太宰治の「帰去来」。のほほん顔で生きて行くのかもしれないこれから。足元しか見えなかった時代だった。
イエスが生まれる500年前、バビロニア捕囚が終わっても元気の出ないユダヤの民に、ゼカリヤは神殿建設を訴え、更には幻を語った。「再建のあかつきには、あなたがたの只中に住まう」と約束された神の思い。
それから500年、神殿にザカリヤ(ゼカリヤ)という祭司が勤めていた。ガブリエルは「子ども(ヨハネ)が与えられる」お告げをした。足元しか見えなかった夫婦にはにわかに信じがたかったが、その通りとなった。足元だけ見るのでは足りなかった。
中村哲さんに洗礼を授けた藤井健児牧師は、全盲で、盲導犬の助けを得て伝道に携わった。牧師の生きざまを見て、中村さんは医師を志す決意をなした。
吉田拓郎が歌う「今日までそして明日から」。生きてみるではなく、生きて、見るではないか。
中村さんの前に藤井牧師がいた。イエスの前にヨハネがいた。私たちの前にイエスがいる。
「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」(ヘブライ13:7、新改訳)


<メッセージ本文>
太宰治が34歳の時に書いた短編の私小説に「帰去来」という作品があります。その冒頭は次のような下りです。
「人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんなことだろう。みんなに大事にされて、そうしてのほほん顔で生きてきました。これからも、やはり、のほほん顔で生きていくのかもしれない。」

たくさんの人にお世話になってきたけれど、きっと死ぬまで恩を返せそうにはないと思うとちょっとつらい。そんな気持ちを抱えて故郷・青森津軽に一時帰郷する物語となっています。苦手な兄とラッキーにもすれ違い、思いがけず原稿が売れて良かったという結末です。

この作品が書かれたのが1941年です。既に日中戦争のさなか、太平洋戦争が新たに開始された年。時代状況からすると、存外にのんきな小説なんですが、自分の足元しか見ない、そのように生きざるを得ない社会だったと言えるのかもしれません。或いは敢えてそんな自分だけの生きざまを時代にぶつけたのかもしれません。

さて、今日与えられたテキストはゼカリヤ書でした。バビロニア捕囚が終わって、およそ20年ばかり経ちました。イエスの生まれる500年ほど前のことになります。バビロニアに破壊された神殿を再建することを通して、人びとに生きる希望を持ってもらいたいと預言者は幻を語りました。幾つも幻を語った中の第三の幻が今日のテキストです。

いつまでたっても何も変わらない現実の中で、ユダヤの民たちは神さまの存在さえ疑うようになっていました。この現実に神さまがいるとは思われない。足元しか見えませんでした。無理もありません。夢を見る気持ちにはならないのでした。実際、捕囚の後何も社会も個人の人生も変わらないのです。太宰とは少しく違う事情でしたが、自分たちはその現実の中で、のほほん顔でないとしても感情を表に出すこともなく、これからも黙々と足元だけ見て生きてゆくしかないという諦めが漂っていたことでしょう。

その民たちに、ゼカリヤは「神殿再建のあかつき」には、「あなたの只中に住まう」という神さまの約束を懸命に語りました。神がいないのでは決してないという叫びでもありました。残念ながら人々にほとんど聞かれることのないままに時代は過ぎることになりました。

そして500年。エルサレムの神殿にザカリヤという祭司が勤めていました。ザカリヤとは、ゼカリヤのギリシャ語発音です。つまり同じ名前です。その妻エリサベトともども、「神の前に正しく、非の打ちどころがなかった」とルカは記しています。ただ、二人にとって非常につらかったのは、子どもが与えられなかったという現実でした。

そのザカリヤが神殿で働いている最中に、天使ガブリエルがやって来て、神さまの言葉を伝えるのです。この後、子どもが与えられるということ。その子にヨハネという名をつけよということ。その子は主の道備えを為す人になるということ。既に高齢になっていた二人にとって、あり得ない、にわかに信じがたいお告げでした。ひたすら正しく生きた夫婦でしたが、目の前のこと、足元のことがすべてでした。しかし、お告げの通りになったのです。イエス誕生の前に、このような出来事が起こされました。

先週は、中村哲さんのお話をしました。今日は中村哲さんが中学3年生の時、洗礼を授けた藤井健児牧師の話をします。藤井牧師は現在、福岡市東区にある香住ヶ丘バプテスト教会の名誉牧師です。12月11日、中村さんの告別式で88歳の藤井牧師が「残念でならない」と弔辞を読まれました。

藤井牧師は、小学校入学直前に、自転車と衝突する事故に遭いました。左目の眼球破裂という重症を負い、失明を与儀なくされました。かねて入院していた父親は、この事故のショックで、二週間後に亡くなりました。小学校に入学できず、盲学校に入学しました。

本人にも一家にとっても、とてつもない大きな出来事だったでしょう。それでも、まだ右目が残っている。将来は盲人と健常者の架け橋となる教育者を目指したいと夢見て成長しました。ところが二十歳の時、緑内障で残った右目を失明することになるのです。どんな失意だったか、言葉もありません。

釧路のある牧師が、藤井牧師のその時から牧師になるまでをブログで紹介されています。
絶望の淵に落ちた。いっそ死のうと、何度思ったことだろう。生きていてもなんの希望があるだろう。自分が死ねば、負担をかけてきた家族も助かる。自分も苦しみから逃れられる。迷い、すさみ、もがく日々がつづいた。
そんなとき、ときたま訪れていた大学近くの教会でキリストの言葉を知った。『私(イエス キリスト)は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』(ヨハネ8:12)

最初は、賛美歌を聞くのが楽しみで教会に行く程度だったが、肉体的、精神的絶望の中で、この言葉が心を捕らえはじめた。

もう目を治そうとは思うまい。失ったものを悔いるより、あるものに感謝しよう。目は失ったが、手も、足も、あるではないか。与えられたものを生かす人生にしよう。自分と同じ境遇の人びとのために生きていこう。このイエスの言葉は、今も藤井さんの名刺の裏にある。

ヘレン・ケラーに会ったのも、このころだった。昭和三十年、彼女が二度目の来日をしたとき、会って握手をする機会があった。またヘレン・ケラー奨学金をもらうこともできた。教育者の道から信仰の道へ。
志を決めた藤井さんは母や友人が引き止めるのを振り切るように東京から離れ、バプテスト派の西南学院大神学部を受験、ここでも、盲人の入学は初めてという難関をパス、五年間の勉学ののち宣教の道に入った。
以来、香住ケ丘教会の牧師として人びとに光を与えてきた。 「わたしは光を失い、光を得ました。しかも、得た光は二つ、信仰によって得た心の光と盲導犬という光です」

中村さんは受洗以降もしばしばこの藤井牧師を訪ねます。そして高校生の或る日、「先生も目が悪いのに頑張っているから、僕も社会のために頑張りたい。」「世のためになる仕事をするために医学部に進みたい。そして将来は海外で人の役に立つ仕事
をしたい」、そう打ち明けたのでした。

吉田拓郎が「今日までそして明日から」という歌を歌いました。1971年のことです。右肩上がりの経済成長は陰って来ました。自分だけの人生を見るしかありませんでした。「私は今日まで生きてみました。時には誰かの力を借りて。時には誰かにしがみついて。時には誰かをあざ笑って。時には誰かに脅かされて。時には誰かに裏切られて。時には誰かと手を取り合って。私は今日まで生きてみました。そして今私は思っています。明日からも こうして生きて行くだろうと」。

当時私は中学1年生だったので、歌詞ではなくメロディーで聴いていました。それから少し経つと、人生そんなもんかな、という思うようになりました。更に少し経つと、人生そんなもんだよな、と思うようになりました。まさに足元だけでした。

でもそうではありませんでした。生きてみるのではなく、生きて、見るのです。そのように、見つめるよう神さまは促されるのです。吉田拓郎は若かった。同じように私も全体像は分からなかったのです。誰もなかなか一瞬一瞬のことしか見えません。足元ばかりでそれ以外は見えにくいのです。まして自分の前のことに気づく余裕などなかったのです。吉田拓郎は太宰の「帰去来」を読んでこの歌を作ったのでしょうか。

中村さんの前に、見るべきものが置かれておりました。イエス誕生の前に、ヨハネが置かれたのと同じでした。預言者ゼカリヤを通して「あなたがたの只中に住まう」と語られた神さまがいました。中村さんはそれをしかと見たでしょう。彼は続く者、続けられる者、繋げる者として立てられたのでした。

ヘブライ人への手紙の中にこうあります。「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」(13:7、新改訳)。

ゼカリヤとは「主が覚えて下さる」という意味です。例え人が忘れても、神は覚えて下さる。そして見るように促される。私は今日まで生きて、それを見ました。私たちの前に、イエスが置かれていました。私たちもそれを見るよう促されています。その信仰に倣いたいと思います。

天の神さま、み子の降誕をありがとうございます。今日までの歩みを思い、また今日から明日への歩みを皆と始めます。祝福のうちに後押しして下さい。