《 本日のメッセージメモ》
振り込め詐欺や投資詐欺など、相変わらず無くならない。いじめ問題と同じで、「だます人が悪い」という認識を覚えておきたい。
イエスの荒れ野の40日。誘惑が続いた末に、極め付きの誘惑がなされた。誘惑は外からやって来た。悪魔からの「石をパンへ」「神殿から飛び降りよ」「世界の栄華を」の3つの誘惑は、すべて「自分一人」良ければ、との誘惑と言える。
詐欺と同じで、そもそもおいしい話なら悪魔自身が行えば良かったはず。それをしないのは、おいしい話など実はないということ。
聖書の文言を盾にイエスは対応した。でも、立派に誘惑に打ち勝ったという話ではない。そもそも荒れ野は、修行の場ではなかった。
子どもの駄々から、自分しか見えない我儘を思う。悪魔の誘惑はそれへの誘いに他ならなかった。イエスが拒否したのは、「自分一人の世界」の選択だった。
自分の中にある誘惑の芽。大方は小さいものだ。それより他者のことを思わない誘惑は大きい。神さまは、共に生きるよう促されている。その声を聴きとどけたイエスは荒れ野を去った。

≪本日のメッセージ全文≫

世の中すっかりコロナウイルスのニュースで埋め尽くされています。でもこんな状況の中でさえ、未だに振り込み詐欺、オレオレ詐欺の被害がなくなりません。「振り込め詐欺」という名称が使われ出したのは2004年のことでしたが、詐欺への注意を促す様々な手立てにも関わらず、悪質化する一方です。今では拠点が海外に移されて、そこから電話がかかって来る始末です。

また投資詐欺も相変わらずです。大体、絶対に儲かるとか、確実に利益が出るような「おいしい」話を他者に持ち込むこと自体が、本当はあり得ないはずです。儲かるなら、こっそりその人が自分自身でやればいいはずです。

それなのにこうした詐欺に引っかかる人が後を絶ちません。それで時々、「だまされる方が悪い」という意見を聞きます。けれど、それは間違っています。いじめと一緒です。「いじめられる方にも問題がある」などと言われることがあります。しかし今日のテキストを読む時、最初に確認しておきたいことは、「だます方が悪い」という一点です。いじめも「いじめる方が悪い」のです。被害を受けた側にも責任があるというような乱暴な見方をして、事の本質をゆがめてはならないように、詐欺も「だます方が悪い」。ここをしっかり押さえておきたいと思います。

さて、受難節最初の主日に与えられたテキストは、イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた出来事でした。40日間、昼も夜も断食したとありますので、一種修行のように思えなくもありません。荒修行を通して、精神を鍛えるとか、悟りを開くとか、強くなるためにそうしたのではなく、1節に「悪魔から誘惑を受けるため」とあるように、それを体験するためわざわざ荒れ野に出かけ、断食をしたというのです。

そうして案の定と言うか、予想通り悪魔からの誘惑が与えられました。3節には「誘惑する者が来て」とあります。イエスの内面に誘惑する者がいた、誘惑されるべき部分が含まれていたというより、はっきりとそれは外部からやって来た「誘惑する者」だった、それを知らせる記事だという訳です。

もっとも、その誘惑する者が40日の断食の後、初めてやって来たというのではないようです。このイエスの荒れ野での体験は、マルコとルカ、つまり共観福音書に記されていて、マルコはとても簡素ですが、マタイとルカは相当に詳しく書いています。ルカの記述と合わせると、40日の断食の間も誘惑はずっとあった。毎日振り込め詐欺の電話がかかってくるようなものです。そして肉体的にも精神的にも疲労困憊した時、極めつけの誘惑がなされたということでした。

その極めつけとは、まずは空腹だったイエスに「石をパンに変えて見よ」というもの。次が「神殿の屋根から飛び降りて見よ」というもの。最後が「ひれ伏すなら世界の栄華を与えよう」というものでした。

もし私たちだったら、たちまち応じてしまいそうな魅惑的な誘惑ばかりです。そんなおいしい話があるなら、悪魔に魂を売り渡してもいいかって、思う人もひょっといるかもしれません。だから人間の弱さが問題なのだ、とも言えますが、そういう話ではないのです。先ほど言いました。「だます方が悪い」「誘惑する方が悪い」、このことを再度確認します。

デパートとかスーパーとか、おもちゃ売り場で「これ買って~」と親にぐずる子を見かけることがあります。ひどいのになると、床にはいつくばって動かない、「買って~」を連呼して泣き叫び続けるのです。

こういう光景にぶつかると、あ~あ、親は大変だなと心から同情します。「だって、欲しいねん」とか子どもは言うのです。何がだってや、我儘言うんじゃない!って、代わりに叱ってやりたくなります。これが世に言う「駄々をこねる」という事態です。

「ただほど怖いものはない」と言います。おいしい話には必ず裏があるという意味が込められています。でも、「駄々」はもっと怖い。理屈が通らないからです。自分しか見えてない。子どもの駄々は仕方ありませんが、いい大人の駄々は困ったものです。

テキストで誘惑と訳されているギリシャ語はピラズィモスという単語です。誘惑でもあり、そそのかしでもあり、その気にさせるという意味です。これ英語の聖書ではテンプテーション、テンプトと訳されます。テンプテーションの元になったのが、ラテン語のテンプターティオという単語で、「煽り立てる」という意味です。誘惑とは、「煽り立てる」こと、それで追いやる。まさしく駄々をこねるです。

悪魔は「石をパンへ」と言いました。イエスの空腹を見込んでのことでした。でも違う見方をすれば、その誘惑は「一人で十分」ということでした。もし困った時に必要なものがさっと手に入るなら、そういう力を持っているなら、他人は必要ありません。一人で生きて行けます。

「神殿の屋根から飛び降りて見よ」と次に言いました。守られてケガなどしない、屈強な肉体が実現するなら、やっぱり他者は必要ありません。自分一人で良いのです。

悪魔は最後に「世界の栄華」をと言いました。これまた自分一人、まさしく自分だけの思想です。つまり、悪魔が提示して来た3つは、どれもこれも「自分一人の満足」の話だったのです。そんなおいしい話があるなら、悪魔は自分でそれを手にしたら良かったのに。

それをせず、駄々をこねる子どものように、執拗においしい話を繰り返したのは、本当はそんな世界などないからに他なりませんでした。最後の誘惑には「ひれ伏してわたしを拝むなら」という条件がついていました。「俺の言うことを聞けよ。」、そうやって人間を自分一人の世界に閉じ込めようとする誘惑こそ、駄々をこね、繰り返し煽り立てて孤立に追いやる悪魔の所行ではないか、ここに描かれたのはそういう世界ではないか、そう思うのです。

イエスはこれら悪魔の誘惑一つひとつに「こう書いてある」と聖書の言葉を用いて対応しました。数々の誘惑に立派に打ち勝ちました。私たちも、聖書をよく読んでイエスに倣って誘惑に打ち勝ちましょう。そうテキストを読んでも間違いではないと思います。けれど、誘惑に打ち勝つ力を得ようという修行の話ではないのです。それに2番目の誘惑では、悪魔も聖書の言葉を用いて誘惑している。神さまをバックにつけた誘惑もあるということで、怖いです。この出来事は、自分だけの、一人だけの世界に立つことの怖さをイエスが示したのだと思っています。

この荒れ野の出来事の後、イエスはそこを立ってまた町へと戻って行くのです。そうして福音伝道・宣教の旅を開始します。しかし決して一人で事を進めませんでした。到底足りないと思われた弟子たちを伴い、時には彼らに委ねて旅を進めました。イエス自身が、一人ですべてを行うことの危うさを、荒れ野の誘惑を通し知っていたからです。

もし、うっかり誘惑に乗って、何でもできる力を持ち、頑丈な体を手に入れ、世界の栄華を目の当たりにしたとして、ふと気づいたら自分だけだったらどうでしょうか?どこか旅をして、かつて経験したことがないほどの美しい世界を見たら、きっと誰でも「天国だ」と感激することでしょう。でもその天国に、たった自分一人しかいないとしたら、どうですか?

そうではなく、例え必要なものがすぐには手に入らない、貧しい状況で、病人も共にいる、強くて美しいとは言えないところであっても、他者のことを忘れず、一緒に生きて、その場所を下さった方に感謝を忘れない、そんな世界があったなら、誰でも間違いなく「天国はきっとこんなところだ」と確信するに違いありません。そして案外私たちの身の回りにそれは備えられているのです。華やかでないので、見えづらいだけです。

子どもに限らず、自分一人を見て駄々をこねる大人がいます。その片鱗を自分の中に見ることも確かにあります。それはあると心に覚えておきましょう。ただし、私たちの心に時に巣食う誘惑の芽は、ほとんどは小さいものです。体重減らさなならんと分かってるのに、また腹一杯食べちゃった、とか。多分、誰も傷つけることはないでしょう。

それより、万一誰かの命が脅かされる事態が生まれた時、知らんぷりを決め込もう。そうやって自分一人を守ろうとする誘惑だったら怖い。これは駄々です。でもそんなことならないように、誰かと一緒に、隣人と共に生きるよう、私たちは神さまから促されています。コロナウイルスのせいで、ほんの少しの「せき」にさえ敏感になっている私たちで、どうにも致し方ないですが、本当は私たちは隣人と触れ合って生きるように作られているのです。

天の神さま、自分一人で生きないよう、イエスは大事なことを荒れ野で示して下さいました。外からの誘惑から私たちをお守り下さい。