スポーツチームには、しばしばクマやトラ、ライオンや狼など「強そうな」動物の名が冠される。
テキストの見出しに使われた「子羊」には、そのイメージはない。むしろ「弱さ」さえイメージされる。
その子羊と「世の罪を取り除く」の文言がどうにも結びつかない。ヨハネの意図は何か。
彼は「この方を知らなかった」と二度繰り返している。このような人物に会ったことがなかったという意味だろう。そのあり様を想像する。
東大全共闘で行動した最首悟(さいしゅ・さとる)さんは、その後大学教授として生きた。様々な思いを抱えて行き詰まった頃のこと。
4人目の子どもとして生まれた娘さんはダウン症で、更に8歳の時失明した。この星子さんとの関わりが最首さんを変えて行った。
星子さんを「鉢植えの花」に例えて「全くの無防備」な姿から、自分を示されると語り、「頼り頼られる」二者が、命の最小単位と知らされた。
人びとに向っては「私は羊飼い」と口にしたイエスは、神の前においては無防備な「子羊」として生きたのだろう。
私たちも「欲望」の人生を生きている。だが忘れたくない。私たちは「子羊組」の一員であることを。

<メッセージ全文>
 「もうじゅう はらへりくま」を読みました。「もうじゅう」って書かれています。でも読んでみたら、要するにお腹が減っていただけなんですね。年末年始のニュースでも、結構あちこちで、クマが出たとかイノシシが出たとか報道されていました。これも地球温暖化が原因のようです。山にエサがなくなって、仕方なく町に出て来ると、「もうじゅう」なんて呼ばれるのは、ホントは可哀そうですね。

 でも、クマは強い動物の一つと思われています。スポーツチームには、クマの名前がつけられています。アメリカのプロバスケットチームに、メンフィス・グリズリーズというのがあります。箕面自由学園のチアリーディング部の名前は「ゴールデンベアーズ」です。

 クマだけじゃなくて、阪神はタイガースだし、西武はライオンズです。ラグビーだとサンウルブス、狼です。こういう動物たちには力強い勝利のイメージがあるんでしょうか。

 それに比べると、今日読んだテキストの小見出しにあった「子羊」は、どうでしょう?ヨハネの言葉です。子羊と聞いて、皆さんはどんなイメージを持ちますか?多分、かわいいとか、優しいとかだと思います。間違っても「もうじゅう」のイメージは沸かないですね。

 さてイエスのことを子羊と言ったヨハネとは、たくさんの人に洗礼を授けたので、洗礼者ヨハネと呼ばれています。預言者ヨハネとも言われます。ただヨハネによる福音書のヨハネさんとは別の人です。イエスさまも、この洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。不思議なのは、ヨハネによる福音書にはそのことが書かれていないのです。代わりにヨハネはイエスのことを子羊と呼んだ、そのことが書かれていました。
ただし、ただの子羊ではなく、29節にあるように、「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだのです。「世の罪を取り除く神の子羊」という表現は、ヨハネによる福音書にしか出て来ません。
 そして別の箇所、9章では、イエスは自分のことを「私は良い羊飼いである」と語ったことが記されています。イエスは自分を羊飼いだと言ったのに、今日の箇所では、ヨハネはイエスは子羊だと言ったのです。いったい、何なんでしょう?

 今日は一曲、カトリックの歌を歌いたいと思います。
カトリック教会の典礼聖歌には、この「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我等を憐れみ給え」という同じ歌詞で、とてもたくさんの曲があります。私たちプロテスタント教会ではこうした歌詞の讃美歌はないことはないんですけど、ちょっとしかありません。あまり馴染みがないです。私たちの多くのイエスのイメージは、やっぱり羊飼いだと思います。でもカトリックでは、「神の子羊」というフレーズがよく使われていて、羊飼いよりも大きいイメージがあるのは、興味深いことです。

 さて、子羊という言葉からは力強さよりも、むしろ「か弱さ」のほうが圧倒的に想像されます。守られないと死んでしまう、生きられない、そういうイメージです。ですから、それと「世の罪を取り除く」という言葉がどうしても結びつかないのです。世の罪を取り除くなら、クマとかトラとかライオンのような強そうな動物のほうがよほどお似合いではないでしょうか。

 今日のテキストの中で、洗礼者ヨハネは「私はこの方を知らなかった」と二度繰り返して語っています。イエスより半年ほど先に生まれたヨハネでした。そしてヨハネとイエスは親戚の間柄でした。知らなかったはずはないのです。

 それは「知識」としてではなく、このような人物を見たことがない、出会ったことがないという意味だったのだと思います。自分の親戚で、ほんのちょっと年下であるイエス自体は知っていたに違いありません。そのイエスにヨハネは洗礼を授けました。ヨハネの弟子になりました。イエスの人生に触れることがそれまではありませんでした。普通だったら、イエスはお父さんヨセフの後を継いで、大工として生きて行ったことでしょう。でもそれらをすべて打ち捨てて、ヨルダン川にやって来て、ヨハネから洗礼を受けたのです。そして弟子になりました。その時に、きっとイエスについて何かが分かったのだと想像します。弟子から学んだのです。それはきっと「強さ」を誇ることではなく、「弱さ」を捨てないで生きる生き方についてだったのです。それが「子羊」という表現となりました。
最首悟という人を御存じの方いらっしゃると思います。生物学、社会学の先生です。東大の全共闘活動家でした。だから助手以上になれませんでした。長く助手を務め、和光大学に移りました。助手の頃、それだけでは食べられないので駿台予備校でも教えました。今、83歳になられ、和光大学の名誉教授でいらっしゃいます。

 東大の全共闘だったことがあまりに有名なのですが、御自分は「星子の父親をさせてもらっている人です」と自己紹介されます。
星子とは、最首さんの4人の子どもの末っ子のお嬢さんです。43歳になります。星子さんは、ダウン症で生まれ、重い知的障がいを負っていました。その上8歳の時、失明して全盲となりました。一人では水も食事も取れない、一週間のほとんどを寝たきりで過ごしています。

 学生時代は全共闘で鳴らし、生物学者として、社会学者として知られた最首さんは、しかし運動においても、学問においても行き詰まっていました。そんな40歳の頃、星子さんが誕生したのです。お連れ合いの五十鈴さんと懸命の世話が否応なく始まりました。
しんどくて、お荷物のように感じた頃もあったのです。でも、星子さんの存在を通して、教えられて行きました。最首さんは星子さんのことを「鉢植えの花」に例えて次のように言っておられます。

 「全くの無防備で、弱者そのもの。水が一つでも失われたら、枯れてしまう。その悠然とした身の委ね方に、いかに自分が欲だらけなのかを思い知る。命とは、分からず、計れない価値を持っている。」
「人にはどんなにしても、決して分からないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかな優しさに包まれるのではないか。」
「いのちの最小単位は、もたれ合う誰かとの「二者」。頼り頼られ、甘えていい。」
そんなふうに思えるように導かれて行ったのです。あの60年代安保闘争の闘士が、です。強くありたいときっと願っただろうし、そうあらねばならないと誓いもしたことでしょう。生物学者、社会学者として、学問を究め、究極の答えにたどり着きたいという欲求もあったでしょう。

 でも、何としても「分からないことはある」と、星子さんとの生活を通して教えられました。その娘、星子さんは「全くの無防備で、弱者そのもの」の存在でした。しかしだからこそ、かけがえのない命だと知らされたのです。

 最首さんは、相模原で起きたやまゆり園殺傷事件の犯人との交流を続けています。犯人は何でも「分かっている」人だと見ています。でもそうではなく、分かっていると思っていることが間違いで、本当は分からない。分からないから分かろうとすることが大切なのだ、そう語るのです。

 私は、イエスこそ「分からないことを分かろうと、懸命に生きた人」であったと思っています。弟子たち、人々に向かっては「私は羊飼いだ」と言いました。良い羊飼いは、命を捨てると。その通りになりました。

 でも自分自身は、神さまのみ前にあっては、何の力も持たない子羊であり続けたのです。或いは力を願ったなら、そうではない人生が送れたかもしれません。でも、子羊でいるために、お金だとか地位だとか、この世の力を何も望みませんでした。赤ん坊の時と同じように、無防備な人生を歩みました。無防備こそ、隣人に寄り添える資質、隣人から構えないで傍らにいることを許される存在であるでしょう。だからこそ、世の罪を取り除く賜物を授けられたと称されたのです。

 私たちは、力を得たいという誘惑に死ぬまでかられます。こんな弱い自分であってはならない。何とかして強くならなくては。そのためにあれこれ持たねば。全くの無防備など、この世であり得ないことだ。そう思うのです。

 それは悲しいかな、仕方ない。でも覚えておきましょう。私たちの救い主イエスは、私たちの羊飼いであると同時に、神の前では子羊でありました。私たちが強くなりたいと願う時、願ったのにつまづいて弱さを思い知らされた時、思い出しましょう。私たちはみな「子羊組」であることを。

 つい思います。クマ組のほうがいい。今日からトラ組になりたい。よし、ライオン組に行くぞ。でも、クラス替えはないのです。私たちは一生、子羊組です。カトリックであれ、プロテスタントであれ、東神戸教会であれ、神戸聖愛教会であれ、みんな子羊組の仲間です。大人になるとは、それを知ることです。

天の神さま、私たちを一人子イエスの子羊組に入れて下さり、ありがとうございます。このクラスで、優しさを学び、隣人と生きて行くことを覚えて行きます。これからも導いて下さい。