「生き残ったのは、変化に適応できる弱者だった」との学者のレポートは興味深い。
「東方の博士たちの来訪」の記述には、「驚き」が描かれない不思議さが込められている。
まずヘロデ王から呼ばれた彼ら。庶民であれば普通「驚かんばかり」の王宮にも、堅固な警備に対する恐れも何も記されていない。
新天皇の即位報道から、なされた一連の豪華な儀式を見た。多くの人はそれを「当然」のように受け止めたのだろう。
その後星の導きによりベツレヘムを訪れた彼らは、そこが王宮とははるかに異なる貧しい家畜小屋だったこと、両親の他に守る人間がいないことへの驚きが書かれていない。代わりに「喜び」が描かれる。

 恐らく「弱いことが本当は強いこと」を知ったから。本当の王様は豪華な宮殿にではなく、「人々の只中」にいることを目の当たりにしたから。
 違う帰路を選んだのは、ヘロデ王への防衛措置だけだったとは思われない。新たな生き方を受け取ったからだ。
 クリスマスは、私たちの「当たり前」が根底から覆される出来事だった。

<メッセージ全文>
とても興味深い報告を読みました。ネアンデルタール人の脳は私たち人間の祖先と同じくらいの大きさだったそうです。私たちの祖先と言えば、例えばクロマニヨン人というような人たちですが、知能程度は同じだったということでしょう。でも彼らの体はもっと頑丈でたくましたかったそうです。
双方ともに生きていた時代もありましたが、3万年から4万年ほど前に、ネアンデルタール人は地球上から姿を消してしまうのです。どうして消滅したのかについては、諸説あるそうですが、普通想像されるのは、強い者が弱者を倒して生き残るという、「弱肉強食」という在り方だと思います。でもネアンデルタール人はそうならなかった。
このことについて、静岡大学の稲垣栄洋(ひでひろ)先生が「実は生命の歴史をみると、生き残ったのは強者ではなく、変化に適応できる弱者のほうでした」と述べているのです。人間がいつも未来を意識して今を生きているのを可能にしたのは、弱いから。弱さゆえに集団性を強め、その過程で仲間が何を考えているのかを想像する力を得た。ただし、その想像は一人一人異なる訳で、その多様性が生き残りのカギとなったのではないか、稲垣先生はそう考えるのです。
強い者は自らの強さの故に、変化を望まない。多様化もしにくい。そういうことでしょうか。

さて2019年最後の主日礼拝の今日は、いわゆる東方の博士たちの来訪の箇所がテキストに与えられました。ほとんどの方はもう改めて聞くまでもなく、よくご存じの出来事だと思います。
ただ、よく知っているのだけど、改めて聖書を読むと、不思議なことに気づかされるのです。それは「驚き」についてです。彼らは自らの占星術の示しによってエルサレムまでやって来た訳ですが、いきなりヘロデ王との面会が設定されるのです。
それは「ユダヤ人の王が生まれたのを星で知った」それでやって来たということを、誰にはばかりなく語ったのが発端となりました。異国からやって来た彼らは、異邦人とは言え、身分の高い人たちだったのです。しかも学者です。彼らが言っていること自体は、現在の王であるヘロデ王の地位を揺さぶる実に危険な話なのです。
でもテキストを読む限り、そのことへの躊躇やためらいが何も書かれていません。その上で王から呼ばれるのです。王からすれば、自分の地位を脅かす者がいるなら、どうしても速やかに排除したいと考えて当然です。まして悪名高いヘロデ王ならなおさらです。

その王に呼ばれて、学者たちが訪れたのは、言うまでもない王宮だったでしょう。王様のいるところ、それはきっと豪勢で美しくてきらびやかな場所であるに違いません。
今年は新天皇の即位がありましたから、私たちはテレビで何度も即位の儀式や、お祝いの食事会や、パレードの模様を見たことでした。何と言っても天皇ですから、新聞に載っていたメニューは忘れてしまいましたが、相当な御馳走でした。それが4回もあったようです。パレードのためのオープンカーも特注でした。何より、動員された警察官の数は相当でしたね。

それと同じかもっともっとです。王様のいるところは、基本世界で一番賢覧豪華なところであるのです。万一庶民が招かれたら、足は震え、目はしばたき、まともではいられないに違いありません。天皇は即位パレードの後も奈良や京都へ来て先祖に即位の報告をしたのですが、沿道でほんのわずか見かけたという人が、感動で涙ぐんでいました。
それなのに、学者たちにはそういう「驚き」が一切感じられないのです。本来、現実の王が目の前にいて、その王と相対しているにも関わらず、現王に対する相応の儀礼がほとんど感じられない訳です。

大体、宮殿は大勢の護衛の兵士たちによって強固に守られていたことでしょう。守らねばならないものがある人ほどに、警備はより厳重になるのが常です。何かあれば、即捕える体制があり、そんな場所を訪れているのに、それへの「恐れ」も学者たちから感じられないのです。
もしかしたら、彼らは自分たちの国において王宮に招かれた経験があって、初めてではなかったので落ち着いていたのでしょうか。よく分かりません。
結局彼らは王宮を退いてベツレヘムへ向かい、星の導きによってついに、ユダヤ人の王に出会うことができたのです。その王のいた場所とは。生まれて既に十日あまりが過ぎてはおりましたが、恐らく他に行くことはできなくて留まっていた家畜小屋であったに違いないでしょう。

はるばる東方からやって来たのです。野獣などの地上の危険もありましたし、強盗などこの世の危険もありました。それらを乗り越えてやって来た彼らが見た、王様のいるところ、それは、見て来たばかりのヘロデ王の宮殿のきらびやかさのかけらもない粗末な家畜小屋でした。大勢の護衛に守られた宮殿ではなく、両親以外誰も守りのない開けっぴろげの場所でした。

通常想像するなら、驚きの環境としか言えない場所でした。でもここでも「驚いた」風な描写は何もないのです。ただし、こちらの王様との面会は、ただ嬉しかった。彼らは喜びにあふれたと記されていますし、その幼子にひれ伏して拝んだと書かれているのです。私はその喜びは、うれし涙にくれる喜びだったと思っています。
本当は彼らは何も持たない貧しい幼子に驚かないはずはなかった。きっと驚いたのです。けれどもそれにまさって大いに喜んだのです。何故なら、弱いことは強いことだと実感したからでしょう。また何も持たないことの大いなる自由を感じたからでしょう。そして何よりも、本当の王様は人々の只中にいることを目の当たりにしたからでしょう。
彼らは来た道とは違う道を通って帰ったとあります。最大の理由はヘロデ王からの攻撃を避けたからです。でもそれと同時に、やっぱり違う視点を与えられたからでもあると思うのです。ここにその後の彼らの生き方が暗示されているように思えてなりません。
クリスマスの出来事は、私たちが普段これが常識、当たり前と思っていることが根底から覆される出来事でした。ただ驚きではなく、そこには大きな喜びが伴っていました。

天の神さま、改めて主の降誕に感謝します。目に見えるこの世の豪華さではなく、学者たちが見た、小さな光を大事に新年を迎える者として下さい。