⊂本日の説教者⊃
山下壮起(やました・そうき)牧師
1981年京都生まれ。米モアハウス・カレッジでアフリカン・アメリカン研究専攻。同志社大学大学院神学研究科前期課程・後期課程修了。神学博士。扇町教会を経て、2016年から阿倍野教会牧師。
カレーと担々麺が大好きです。
著書:「ヒップホップ・レザレクション ラップミュージックとキリスト教」(新教出版社)
〇今週2月1日(土)兵庫教区伝道部主催
山下牧師は教区伝道フォーラムで「ヒップホップの福音」を講演する。 14時〜、神戸栄光教会: 詳細はチラシを参照。
<メッセージ全文>
出エジプト記6章2-13節
今から45年ほど前のことです。1965年11月15日、ニューヨークのとある劇場で「Day of Absence」という演劇が初めて上演されることとなりました。このタイトルは直訳すれば「不在の日」、意訳すれば「私たちのいなくなった日」となりますが、この劇はある日突然にアメリカ南部の町からアフリカ系アメリカ人が姿を消したらどうなるかを描いたフィクションです。
当時の南部では多くの白人の家庭がアフリカ系アメリカ人女性を家事手伝いのメイドとして雇っていました。ところが、ある日突然彼女らがいなくなると、赤ちゃんを子守りしてもらえず、誰も料理してくれないので食事をとることもできません。また、飲食店での料理人や荷物を運搬する人、清掃業者など、南部の生活や経済、社会全体を下支えしてきたアフリカ系の人々がいなくなってしまい、町は大混乱に陥ってしまいます。
社会におけるアフリカ系アメリカ人の重要性を認めず、社会の平等な一員と看做してこなかったアメリカ南部の人種関係を風刺したこの作品は一気に評判となり、上演回数は500回以上を越えました。この演劇において取り上げられている問題は、現代にも通じます。
2年ほど前には、トランプ大統領の移民政策に反対する市民たちの計画によって、「移民不在の日」「移民がいなくなった日」と題されたボイコット運動が、アメリカ各地で展開されました。一方で、日本にも多くの移民が暮らし、社会を支える大切な働きを担っています。ところが、「外国人労働者」という名称によって、移民として暮らす人びとの直面する問題が見えにくくされています。
日本でも、多くの人びとが労働者としてこの社会を支えているのに、その人びとが軽んじられています。もし、突然移民が誰もいなくなったら、わたしたちの生活はどうなるでしょうか。あるいは、今日の礼拝でその活動を覚える労伝の活動の中心である釜ヶ崎の労働者がいなかったら、大阪、関西中の高層ビルは建てられなかったでしょうし、高度経済成長もありえなかったはずです。
「わたしは主である」
今日の聖書箇所は出エジプト記からですが、出エジプト記の物語も移民や労働者としてのイスラエルの民の物語として読むことができます。より良い暮らしを求めてエジプトに移り住んだけれども、奴隷にされ、労働者として搾取されるようになったイスラエルの民を神様が救い出す物語です。
神様はその救いを実現するために、モーセとその兄アロンをリーダーに選びます。そして、エジプトの王ファラオにイスラエルの民を解放するように交渉させます。しかし、彼らが何度かけあっても、ファラオは聞き入れませんでした。それどころか、ファラオはさらなる労働を強いて、イスラエルの人びとに一層の苦しみをもたらします。
その結果、重労働を課せられたイスラエルの人々は、モーセとアロンがファラオに交渉したせいで酷い目にあった、どうしてくれるんだと二人を厳しく非難します。そんな状況のなかで、モーセとアロンは「一体何故なのか、どうしてあなたはイスラエルの民にこのような災いを下されるのか」と神様に激しく迫りました。
そんなモーセとアロンに対する答えが、今日の聖書箇所に記されています。神様はまず最初に「わたしは主である」と答えました。そして、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」と続けて答えました。そして、6節、7節、8節でも「わたしは主である」と再び繰り返しています。
「主」という言葉を聖書や礼拝、祈りのなかで耳にタコができるほど聞く私たちにとって、この神様の言葉は当たり前のことです。そして、それがどうモーセの問いに対する答えになるのかと思ってしまうかもしれません。
この「主」という言葉は、ヘブライ語では「ヤーウェ」という言葉です。その語源は諸説ありますが、旧約聖書においては存在、つまり、「ある」ということを意味する「ハーヤー」という言葉との関係で理解されます。この言葉は、神様がモーセにイスラエルの民をエジプトから導き出す務めを与えたときに語った「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉でもあります。
「わたしはある」とは奇妙な名前ですが、これは存在をはっきりと示す言葉です。そして、それは「あなた自身がここに存在しているということに目を向けなさい。あなた自身の存在を価値あるものとして大切にしなさい」という神様のメッセージです。そして、神様が一つ一つの存在の根源であり、私たちを存在させ、生かし続ける命そのものであることを伝えるものです。
7節では、神様はモーセを通してイスラエルの人々に「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」と語りました。
しかし、それでも9節に記されるように、「厳しい重労働によって意欲を失った」人々は、モーセの言葉を聞こうとはしませんでした。このことは、人間の尊厳を無視して重労働を課す奴隷制という不条理が、人間の想像力を奪い、そこからの解放を思い描けなくし、自分の存在に意味を見出せなくさせてしまうことを物語っています。
そこで神様は再びモーセに、ファラオのところに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさいと語ります。しかし、モーセは、「イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、ファラオがわたしの言うことに耳を傾けるでしょうか」と答えます。
脱出の物語
命の解放に消極的にさせられてしまったイスラエルの民、そして、モーセの姿から、アメリカの奴隷制時代を生きたハリエット・タブマンという女性を思い出しました。ハリエット・タブマンは、アメリカ南部で奴隷として生まれます。そして、29歳の時に、奴隷制が廃止されていたアメリカ北部の自由州であるフィラデルフィアに脱走しました。
その後、彼女は自由の身になると、次は自分の家族をはじめ、昔の自分のように奴隷として過酷な労働を強いられている人々を助けるために何度も南北を往復しました。そして、1000人もの人々を奴隷制の敷かれた南部から自由の認められている北部へと脱出するのを助けました。
そのハリエット・タブマンは、こんな言葉を残しています。「私は千人の奴隷とされていた人を助け出した。でも、もしもっと多くの人が自分が奴隷であることをわかっていたなら、さらに千人の人を助け出せただろう。」
奴隷制時代のアメリカでは、奴隷とされた多くの黒人たちがハリエット・タブマンのように奴隷農園から脱出していきました。彼ら・彼女らの自由への希望の源泉となったのが、出エジプト記の物語でした。多くの奴隷とされたアフリカ人たちが、様々な葛藤のなかで悩みながらエジプトを脱出することを選んでいったイスラエルの人々の姿に自分たちを重ねたということです。
「出エジプト記」は英語では「大脱出」を意味する「エクソドス」と題され、3章でモーセが神様に召し出された出来事から15章にかけて、イスラエルの民がそれまで目を背けていた自分たちの存在、命への眼差しを取り戻し、エジプトを脱出していく出来事が描かれます。
その出エジプト記の物語は、エジプトの王様や人々にとっては、「そしてイスラエルの民は誰もいなくなった」ことを伝える物語です。「そして誰もいなくなった」ことを伝える物語は、今を生きる私たちにとっては、自分たちの生活が誰かの犠牲によって成り立っているのではないかと自らの在り方を見つめ直すことを迫るものとなります。そして、その視点は、搾取される人々にどのように連帯できるのかを模索することへと私たちを招くものです。
一方で、イスラエルの民、搾取される者の側に立つなら、出エジプト記の物語は、奴隷制のもとにあったアフリカ人たちの希望の源泉となったように、自分たちの命とその力を覚えることの大切さと、自由への希望を伝えるものです。自分を生きようとすることは時に、奴隷制のなかにあった者が葛藤や恐れのなかで自分を取り戻すことのように困難を伴います。
力を振るわれ、尊厳や希望を奪われ、搾取され、抑圧される状況のなかでは、自分には何の力もなく、希望を持つことすら無意味に思えるかもしれません。しかし、神様の「わたしはある」という名前は、「あなたの存在には意味があり、誰もあなたの存在を傷つけてはならない」という宣言です。
それゆえに、「イスラエルの民をエジプトの国から導き出せ」という神様の命令は、どの命も搾取されるために創造されたのではなく、自分を自由に生きるためだということを意味するものです。自分を自由に生きる道へと導き出せということです。
これらのことを考えるなら、今日の聖書箇所において繰り返される「わたしは主である」という言葉は、どれだけ自分を否定する力が働いているとしても、自分の生きる意味を見失ってはいけない。奪われてはいけない。ということなのだと思います。そして、それは神様がモーセを通してファラオに迫ったように、社会のなかにおいて、苦しみのなかにある者が、自分を自分として生きられる場へと逃れる道を築く働きが私たちに与えられているということです。
出エジプト記の物語には、過酷な労働のなかで生きる意味を見失っていたイスラエルの人々が、神様の言葉とそれを必死で伝えたモーセによって生きる意味を取り戻そうとし始めたことが描かれています。それが、救いの物語の始まりです。その救いの物語のなかに神様がいつも「わたしはある」と共にいてくれることを聖書は伝えています。
今日の聖書箇所から釜ヶ崎に生きる人びとのことを思います。それは、釜ヶ崎に生きる人びとが今日の聖書箇所のイスラエルの民のように打ちひしがれて、生きる希望を見出せないということではありません。むしろ社会の方が、そのように「かわいそうな」人たちというレッテルを勝手に貼っているといえます。
釜ヶ崎に生きる人びとの姿からは、生きることを真摯に受け取ることを教えられます。彼らは過酷な労働を担ってきた自分たちが日本社会を支えてきたことを知っています。そして、労働者のセーフティーネットとして機能してきたあいりん総合センターの強制閉鎖に対して、自分たちの命を奪うようなことをするなと声を上げています。その叫びは、「わたしはここにある」「わたしはここに生きている」という宣言です。
「わたしは主である」「わたしはある」。それは、「いまここに生きている」わたしたちわたしたち一人ひとりと神様が共に在ることの約束です。その約束を心に刻みたいと思います。そして、その約束を受けた私たち自身、誰と共にあるのか。「そして誰もいなくなった」ことを伝える出エジプト記の物語を通して、そのことを問いかけたいと思います。
その神様の約束を伝え、出エジプト記におけるイスラエルの人々のように抑圧され、搾取された人々と共に生きたイエス様の姿が、私たちに示されています。
お祈りします。
天の神様、モーセの時代を超えて、今の時代においても命が搾取される現実あることを覚えます。誰もが自分の命を自由に生きることができるように、抑圧や搾取から逃れる道を築く働きを担っていくことができますように。苦しみのなかにある一人ひとりの解放の業を神様と共に担っていくことができますように。このお祈りをイエス様のお名前によってお献げします。アーメン。