「初心」とは、もともと能からの言葉で、どの段階であろうと、「自分は未熟」だと覚えること。「既知」の領域が拡大するにともない「未知」の領域も拡大する(林達夫)。
ギリシャ語カリスの訳が「恵み」だが、「身を低くする」という意味を持っている。そもそもは「神が敬虔な者や苦しんでいる者を好意をもって省みる」という意味がある。
「アメージンググレース」で歌われているのも
身を低くして寄り添われた神の姿である。
山梨ダルクの通信「甲斐福記」から、待望のナイトケアハウス建設の報を知らされた。
ダルクを立ち上げた代表もかつては薬物依存症で苦しんだ。彼を取り調べた元警察官が、職を辞してダルクに再就職をした。おもいがけない関係が生まれた。
テキスト14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とは言うまでもなくイエスを指す。
未熟であろうはずのない神が、私たちと一体となって生きると初心を示された。私たちもそれに応え、共に歩みたい。「一致」して。

<メッセージ全文>
 新しい年に入りました。お正月に新たな気持ちをもって、「初心忘れるべからず」と気を引き締めた方もいらっしゃたかもしれません。
 この「初心」と言う言葉ですが、長い間、「初めの心」だと思っていました。何かを始めるころに持った、その原点の心を忘れないこと。それはそれでとても大切な戒めであることでしょう。
 ですが、存外に、この初心を忘れず持ち続けることは難しいものです。いつまでも初々しい気分ではおれません。物事に慣れるにつれ、今ある課題に気を取られて、初めの心を忘れてしまう。わざとではないにしても、多くの場合はそうなりがちだと思います。

 でも最近、「初心」の本来の意味を教えられました。御存じの方もいるでしょう。もともとは能から来ている言葉で、それは自分の未熟さのことを指すのだそうです。
 「始めの心」だとすると、どこかも影響を受けていない、まだ真っ新な、そしてまっすぐな心の状態のように受け取ります。でもそうではなく、自分は未熟だと覚えること、それが初心だそうです。

 そうすると、何も始まりの時だけでなく、途中の段階においても、ある程度歩んで来た現在の時においても、いつも今が当てはまる。どの段階になっても、足りないことは多々ある。決して思い上がってはならない訳で、「自分は未熟」だと心に刻むことは、本当に大切な「初心」なのでしょう。

 批評家の林達夫さんは、「既知」の領域が拡大するにともなって、「未知」の領域が狭まってゆくどころか、逆にかえってそれは正比例的に拡大する、と述べています。知らない諸事実が見えてくると、従来の理解では説明できないことも増える。それらをも説明できる視点に移行すれば、新たな問題のみならず、すでに解決済みの問題まで改めて浮上してきて、事態はいっそう複雑になる。優れた科学者がときに宗教へと「転向」したのもここに理由があると、林さんは言うのです。

 既に「分かっている」ことをはるかに凌駕する、まだ「わかっていない」ことの大きさがいつもある訳で、案外に理科系の方が信仰を持つことは珍しくないことを、私も実感しています。

 さて、新年礼拝の今日、ヨハネによる福音書の冒頭からテキストが与えられました。「初めに言があった」で始まる有名な下りの中の一段落です。短い箇所の中で、「恵み」という単語が繰り返し使われています。とりわけ16節では、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあるように、恵みのオンパレードのようです。

 教会では、この「恵み」という言葉をよく使います。私も使います。でも何かと言えばことさら「恵み」を口にする人がいます。それでちょっとおちょくる人も出て来ます。後輩のKさんが、以前神学生だった時、私が何か言うたびに「恵みです~」と返答してはギャハハと大笑いするのです。くそ、またおちょくられたと思うのですが、何でもかんでも恵みではないという既存の在り方へのプロテストがありますから、一緒に笑うしかありませんでした。

 今日はこの「恵み」という言葉について、学びたいと思います。

 恵みを英語で言うと「グレース」です。アメージング・グレイス(驚くべき恵み・くすしき恵み)というよく知られた名曲がありますね。グレース・ケリーという名前を御存じの方も多いでしょう。
 ギリシャ語で言うと「カリス」と言います。大体「恵み」と訳しますが、「恩寵」と訳することもあります。他にも優雅さだとか、美しさという意味もあります。グレース・ケリーはそっち系かもしれません。忘れてならないのは、「身を低くする」という意味と「感謝」という意味があることです。

 カリスは、ヘブライ語では「ヘーン」と言う言葉から来ていて、やっぱり「恵み」とか「恩寵」とかと訳するのですが、そもそもは「神さまが敬虔な者や苦しんでいる者を好意をもって省みる」という意味があるのです。

 それはラテン語の「グラティア」も全く同じで、一般に「恵み」と訳されるグラティアも、信仰的に用いる場合は「イエス・キリストにおいて啓示された、すべての人間に対する神の愛と慈悲」というのが、恵みの中身である訳です。

 要するに、私たちではなく、人間の側からではなく神さまが私たちへの愛をもって身を低くされたこと、それが恵みです。通常私たちは、神さまが私たちの必要を満たされ、願いを聞いて下さり、望みが叶った時に、恵みです、感謝ですという場合が多いのですが、そうではないのです。
先のアメイジンググレイス、歌ばかりでなく、船が嵐に襲われた時、「もし命が助かったら、奴隷商人を止めて、神さまのために働きます」と誓ったジョン・ニュートンの話もよく知られています。が、ニュートンの願いが聞かれたから、そして誓いの通りニュートンが新しく生きたから、だから恵みですという話ではないのです。大嵐の中で、何をどうすることもできないで、ただ祈ることしかできなかった小さな人間に、なお神さまが身を低くして寄り添われた、そのことこそが「恵み」であるのです。確かに、何でもかんでも恵みなのではありません。

 ところで昨年末、ちょっとうれしいことがありました。山梨ダルクから送られて来た「甲斐福記」という通信で知らされたのですが、一つは8年間かけて集まった献金4000万円を使って、待望のナイトケアハウスの施設を作ることができたという報告です。11年前、たった資金3万円で始められた山梨ダルクの活動がこんなに大きく展開されるようになりました。

 ダルクというのは、薬物依存症からの回復・復帰を目指す働きをしているところです。うれしかったというより、こんなことがあるのだと驚いたもう一つのことは、この山梨ダルクを立ち上げて今日まで歩んで来た代表の佐々木広さんを手伝おうと、職員としてやってきた菅原和弘さんのことです。

 佐々木さんもかつては薬物依存症だったのです。覚せい剤で3回も逮捕され、服役もしました。岩手県警で、当時佐々木さんの取り調べを担当したのが警部補・菅原さんでした。当時は佐々木さんを「ふてぶてしい奴」だと思っていましたし、繰り返し薬物に手を出す佐々木さんは「根性が足りない奴」と感じていましたし、ダルクの効果にも半信半疑でした。でも、懸命に生きる、生きようとする佐々木さんを見て「人間は変われる」のだと知ったのです。それで定年直前だった岩手県警を辞めて、佐々木さんを手伝うために山梨ダルクの職員として再就職したのです。59歳の転職でした。

 菅原さんは捕らえ、戒める立場でした。佐々木さんはかつて捕らえられた人でした。今は一致し、共に歩む仲間です。180度立場が違っても、一緒になれる時がある。こんな思いがけない新しい人間関係が生まれ、新しい歩みが生まれたのでした。

 テキスト14節にこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」

 言が肉となって、わたしたちの間に宿られたとは、イエスのことを指しています。イエスが私たち人間の中に、一緒になり、一体となったということです。それはこの世的な栄光ではなく、人間の期待や予想を超える栄光の出来事で、およそ未熟であろうはずのない神さまが、愛をもって身を低くし、起こされた出来事でした。神さまの初心は、人と一致すること、一体となって生きることにありました。

 私たちもその思いを心に留め、イエスと共に生きる共同体であるこの東神戸教会で、一緒に新たな歩みを始めたいと思います。心を合わせて唱和しましょう。「一致、にいの さん!」

天の神さま、あなたの深いみ心に感謝します。その心に応え、私たちも心を合わせて歩みます。どうぞ後押しして下さい。