働くことは生きること。生きてさえいれば、誰かと出会い、その働きが交差していく。釜ヶ崎の大先輩たちが私に教えてくれた、人生の辛さ、惨めさ、うれしさ、面白さのお陰で、喜怒哀楽を愛おしく思えるようになりました。たくさんの人に背中を押されて、私も苦悩する労働者の一人になり、ホッとしています。」

 こう続けられていました。いっときは自分を肯定できないで、激しく悩んでいた時期が長くありましたから、本当にうれしく思いました。私も、彼女と同じように釜ヶ崎から多くのことを教えられて今に至っています。Fさんが受けた励ましを思いつつ、思い起こす一つの光景があります。夏祭りに連れて来られた幼子へ、釜ヶ崎の酔っ払いのおっちゃんがお小遣いを上げると言ってポケットから500円玉を出した光景です。
汚れたズボンのポケットには、クッキーか何かお菓子が裸で入っていたので、500円玉にはお菓子の破片がいっぱいくっついていて、とても綺麗とは言えませんでした。しかもその子はまだ3歳くらいで、500円は多過ぎました。と言うより、価値が分からないので意味はなかったのです。それより何より、その500円はおっちゃんにとって、その時のほぼ全財産だったと思います。少なくとも、それがあればあと一杯か二杯飲めたはずです。
その時初めて会った知らない子どもでした。でも、彼は嬉しかった。ただただ嬉しかったのです。傍らで見ていて私は思わず涙がこぼれました。
羽仁説子と言う人が、かつて「愛する勇気」という文章を書きました。
「人間が人間に対する愛の働きかけは、どんな場合にも勇気がいる。自分が損をするかもしれない、理解してもらえず恥をかくかもしれないが、一歩踏み出して行動する。キリストは、自分に損がゆかないように、善意というような思い付きに、体裁をまぶしたような良識で、よい子になることを激しく否定して、金持ちがたくさんのお賽銭をあげ、貧しい一人の女がわずかな献金をする。しかしそのお金の重さは全く違うと鋭く指摘しています。慈善は友情に基づいている場合より、自分の心の安心のため、世間体、責任など計算があることは否めないと思います。温かいようで冷たい計算が入り込みやすい。むしろ、計算に合わないのが友情です。」

 あの時のおっちゃんは、ためらいや躊躇を飛び超える勇気を出したのでしょうか。背景は分かりません。一言言えるのは、計算などしなかった。そしてその光景は美しかったのです。

 さて、アドヴェント初日の今日与えられたテキストは、第二イザヤの有名な「良い知らせ」を告げる者の記述です。2600年ほど前になります。半世紀に及ぶバビロニア捕囚が終わりの時を迎えました。しかしこの出来事はバビロニアに捕囚として連れて行かれた者、祖国イスラエルに残された者、それぞれ両者に深刻な傷を与えました。バビロニアという異国で奴隷として生きた人々は、もちろん自分の人生に全く肯定感が持てず、偽りの思いで死んだように生きたことだったでしょう。

 一方、祖国イスラエルに残された民たちもまた、将来への展望も希望も何も持てない絶望の中に生きたのです。主だった人たちのほとんどがバビロニアへ捕囚となって連れて行かれました。エルサレム神殿も町も無残に壊され、復旧も復興も見込めない、従って何の元気も与えられない半世紀を歩んで来たのでした。

 今日の記述は、この祖国イスラエルに残された人々に向って与えられた預言者からの、「良い知らせ」のお告げでした。その知らせを告げる役目を負わされたのは、他ならぬ預言者自身であったでしょう。その時彼はその知らせを告げる者の足を思い起こしたのです。

 それまでも戦いが繰り返されたイスラエルの歴史でした。ひとたび戦争が起きると、ただちに大事となります。一家を支える男性たちは、みんな駆り出されるからです。残された女性たちは子どもや老人を抱えて懸命に生活して行かねばなりません。戦地の夫や子どもたちから手紙が届く時代ではありません。電話がかかる訳でもありません。生きているのか死んでいるのか、何の情報もない苦しい生活の中で、ただ期待して待つのは「戦争が終わった」という知らせだけなのです。

 戦争に勝つにせよ、負けるにせよ、勝ち負けより先の一番は「戦いが終わった」という情報、それだけを心待ちにして生きる訳です。その情報を伝える者は誰でしょう。今も言いましたように、手紙はない、ラジオもない、ましてやスマホなど、通信手段のない時代です。軍からの伝令は一部にはあったでしょうが、全国津々浦々までの知らせとはなりません。大方は、誰かが「終わった」という情報をどこかで得て、そのバトンをついで喜びの余りあちこちに走って伝えた、これが実情だったのでした。
預言者の脳裏には、そんな喜びの知らせを伝えた誰かの思い出が強烈に記憶に刻まれていたに違いないでしょう。先のラグビーワールドカップを思い出します。日本にとって大事な予選の二戦目、アイルランド戦。私は釜ヶ崎に行っていて中継を見ることができませんでした。帰り道、家からラインが届いて、日本が勝ったと知らされました。もう嬉しくて、でも半分信じられなくて、でもやっぱり嬉しくて、阪急に乗っている間じゅう、ずっと泣いていました。

 文字で伝えられただけでも、これだけ嬉しい経験をしました。そうならまして、待ち望んだ「解放の時」を直接知らせてくれた人が来たなら、どうでしょう。イスラエルの民に解放を伝えたその人は、舗装道路の上を立派なランニングシューズを履いて来たのではないのです。あちこちの山を越え、谷を越え、粗末なサンダルを履いて、傷だらけになりながら走って来たのです。だから、きれいであるはずはありません。むしろボロボロだったと思うのです。

 ボロという歌手がいます。釜ヶ崎の日雇労働者のためにも歌ってくれる「ランナーの靴音」という歌があります。「立ち上がれ、立ち上がれ、立ち上がれ。」、「自分を蹴り、悲しみも涙もない勝利など聞いたことがない」。彼のコンサートはいつも観客と一緒になって、このサビの大合唱で終わるのですが、この「自分を蹴り」、「悲しみも涙もない勝利など聞いたことがない」という歌詞にハッさせられ、励まされます。

 走る人は道ではなく、自分を蹴りながら走るのでしょう。解放を告げる人はそれをしたからと言って、報酬を貰える訳ではありません。ただただ平和を伝えるため、幸せな良い知らせを伝えるため、それを聞いて泣きながら喜ぶ人の顔を見るため。苦しくなったり、諦めそうになっても、自分を蹴って、走り続けるのでしょう。

 これまでの深い傷跡をみんなが抱えています。戦いが終わってすべてがめでたしとはならない現実の厳しさがあります。残念ながら先に苦しみの果てに亡くなった方は、もう戻っては来ません。戦争は終わり、解放の時は来たけれど、愛する夫や息子は帰らないかもしれないのです。

 それでも、それらの思いのすべてを知る神さまがついているから。導いて下さるから。つらかった捕囚はついに終わって解放の時が来たのだから。これからは神さまが示される平和が待っているのだから。奮い立て、奮い立てとイザヤは語りました。起き上がれという意味です。立ち上がれということです。悲しみも涙もない勝利など確かに聞いたことがありません。すべてを包み込む神さまがなお「立ち上がれ」と声をかけられるのでした。

 いよいよ、真に解放を告げ、平和を告げ、良い知らせを下さる方の誕生を待ち望む時がやって来ました。私たち、心からその日を待ち望みます。それ故に、私たち一人ひとり、私たち自身がその喜びを知らせる者の一人となって、一人でも多くの友にクリスマスを伝えたいと思うのです。私たちが知らせを告げるランナーです。
ヤッホー ホット ラン ラン ラン!

天の神さま、新しい教会暦をありがとうございます。クリスマスまで救い主の降誕を喜び、感謝のうちに待ち望みます。一人でも多くの友に伝え知らせることが出来ますよう、私たちを用いて下さい。喜んで、熱く、軽やかに走るものとならせて下さい。