《 本日のメッセージメモ》
 コロナウイルスによる現況が「新しい戦争」と評されている。
かつてボンヘッファーは「悪魔の知恵は、すべての現実的なものの死」だと書いた。
第二次大戦の惨禍はまさにそうだった。この悪魔の知恵に、注意したい。
「私が命のパン」だと語ったイエスを、弟子たちの多くが受け入れられず、離れ去り、もはや共に歩まなくなった(66節)。
これこそが悪魔の望んだ結末と言える。彼らは悩まず考えず即決して去った。
12弟子たちも揺れたに違いない。
その12弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスは問うた。
それは言いかえるなら「自分のことだけを考えて一人で生きて行くか?」という問いかけだった。
「不安な人は、不安な情報にすがる」という。悩まず、自己正当化したいからだ。
誰だって揺れる時がある。それを否定するなら、イエスとの出会いは必要ない。
揺れて当たり前なのだ。
その揺らぎの中でイエスからの問いかけが与えられる。揺るぎない力(自分一人で生きること)を求めるのでなく、欠けや足りなさを抱えつつ共に生きてゆく道を選択することができますように。

《メッセージ全文》
 IOC国際オリンピック委員会の一委員が、2月末、蔓延するコロナウイルスの現況を「新しい戦争」と評しました。先週はWHO世界保健機関が、パンデミックを宣言しましたし、アメリカやスペインが非常事態宣言を出しました。日本でもコロナウイルス対策のために特別措置法が改正され、いつでも「非常事態宣言」が出され得ることになりました。まさに「戦争」に突入したかのような状態です。

 ボンヘッファーがかつて「悪魔の知恵」という文章を書きました。その背景には、言うまでもなく第二次世界大戦の厳しい経験がありました。

 「悪魔(サタン)の知恵というものがある。その本質は、真理の仮面をつけて現実性のあるもの一切を否定することである。悪魔の知恵は、現実性のあるものと、神によって造られ・愛されているこの世界とに対する憎しみによって生きている。それは、現実的なものの堕罪に対する神の裁きを執行するかのようにふるまう。しかし、神の真実は、愛のゆえに造られたものを裁くが、悪魔の知恵は、嫉妬と憎悪のゆえに裁く。神の真理はこの世に受肉し、現実的なものに生きる。悪魔の知恵は、すべての現実的なものの死である。」

 ボンヘッファーはこう書きました。にわかに分かりづらい文章ではあるのですが、ナチス・ドイツが行った余りにも残虐・非道な行いの数々は、確かに「真理の仮面をつけて」、「すべての現実的なものの死」とすることだったと思います。

 その戦争と、今回の「新たな戦争」はもちろん同じではありません。医療関係者の方々は懸命に治療に努力されていることでしょう。その働きに頭が下がります。でも「戦争」という事態で捉えるなら、何やら怪しげな、重なる部分はあるように思います。

 学校休校について、政府の専門家会議の方が述べていました。休校の判断について「根拠はなかった。だが合理性はあった」と言いました。正直、意味が分からない言葉でした。本来、合理性とは確かな根拠に基づくもののはずです。「募集はしていないが、広く募った」などという信じがたい言葉も別にありましたが。

 こういう訳の分からない理屈が堂々とまかり通ることが、私はボンヘッファーの言う「すべての現実的なものの死」であり、すなわち「悪魔の知恵」なのだと思っています。だって、パンデミックですから。非常事態ですから。ごちゃごちゃ文句は言われたくないのです。国民は黙って耐えましょう。「欲しがりません、勝つまでは」ですよ。というようなことにならないかと、ウイルスの問題以上に心配になるのです。

 イエスが荒れ野で40日与えられた悪魔の誘惑は、まとめるなら「自分さえよければ良い」という世界への誘惑でした。隣人、他者のことは考えず見つめず、自分だけが満足できればと考えるのなら、悪魔の提示したものは、どれもこれも魅力的なものでした。 今日読んだテキストの最後のところで、12弟子の「一人は悪魔だ」とイエスは語っています。そのあとの記述の通りユダを指しての言葉です。弟子にこんな言葉を語らねばならなかったイエスには、非常に寂しい悔しい思いがあったことでしょう。そこには「自分のことだけを考える人」という残念な意味が込められていたと思うのです。

 今日のテキストには「永遠の命の言葉」という小見出しがつけられています。岩波書店版聖書では「弟子たちの反応」となっています。いずれもあまり良い小見出しではないです。私なら「迷いの中の問いかけ」とします。

 少しここに至るまでの事情を説明しておくと、まずはあの5000人の給食という出来事が起きたのです。その奇跡の業に感動した者たちがイエスを追って来ました。彼ら群衆に向かって「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスは語りました。すると「そのパンをいつもわたしたちにください」と彼らは願ったのです。イエスの言う天からのパンとは、体を満たすパンのことではなく、心を満たし、生き生きと生きてゆくための、魂を生かすパンのことでした。

 それで「私が命のパンである」と語ったうえで、カファルナウムの会堂で懇々と説明を続けたのです。でも現実のパンと勘違いしている群衆たちには、全く通じませんでした。恐らく誰も理解しなかったでしょう。

 そのあとに続くのが今日のテキストです。しょっぱなから愕然とする出来事が記されています。イエスの説明を聞いて、理解することができなかったのはイエスを追って来た群衆たちだったはずでした。ところが、60節にあるように「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか。」と半ば怒り、半ば落胆したのは、何と弟子たちの多くの者だったというのです。

 イエスに従えば、この世的な力や栄光が与えられるだろうと信じていた弟子たちでした。それが、違うというのです。いただけるのは「永遠の命のパン」であって、それもそれはイエス自身のことだというのです。彼らにとって予想外の言葉で、激しい失望を与えられました。66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。別の聖書では「二度と一緒に歩かなかった」と訳しているものもあります。

 さて、この何だか希望のない今日のテキストから、私たち覚えておきたいのです。この弟子たちの態度こそが、悪魔の望んだ結末である、ということです。自分さえよければ、とは、他者とは歩まないということです。二度と一緒に歩かない、という実に短絡的で雑な態度。それは言いかえれば、自分だけよければ良いという思いの裏返しだったと思います。これまで一緒に歩いて来たのに、もういいと拒否したということでもあります。

 イエスが切々と説明した命のパンは、彼らが期待し望んでいたものとは全く違うものだったでしょう。だから思っていたのと違う。想像していたのと違う。それは理解の乏しさからも手伝って、大いに心が揺さぶられる事態となったでしょう。その揺らぎに対して、彼らは揺らがずに即断してしまったのです。「もう共に歩まない」。その揺らぎは当然12弟子たちとて同じだったに違いありません。だからイエスは残った12弟子たちに尋ねました。「あなたがたも離れて行きたいか」と。これこそが12弟子たちの心の「迷いの中にかけられた問いかけ」でした。

 私たちには、いつも何をどうしてよいか判断のしかねる、選択に迷う出来事が与えられます。自分の期待に反する出来事の前では、なおさらです。それで、難しいことを考えるのが嫌なので、早い決着をつけたくなるのです。揺らぐ自分を受け入れたくないのでしょう。

 学生時代に恩師からよく言われました。「揺らがないようでは駄目」と。揺らぐのは若者の特権で、何も揺らがずに大人になったらあかんと言われました。既に、ぐだぐだ迷う根暗な奴は駄目で、いつも明るく悩まない人が若者らしい」などと言われておりました。恩師は言いました。根暗で当たり前。迷って当たり前。迷わない方がおかしい。

 あの頃には分かっていなかったことがたくさんありましたが、今やすっかり、若者だけでなく、誰にも「揺らぎ」があることがマイナスのように思われていると感じます。なるべく即決で答えを出すべきだとされています。

 確かにただ悩んだところで仕方ない、様々な課題は現にあります。でもイエスは、揺らぎがないところで問いかけたのではなく、揺らぎの渦中で「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけたのです。

 カファルナウムの会堂において語った永遠の命に至るパンの話。それは神さまが私たちに望んでいる通りに、一人ひとり生き生きと喜びを持って人生を生きようという話だったに違いありません。そうであるなら、その生き方は、自分一人にだけ与えられるものではなくて、みんなに与えられるものです。だからこそ一人で生きるのではなく、共に生きて行こうという話につながるはずです。

 あなたがたも離れたいか、とは、言い換えるなら、自分だけのことを考えて一人で生きて行くか?という問いかけだったと思うのです。その問いかけは、私たちにもなされています。その問いかけに、私たちはどう答える者でしょうか。

 私たちは信仰を与えられ、教会に連なりながら、どこかで揺らがない強い人でありたいと密かに願います。コロナウイルスのニュースの中で、或る心理学者が言っていました。「不安な人は不安な情報に頼りがち」だと。自分が不安なので、その不安を正当化してくれる不安な情報に飛びついてしまうのです。何とかして弱さを払拭したいのです。ですがそれは甚だしい思い違いです。不安を打ち消して揺るぎない強さを打ち立てること。それができるなら、私たちにイエスとの出会いは必要ありませんでした。

 揺らがず、直ちに答えを出すのではなく、揺らぎの中で答えを絞り出すのです。一人にならず、孤独に陥らず、友と生きて考えるのです。ユダはその思いを捨ててしまいました。

 かつて大本営の発表を信じて心がバラバラになって大失敗した過去がありました。歴史は繰り返すと言いますが、一方で新たに歩むこともできます。コロナウイルスのために、しばらく私たちが耐えねばならないことはあるのでしょう。でも私たちが闘うべきはコロナウイルスではなく、それに乗じて自粛し、ひきこもって力を失うあり方です。本当に世を覆っている闇を見間違えて、見当はずれに不満の矛先を向けてはなりません。イエスは問います。「あなたがたも離れて行きたいか」。

天の神さま、私たちが揺らぎある弱さを抱えているが故に、あなたは一人子イエスを送って下さいました。そして共に生きるよう示されました。今こそ、その支えを一人一人に与えて下さい。