私「可哀想な若者なんですか?」と題された28歳の青年からの投稿。低い給料をやりくりし、趣味もあり、自ら「自由で自立していることに満足している」とある。間違ってもいないし、可哀想でもない。むしろよくやっていると拍手する。
 テキストはイエスの「宮潔め」の出来事。内実は小見出しの通り「神殿から商人を追い出す」ことだった。過激な言動に首もかしげる。
 商人たちは祭りを利用してぼったくる人々ではなく、燔祭に必要な犠牲の動物を売る人、そのための両替をする人だった。イエスの言動は何故なのか?
 投書の青年は「特に社会に不満はない」とあった。「あなたに欠けていることがある」と指摘された金持ちの青年の出来事がだぶる。要は「自分のこと」だけだった。
 長田区にある様々な人々が出入りしているシェアハウスのニュースに「いいね!」と思った。
その後、釜ヶ崎のセンター軒下で一人の男性が亡くなった。
 祭りで賑わう神殿。例え公認の施設であろうとそこから姿が見えない人たちがいたなら。ましてそこが神殿なら。建物でもなく、儀式でもないとイエスは憤慨したのだ。
 イエスを信じた人達を、イエスは信じなかった(24節)とある。いいね!だけで終わってはならなかった。私たちはどうだろう。

<メッセージ全文>
 先々週の或る日の新聞に「私可哀想な若者なんですか?」と題された投稿が載っていました。福岡県の28歳の会社員男性からのものです。全文紹介します。

「若者は低賃金で自立ができない」。世間ではそんな見方をされているが、私はそう思わない。
私は約14万円の月給で、一人暮らししている。家賃は3万5千円。散髪は千円カット。食費も自炊なら一日千円以下で可能だ。趣味はカメラ。欲しいレンズを買うためなら、食費や電気代の節約は全く苦ではない。
仕事は精いっぱいしているが、将来的に昇給や賞与増の見込みは微々たるもの。だから、結婚して家庭を築こうとは思わない。
ここまで読み、「可哀想な若者だ」と思った人もいるだろう。だが私には家庭も、たばこやお酒などの嗜好品に思える。金銭に余裕がある人がつくれば良い話だ。
私は精いっぱい自由に生きて、自立していることに満足している。特に社会への不満もない。
お正月、親戚が集まったお酒の席で話したら、人生の先輩たちに「もっと給料の良い仕事に転職を」「結婚はした方がいい」とアドバイスをいただいた。
私は間違っているのだろうか?」

こういうものです。どうでしょう皆さん、この方を可哀想な若者だと思われますか?この青年は間違っていますか?

さて今日は、いわゆるイエスの「宮潔め」と呼ばれる出来事の箇所を読んでいただきました。小見出しには「神殿から商人を追い出す」とあります。宮潔めと言うと、聖水を振りかけるとか、なすべき必要な行為の印象がありますが、その実態は小見出しの通り、神殿から商人たちを追い出したという出来事でした。それは過越祭間際の頃だったといいます。

先月、西宮恵比寿のニュースを見ました。毎年お正月が終わったあとの定例の季節ネタです。そのニュースで、西宮神社の境内に千軒の露店が並ぶと言っていました。そんなに出るんだと驚きました。全力疾走で福男になる人のことばかり聞いていましたが、凄い人出なんでしょう。ついこういう時の駐車場とか露店で売っているものは高いんだよなと、ぼったくりが頭をよぎりました。

ユダヤの過ぎ越し祭はどのような雰囲気だったのでしょうか。ユダヤ人にとっては大切なお祭りで、海外に住む人たちも含め、イスラエル全土から人々が集まる訳です。聖書には食べ物屋のこととか、お土産屋のこととかは何も書かれていませんが、参拝客目当ての様々な商売がなされたであろうことは、想像に難くありません。それはまさに商売であり、商人たちのなせる業でした。

しかるに、今日テキストに描かれているのは、そうしたお祭りの時にだけ限定される商売人ではなくて、いつも当然必要な、ある意味神殿お抱えと言っていいような人たちのことでした。ユダヤの人々が神殿に参拝するのは、犠牲の動物を捧げるためでした。

お金のある人は牛や羊を捧げることができます。自分でそれを捧げる人もいたでしょうが、多くの人はそこで買う訳です。貧しい人たちは鳩を買って犠牲としたのです。海外に住んでいる人たちは、それを買うためにお金を両替しなければなりませんでした。

ですから動物を売ることも、両替をすることも、神殿に参るために当然必要なことで、ぼったくりの露天商を追い出すならともかく、聖書に書かれているイエスの行動の中でも、最も理解し難いものと言えるでしょう。しかも「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」何ともその言動が過激であるのです。

何故?と問う前に、過激な言動に首をかしげてしまう出来事でした。でもとても重要な出来事でした。だからヨハネが一番詳細に書きましたが、4つの福音書全部に記されているのです。

これを考えるために、最初に紹介した「私可哀想な若者なんですか?」という投稿を思い起こしたいと思います。彼は低い給料をやりくりしてちゃんと自活しています。カメラという趣味も持っていて、自ら「私は精一杯自由に生きて、自立していることに満足している」と書いているように、私は彼の生き方は間違ってなどいないと思うし、可哀想な若者などとひとつも思いません。それどころか、確固たる自我を持っていて、立派だとさえ思うのです。応援するぞ!って拍手を送りたいくらいです。

けれども、この投書を読んですぐに脳裏に浮かんだのが、「あなたに欠けているものが一つある」とイエスから言われた青年の話でした。マタイ福音書では「金持ちの青年」と見出しがつけられていますし、マルコでは「金持ちの男」、ルカでは「金持ちの議員」とありますので、福岡の青年とは全く違って間違いなくお金はあったのです。相応の地位もあったかもしれません。

にも関わらず、双方の言い分が非常に似ているのです。金持ちの青年は、永遠の命を得ようと、しっかり掟を守って固く生きて来ました。誰から何の文句もつけられようのない人生を送っていました。
でも「全財産を売り払って貧しい人に施し、それから私に従いなさい」とイエスに言われ、悲しみながら帰って行くのです。敢えて言えば、「自分のこと」しか考えていなかった人だったと思います。

福岡の青年にそこまで言うつもりはありません。でも彼は「特に社会への不満もない」と書いていました。彼は自分は与えられた環境の中でしっかり固く生きている。それはそれでいいのですが、それは「自己責任」で一切が語られる現実そのものです。自分だけということです。

つまりこの方自身に社会への不満はなくても、社会の中には自分の努力だけでは如何ともし難い課題を抱えて呻吟している人がいて、そういう人たちがこんな社会をどうにかして欲しいとか、変えて行かねばとか思っている、そういう声なき叫びが満ちているのに聞こえていないということです。給料の比較をすればきりがありませんが、もっと低い賃金で、なおきつい仕事を強いられている人がどれだけいることでしょう。きっとこの青年の周囲にもそういう人がいるのです。

犠牲の動物を飼う場所、両替をする場所、建前からすれば何の問題もない、かえって当然必要とされる公認の場所だったことです。でもそこさえも訪れることができない人たちがたくさんいました。神殿の周りには、病気や事情で動けない人たちが声にならない叫びを秘めつつ、うごめいていました。彼らは生きた人間であり、誰と変わらぬ同じ人間でした。でもその姿は誰からも覚えられてはいませんでした。その一方で、当然捧げるべきものとして、犠牲の動物が売られ、買うことが出来る人たちはそれをもって罪の贖いとしたのです。

それが何だ!イエスの思いはこれに尽きたに違いありません。建物が大事じゃないし、儀式が大事じゃない。震災25周年を記念した特集番組で、長田区にある「ハッピーの家ろっけん」を知りました。本来は介護付き老人シェアハウスです。でもここには、近所の小学生たちや園児から始まって、外国人の青年やちょっと暮らしに疲れた人たちが自由に出入りしています。取り立てて何かを一緒にする訳ではありません。何をしないといけないという定めはありません。でも色んな人たちが一緒に時間を過ごす素敵な場所です。

本当は行政がこういう場所を作るべきでした。莫大な復興費用を用いて、箱物がたくさん建てられ、神戸市は長田区の復興再開発事業を終了したと発表しました。行政は何も分かっていませんから、「ハッピーの家ろっけん」はここで生まれ育ったある方が、長田は昔からそういう街だったという思いを込めて、誰でも出入りできる家を作ったのです。

ニュースを見て、私はいいね!と思いました。まるでSNSを見て、すぐに「いいね!」を押すようにです。ところがそれからしばらくして、西成労働福祉センターの軒下で野宿していた方が亡くなりました。情けなくなりました。釜ヶ崎こそは誰でも出入りできる懐の大きな町だったはずでした。関わっている場所で何もできていませんでした。

もちろん、いいなと思うことに素直にいいね!って反応したいと思います。けれど、いいね!だけでは済まない、それだけでは何も変わらない現状があります。

ヨハネはそれを書き残しました。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった」と23節24節にあります。
少なからぬ人たちがイエスの言動に「いいね!」と感じたのです。それはこの方イエスが出会って来た人たちも同じだったでしょう。しかしおおかた「いいね!」だけで終わってしまいました。残念です。翻って私たちはどうでしょうか?点検を迫られます。

天の神さま、私たちの信仰、私たちの教会の内実が伴っているかどうか、今日問われました。どうか心を澄まして、振り返ることができますようお導き下さい。