代表が腐っているのに「他に人がいない」と目をつぶって受け入れていると、全体が腐る。今の日本の政治状況だ。
テキストは、イエスがベトザタの池で病人をいやした出来事。南北二つの池は、天使が水面を動かす時、先に入ったものが癒されるという言い伝えで、病人があふれていた。
38年苦しんで来た人に、イエスは「良くなりたいか」と尋ねた。「健やかになりたいか」(岩波聖書)の訳のほうが相応しい。当たり前すぎる問いかけに病人は「入れてくれる人がいない」と答えた。
一方、癒されたことを喜ぶどころか、当日が安息日だったので規則違反ととがめる人たちがいた。境内で病人と再会したイエスは「もう罪を犯してはいけない」と語った。この罪とは、「的外れ」のことを指している。
病人は長きに渡る病床生活で希望を失い「神などいない」と絶望しただろう。それは無理もない。
イエスはこの人に「自己責任」で頑張るよう勧めたのではない。神がいなかったのではなく、共に生きる仲間を奪われて来たことに心を砕いたのだ。不在は神ではなく「人」だった。これからは仲間を求めて生きよ、と。私たちもそうしたい。
<メッセージ全文>
今日は最初に辛辣な問いかけをしたいと思います。仮にの話です。皆さん、もし私が皆さんにとって、東神戸教会にとって、どうにも不適切な牧師だったとします。仮の話ですから、頷いてはダメですよ。だからどうにか違う人に代えたいと本当は思っているのだけど、残念ながら人がいない。実際牧師の数も減っていますし、適当な人物がどうも見当たらない。それで、嫌だけどこの牧師でも仕方ないと諦めて、黙って受け入れざるを得ない。その結果、みんな元気は出ないし、教えを聞いても力にならないし、信仰生活が上辺だけ、偽りのような状態になってしまっているとしたら。
私は今の日本の政治状況がまさにそうだと思っています。先週は鯛は頭から腐るという発言がなされました。「他に人がいないから」、どうも問題があるようだが、仕方がない。それを受け入れているうち、すべてがどんどんよどんで行ってしまう。そういう現状ではないかと思います。どうしたもんじゃろのう。
さて、今日与えられたテキストは、イエスがベトザタの池で病人をいやした出来事が描かれていました。「エルサレムの羊の門の傍ら」とあるように、神殿の北側にベトザタと呼ばれる(べテスダとも言われる、ただし意味は未だよく分かっていない。)貯水池が設けられていました。
1888年以来の発掘によって明らかになったのは、一辺が40mから60mほどの長方形の形をした池が二つあったということです。結構な大きさの池です。北の池と南の池の間に5番目の回廊がしつらえられていて、道幅は6m50㎝ほどでした。
いつの頃から、天使が時々降りて来て、この2つの池の水面を揺らすそうで、その時に最初に池に入った人は、その病がどんなものであれ癒される、という伝え話が語り継がれるようになりました。
それで2つの池を仕切る5番目の回廊に身を寄せて、その時を懸命に待ち望む。そういう病人が押し寄せることになったのです。1節に「その後、ユダヤ人の祭りがあったので」とあります。普段にもまして大勢の人々が神殿に参って来たでしょうし、ベトザタの池にも病人があふれていたものと思われます。病気の人、目の見えない人、足の不自由なひと、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた、と3節にあります。ここに38年間も病気で苦しんだ人がいたというのです。5節です。何の病気か分かりません。3節の後に十字架のようなマークがあります。これは底本が虫食いなどで欠けていて、文言がもはや判明しない部分であることを示すものです。幻の4節です。もしかしたら、欠けた4節に、この人の事情が説明されていたのかもしれません。
ものすごく簡単にまとめると、イエスはこの病人を癒された。病人は歩けるようになったが、それを見たユダヤ人たちが、その日が安息日だったので「規則違反や」といちゃもんをつけた。イエスにもいちゃもんをつけた。そういう出来事でした。
38年も苦しんだ人が癒された。どんなに嬉しかったことでしょう。しようもないいちゃもんを付ける前に、みんなでこの人と一緒に喜んだら良かった。何でそれができないのか、その残念・無念さがメインの出来事であろうと思います。
でも、イエスと病人の会話にどうしても引っかかってしまうのです。まずそのしょっぱな、イエスはこの人に「良くなりたいか」と言われたというのです。38年も苦しんで来て、そんなことは聞かれなくても当然のことなのに、と不思議に思ってしまいます。けれど良くなる、病気が治るという意味合いの言葉というより、例えば岩波書店版聖書では、ここは「健やかになりたいか?」と訳されているのです。直訳すれば「あなたは健康になることを欲するか?」ですが、「健やかになりたいか」の訳は優れていると思います。新共同訳で「良くなる」と訳されている後二つの箇所もすべて「健やか」と訳されています。そう訳すと、ちょっと感じ方が違って来ます。
「健やかになりたいか」と問われた病人は「主よ、水が動く時、私を池に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」そう答えています。これがまた不釣り合いな返答です。「なりたいです」「お願いします」、そう即座に応えて良かったはずなのに、自分を助ける人がいなかったことをいの一番に訴えているのです。
もちろん、無理もありません。そこには目の見えない人がおり、足の不自由な人がおり、体の麻痺した人がいたのです。支えてくれる人がいるという人もいたことでしょう。水面が動く時を懸命に待って、それが分かっても遅れをとってしまう。これまで何度悔しい思いを味わって来たのでしょうか。地団駄踏む思いでもあったに違いありません。
この時、この人はきっと「この世に神さまが本当にいるのだろうか」とままらなぬ体と共に、神を呪ったとしてもおかしくなかったでしょう。
もう一つ不思議な会話が後に記されています。癒されていったん別れた二人でした。初めて出会ったイエスですから、病人にはイエスの情報も何もない訳です。イエスから癒されて喜びにあふれて家に帰ることもできたでしょうが、この人は神殿におりました。
それは神さまに感謝を捧げるためだったと読む人もいますが、私は帰る場所がなかったからだと想像しています。ともあれ境内で再び出会った時イエスは言うのです。14節、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起るかもしれない。」
首をかしげてしまう言葉です。「もう罪を犯してはいけない」。言葉通りなら、この人が病気で苦しんで来たのは、当時人々が信じ込んでいた「罪を犯した結果、病気になった」という誤った認識そのままということになります。
ですが、ここも岩波書店版聖書は「あなたは健やかになったのだ」と訳しています。
健やかとは、体だけではなく、心、精神も含む言葉です。そしてここで使われた「罪」という言葉がギリシャ語でいう「ハマルティア」という単語です。これは何か具体的な犯罪を犯す罪を意味しません。そうではなく「的外れ」、神さまに聞かずに自分勝手に生きる的はずれを指した言葉です。あなたは身も心も健やかになったのだから、これからは的外れな生き方をしないよう、そうイエスは示したのです。
彼は38年も苦しみました。健やかになりたいかと聞かれて、「自分を助けてくれる人がいなかった」と訴えました。神を呪ったとして無理もありませんでした。裏にあったのは不満や憤りだったでしょう。「この世に神などいない」。
人のせいにしてはいけない。人をあてにせず、自分でしっかり立って歩まねば。イエスはそういう自己責任論を語ったのではありません。むしろ38年、人をあてにできずに生きて既に相応に年老いた人ですから、これからの人生を思いやったのです。神に聴いて生きること。幸い体は回復したけれど、38年も病んだ、とりわけ心が病んだ人の人生への具体的な再出発は並大抵ではないでしょう。あれこれ言う訳には行きません。だから一番大切なことだけをイエスは伝えたのだと思います。
それは、これまで残念ながら一人で耐えざるを得ない状況に押し込められて来たけれど、これからは真に人と共に生きて行こう、良い人間関係のもとに過ごそうとイエスは思ったのでしょう。この人にとって奪われていたのは、共に生きる仲間だったのです。
私たちも、不条理なことが起るたび、神さまは本当にいるのか疑ったり、不満に思ったり、嘆いたりします。「神などいない」とはっきり断定することもあるかもしれません。神の存在を信じるかどうかは、これも自由だと思います。でもそのことによって共に生きる仲間まで捨て去っては、まさに的を外してしまうことになるでしょう。
「わたしの父はいまもなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とイエスは語りました。このイエスと一緒に、そしてこのイエスの言葉を何とか体現しようと奮闘する人たちと一緒に生きて行きたいと思うのです。つまりこの出来事は、神さまの存在を否定することを通して、共に生きる仲間を作る営みまで放棄してはならない、そうではなく、諦めず友を作ろうという呼びかけでした。
不在だったのは神ではありませんでした。神がいたからこそ、イエスとの出会いがもたらされました。悲しいかな、時間がかかったのは、神のせいではなく、人間のせいでした。私たちの小ささを痛く噛みしめながら、でもそれで終わりではない、一人ではないと、希望を持って仲間を探したいと思います。
天の神様、希望をありがとうございます。課題が解決する希望があれば、たとえそうでなくても共に生きる仲間が与えられる希望があり、そのように生きようとする希望があります。どうぞこれからも教え導いて下さい。