《 本日のメッセージメモ》
10年ほど前、新型インフルエンザの集団感染が出た或る私立学校は、たちまち嫌がらせを受けた。その時学校に招かれた医師は「君たちが悪いのではない」と生徒たちを励ました。
聖書の時代も病人は差別の対象となった。2000年後の今、コロナウイルス蔓延の現状を見ると何も変わっていない。
エルサレムで一人の盲人をイエスは癒した。それは奇跡の行為だったが、それ以上に病気を過去の罪の罰と受け取る人々に、それを否定し「神の業が現れるため」と未来を指示したことは、もっと大きな奇跡だった。
せっかく癒された盲人だったが、癒しの当日が安息日だったために、たちまちファリサイ派から攻撃を受けることになった。
しかし彼はひるまなかった。堂々と反論し、イエスを証しした。イエスの癒しから起きた第二の奇跡である。
元歌手で女優の山辺ユリコさんは、現在手話劇団の代表を務める。思わぬ出会いから手話と出会い、困難を乗り越えて公演を重ねる。劇団員のキラキラした涙を見たら、やめられない」と語る。
イエスの奇跡から、未来を生きる第二の奇跡が生まれる光景を見たら、私たちもやめられない。それが著者の伝えたい第一だった。

≪メッセージ全文≫

 10年ほど前のことです。関西の或る私立中高で、新型インフルエンザに集団感染したことがありました。この学校では全校生徒1900人のうち、100人が感染し、学校は休校となりました。

 たちまち「この学校の生徒を見たら近づくな」とか「この町から出て行け」という嫌がらせの電話が学校にかかって来ました。またネットでも「近づくとうつるゾ」という書き込みがされましたし、制服をクリーニングに出したら「あの学校やろ」と追い返された生徒もいました。職員の中にも学校へのタクシー乗車拒否に遭った人がいました。

 学校では2週間後、私服での投稿に切り替えて授業を再開しました。その時、国立感染研究所の医師を招いて話をしてもらいました。その医師は「君たちが悪いのではない」と語って、大いに生徒たち・教職員たちを元気づけたそうです。

 かつて聖書の時代、病気になることは神さまの祝福からはずれることを意味しました。その病気は本人または先祖の犯した何らかの罪への罰と思われていました。中でも、重い皮膚病は、うつると信じられていましたので悲惨です。町を歩く時は、自ら「自分は皮膚病」ということを叫びながら歩くよう定められていました。周りに近づくな、濃厚接触するぞ、ということです。

 コロナウイルスの蔓延で苦しむ私たちの現状を重ねて思います。病気になりたいと思ってなる人は誰一人いません。病気はもちろん罪を犯したことへの罰でもありません。しかし思いがけず感染した人や治療に当たった人たちが、まるで「病原菌そのもの」のように言われる情けない状況です。2000年経っても、何も変わっていないかのようです。

 さて、今日はとても長いテキストを読んでいただきました。それでも実は少しだけはしょっています。本当は9章の最初から読んでいただきたかったのです。始めの一段落に、イエスがエルサレムで生まれつきの盲人と出会い、癒した出来事が記されています。

 その治療とは、6節に記されているように、イエスが地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗ったというものです。その上で、神殿南にあったシロアムの池に行って洗えと指示しました。彼はその通りにして、見えるようになった、そういう出来事でした。
 かなり詳しく状況が説明されていますが、イエスの行為は何とも一種の魔術のようなものですし、とても衛生的とは思われません。現代の医学的行為とはかけ離れていて、何とも科学的に説明しようがありません。

 でもその行為よりも、イエスの考えをこそ著者は第一に伝えたかったのだと思います。盲人に目をとめたイエスに対して、弟子たちは当時多くの人たちが心に抱いていた質問をなすのです。「この人が生まれつき目が見ないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか。それとも、両親ですか。」と。

 現在の状況に至った原因を過去に求めるのは、私たちの常ではあります。どこでコロナウイルスに感染したか、その経路をたどることは感染防御のためには必要なことでしょう。でも、患者自身には何の関係もないことです。分かったとして、何にもなりません。

 イエスはそのような過去の一切を問いませんでした。恐らく大事なのはこれから先、未来にしかないと思ったからでしょう。ですから「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えたのです。過去を問わず、未来だけを見る生き方。これは、盲人を癒したことより大きな奇跡だったと思います。

 そういう出来事があって、今日読んだテキストに出来事が続いて行きます。癒しの物語の先の、つまり未来の出来事が記されている個所はそうありません。

 生まれつき目が見えないとは、本当に大変な人生を強いられるということでした。先ほども言いましたように、それは罰と思われていましたから、本人のみならず、そういう出産があった家族全体に非難の目が注がれたと思われます。往々にして、その非難に耐えられない多くの家庭で、致し方なく子どもを物乞いにする他なかったのです。この人はきっと子どもの頃からエルサレムの道ばたに座らされ、物乞いをして生きて来たに違いないのでした。

 そんな人が何と見えるようになった。イエスのお陰で、全く新しい人生への出発を与えられたはずでした。ところが、読んでいただいたように、すぐバラ色の出発とはならなかったのです。

 一つにはその癒しが「安息日」に行われたという理由でした。そもそもファリサイ派はイエスをどうにかしたいと手ぐすね引いて待っている訳ですから、正直に言えば理由などは要らないくらいでしょうが、それでも法的に正当な理由が見つかるなら万々歳です。安息日にしてはならない治療行為をなした、それが分かるならもうそれだけ十分です。彼らには見えるようになった盲人への同情も何もないのでした。どうして見えるようになったか、イエスは神から来たのかどうか、盲人から一転、イエスの過去が問われることになりました。

 結局、両親を呼び出して尋問することになりました。本当にこれまで見えていなかったかを明らかにするためでした。そうでなければ、安息日に治療行為をしたと正面切って言えないからでした。

 両親には息子を物乞いにさせた負い目がおおいにありました。見えるようにしてくれたイエスには恩義を感じて当然でした。一方で、ユダヤ人たちの狙いも承知していました。ここでイエスを持ち上げればどうなるか算段したことでしょう。ファリサイ派からの問いかけは「本人に聞いて」という逃げの答えとなりました。息子からすればいかにも落胆の対応だったはずです。見えるようになった途端、この世の醜さが目の当たりとなりました。

 それでもファリサイ派たちの問いかけは更になお続きます。「見えるようにしてくれた」ことはもちろん想像外の凄い奇跡だったと言えます。でもこの人には見えなくされていたことは「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と語ったイエスの言葉が繰り返しこだましていたでしょう。

 その通りになりました。もはや過去はどうでもよく、未来へ向かって歩んで行くだけです。何とかしてイエスを貶めようとするファリサイ派たちの不満は、いつしかこの人自身にぶつけられて行きました。「お前はせいぜいイエスからだろう。だが、俺たちはモーセからだぞ。格が違う」そんな思いが満ちていました。恐らく罵声もあったでしょうし、怒号も飛んだに違いありません。脅しもあったのではないかと想像します。28節には「彼らはののしって言った」とあります。

 しかしこの人はひるみませんでした。もはや罪ゆえに盲人と人に言われ続け、自分でもその作られた運命を受け入れるしかなかった時の彼ではありませんでした。堂々とイエスの証人として立ちました。
最終的にファリサイ派が言ったのは「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」という、いかにも返答に窮して出た、極めて乱暴で差別的・侮蔑的な言葉でした。どちらが未来へ向かって生きているか、言うまでもありません。


さて、若かった頃、歌手として、また女優として生きて来た山辺ユリコさんは、59歳の今、障がい者と健常者が共に作る劇団「は~とふる♡はんど」の代表をされています。
お母さんが乳がんで亡くなり、がん撲滅のチャリティーカラオケ大会が開かれました。そこで一人の女性出場者が手話をつけて歌う姿に心を打たれたのです。その人から手話を習うようになり、ろう者のダンスグループがあることを知らされます。自身も演じる仕事をしていた訳ですが、恥ずかしくなるくらい、そのグループの人たちの思いが体中からあふれていた、それで2002年に手話劇団を発足したのです。
30人の団員の3分の1が障がい者だそうです。コミュニケーションを取るのは大変なことで、何度もあきらめそうになったと言われます。でも周囲の励ましに支えられ、毎年公演を続けて来られました。そしてこう言われるのです。「緞帳が下りた時のみんなのキラキラした涙を見たら、やめられません。」


エルサレムの盲人は、「それは罪のせいではない。神の業が現れるためだ」と語ったイエスの奇跡の言葉に新たにされました。そして今度は自分の言葉で語って行く人生を開始しました。第二の奇跡がそこに生まれました。
こんなキラキラした物語を知らされたら、きっと誰もが「だからやめられない」という人生を歩んで行くことができるのでしょう。今日、私たちは、聖書を通して、その奇跡の物語を知らされたのです。それこそが著者が伝えたい思いだったでしょう。
 

天の神さま、人生の歩み方が変えられてゆく奇跡をありがとうございます。その力を信じて、希望のうちに歩む者とならせて下さい。