古典落語「勘定板」は、トイレと支払いを勘違いした両者によって引き起こされる爆笑物語だ。
勘違いの笑い話で済まないのが本テキスト。神殿で自分について語るイエスの言葉を、人びとはことごとく受け入れることができなかった。この世的理解だけに留まっていたからだ。
だが当時の人々を笑えない。現代に生きる私たちも変わらないものを抱いている。或いはイエスの語りがもう少しこの世に寄っていたなら、もう少しは受け入れられたのかもしれない。
しかしそれより、受け入れない人々をイエスは一切非難しない。淡々と「真実」を語った。
薬物依存からの更生に励む元プロ野球選手。彼を最も励ましたのは後輩の「誰が何と言おうと応援する」の一言だった。
働き方改革の言葉が躍る昨今。実効ある施策はなかなか取られない。当事者の声が届いていない気がする。
イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と語った。理解に乏しい相手に何かを強制するようなことはしなかった。
生きる土台を考えるという根本。それを考えようという「働きかけ」をイエスはなした。誰が何と言おうと応援するという思いが込められた
励ましである。これに力を得たいと思う。

<メッセージ全文>
 皆さん、「勘定板」という落語を御存じでしょうか。古典落語の一つです。昔、東北地方の海べりの村から、江戸へ二週間ばかり旅行をすることになった二人の男性がおりました。彼らの村では家にトイレがないのです。家の外の浜辺に杭が立てられていて、それに縄が括りつけられている。縄の一方の先にはそこそこ適当な大きさの板が結ばれていて、普段は海の中に入れられています。用を足す時はその板を手繰り寄せて、板にまたがって用を足す。終わったらまた海へ戻す、波にさらわれてきれいになる。言わば天然の水栓トイレのようなもので、その板のことを「勘定板」と呼んでいたのです。ついでに言うと、用を足すことを「勘定をぶつ」と称していました。

この二人が江戸の旅館について、やれやれという時、トイレに行きたくなって宿屋の人に尋ねるのです。「勘定をぶちたいんだが」。宿の人は、「勘定をぶつ」という表現がよく分からないまま、支払いのことだろうと思って、勘定は「お帰りの際で結構です」と答えます。男たちは二週間も先までトイレを我慢できないので、今すぐ勘定をぶちたいと迫ります。その宿では、支払いはそろばんを裏返して、そこにお金を載せてもらうようにしていました。仕方がないので、「勘定はこれに」と言って裏返したそろばんを渡すのです。男たちはびっくり仰天。江戸の人はこんな小さな板の上で用を足すのか、恐れますが、諦めて使おうとすると着物の裾がそろばんに引っかかって、そろばんがするーと動く訳です。それを見て「クルマがついている、さすがは江戸の勘定板だ」と感心するというお話しです。

まあ、事が事だけに切羽詰まった展開ですけど、互いの勘違いが進むたびに、大笑いです。私は何度聞いても腹を抱えて笑ってしまう落語です。
ほんのどこかで、何か違うのではないかと思って、素直に聞いたらすぐに了解できることなのに、それをしないで、お互い自分の世界だけで動かない。それで、とんでもない方向に進んでしまう。こう言うことは今でもままあります。大概は笑い話で済むのですが、この勘違いが、人生や命についてなされた時は、笑い話では済みません。悲劇と言って良いでしょう。それが今日のテキストでした。

神殿でのイエスと人々との会話が記されていました。しかし、読んでお分かりになったように、噛み合っていないのです。イエスから「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言われれば、「自殺でもするつもりなのだろうか」という反応が返って来ます。「わたしはこの世に属していない」と言えば、「あなたはいったい、どなたですか」と答えが返ります。
どうしてもこの世のあり様から離れることができないからでしょう。ガリラヤ出身のイエスという、地上の出自の理解に捕らわれて、イエスの言葉の中身を受け取ることができないので、ある意味マンガのようなやり取りが続くことになる訳です。

もちろん、私たちは聖書を通してこの後の筋道を知っていますから、どういう意味合いでイエスが語ったのかを分かっています。でもその私たちであっても、当時の人たちを何も分かっていないと馬鹿にすることなどできません。
もし、イエスが今ここに立って同じことを私たちに語ったとしたら、私たちはそれをすぐに理解し、受け入れることができるでしょうか?今日、この礼拝堂に一人の人物がやって来て「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」とやおら語ったとします。そうしたら、皆さん、どうされますか?
私ならこう言うと思います。「あなたはいったい、どなたですか」。それは言葉に感動して言うのではありません。世離れした言葉に半ば呆れ、なかば信用できないで言うのに決まっています。もう少し言うなら、「この人、ちょっと変なんじゃない?」。

悲しいかな、それが現実です。現実をすっ飛ばして語られることを、とても肯定できないし、受け入れがたいのです。イエスはだから、例えばこう言えば良かったのです。「私はこのたび、次回の選挙に向けて立候補しようと思っています。ガリラヤ出身のイエスと申します。私は、ガリラヤを愛しています。ふるさとガリラヤのために何でもする所存です。そのその郷土愛をもって働きます。皆さんが平和に暮らして行けるよう、頑張ります。何卒よろしくお願いします。」
これなら多くの人は、胡散臭い奴だとは思わなかったでしょう。残念です。

でも、よく読んで見ると、不思議なことに気づかされます。多くの人たちにとってにわかに分かりづらい、非常に現実離れした言葉を語っている一方で、イエスはそれを決して押し付けていないという点です。
何をどう語ろうとも分からない、分かってくれようとしない人々に地団駄踏んで、怒りを表しても良かったはずです。「何という情けない連中だ」くらいの罵声を浴びせても無理のない現実でした。実際、26節では「あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」と語っているのです。この際、ついでに言いたいこと、裁きたいことをぶちまけてもおかしくはありませんでした。そういう辛辣さが何も描かれていないのです。

そうしても良かったけれど、イエスはそれをしなかったのです。「私をお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話ししている」と続けました。どんなに真実で、大切なことであろうと、それを相手に強制しませんでした。それは最終的には神さまの業であるし、受け入れるのは相手だからでした。最後は神に委ねる。多分、これがキリスト教のとっても良いところであり、同時に弱いところなのかもしれません。
高校野球からプロ野球と、華々しい活躍をして引退した清原和博さんは、しかし薬物問題でせっかくの名声を汚すことになってしまいました。周囲から随分と叩かれました。更生に努力していても、なお心無い対応が続きました。昨年、と或る住職との対談集を出しました。その中で、ダルビッシュ選手の応援が有難く励みになったと述べています。野球ということでは、清原さんは強い人でしたが、薬物問題を通して自分の弱さを知りました。「さあ皆で清原さんのセカンドチャンス、応援しましょう!自分は誰が何と言おうが応援していきます!」ダルビッシュさんはそう言ったというのです。とても温かい励ましでした。しっかりしろとか、強い意志を持って頑張れとか、そういう本人の努力だけ命じる言葉は何の励ましにもなりませんでした。

今日のテキスト後半、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。その時あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とイエスは語りました。わたしの言葉に留まるとは、神に留まるという事です。もう少し言うなら、神に委ねるということです。これしかないと思い込んでいるこの世的なことから切り離されて命を考える時、一番大切なことが知らされるし、それによって解き放たれるということでしょう。イエスはそういう世界へ皆を招いたのです。自分の努力だけ、そこから見返りに与えられる世界ばかりではない、ということです。
働き方改革ということが最近しばしば叫ばれています。ほとんど実効がないまま、何も変わっていないかのようです。恐らく当事者の声が真剣に聞かれていないからではないかと思います。具体的に変えなければならないことは少なくありません。なかなか動かないのなら、法的な強制力を考えることも一つの手なのでしょう。
ただ、働き方を変えるということは、本当は「生き方を変える」ということではないかと思うのです。表面的なことだけでなく、根本的なこと。「何のために生きるのか」を考えなければ、真の意味で働き方を変えるには至らないことでしょう。

イエスは、そこをしっかり捉えていました。だから働きかけたのです。「キリスト教の神は本物です。本物の神を信じましょう。信じなかったら破滅です。」などとは言いませんでした。「わたしはある」と語ったのです。
「わたしはある」とは、いつでも共にあるという意味です。良い時だけではありません。悪い時にもです。そのことを信じないなら、自分の罪のうちに死ぬことになる。つまり孤独の中に押し込められる。そうではなく、悪い時にも「わたしはある」。ダルビッシュ選手が清原さんへ「自分は誰が何と言おうが応援していきます!」と伝えたように、イエスこそ「私は世の誰が何と言おうが応援していきます!」という表明をしたのです。それが「わたしはある」の言葉に込められていました。この働きかけに力を得たいと思います。

天の神さま、あなたの支えに感謝します。あなたの言葉に留まって歩みます。イエスの働きかけから、生き方を見直します。どうぞ固く導いて下さい。