《 本日のメッセージメモ》
 「本物」に出会うと、心が揺さぶられる。ただし本物は往々にして値段が高い。
イエスが「ベタニヤで香油を注がれた」出来事。マタイ・マルコでは重い皮膚病シモンの家で、香油を注いだ女性の記名はなく、頭にかけられたことになっている。
それらの記述の違いは、大きな問題ではない。ヨハネは、事前にイエスによって生き返らせられたラザロとマルタ・マリア姉妹の家が舞台。
マリアは労働者の一年分の年収に匹敵する高価なナルドの香油を、イエスの足にそそぎ、自分の髪で拭ったという。
使うためではなく、万一の時の保険として備えられていたナルドの香油。マリアも含め恐らく初めて嗅ぐ匂いに、みんなの気持ちが高ぶったに違いない。ユダは思わず金額を思い浮かべた。それは他の弟子も同様だったろう。
しかし、イエスに最大級の感謝をささげたいマリアには、金額は問題ではなかった。その思いを十全に受け取ったイエスもまた。
 相田みつを作「みんなほんもの」という詩(左欄参照)から、偽物の無理を思う。リアル(本物)はラテン語レアリスが原語で、「現にあるもの」という意味。
 現にあるものをマリアは表現し、イエスは受け取った。私たちもそうしたい。

≪メッセージ全文≫

もう30年ほど前になりますが、伝道師になったばかりの頃、献身キャンプの実行委員に選ばれました。そこで同じく委員だったKという牧師に出会ったのです。彼は会津のおいしい日本酒を持参して来て、それを飲ませてもらった私は、余りの旨さにびっくり仰天、目が覚めました。味といい香りといい、これが日本酒か、これが本物か、と唸りました。それがKというより、日本酒に出会った忘れられない出来事となりました。

初めて日本酒を飲んだ訳ではありません。鳥取の学生時代にも結構飲みました。Zという銘柄の二級酒は、貧乏学生たちには安くて経済的に助かりましたが、恐ろしく悪酔いする魔物のような代物でした。できるだけZは飲みたくない。それで日本酒から遠ざかってしまったのです。

 最近見た或る韓国ドラマで、お父さんが娘の彼が家に来たのを喜んで、息子に「あの酒を持って来い」と命令するんです。息子は「息子の俺にも飲ませたことがないのに!」と不満タラタラですが、渋々持って来ます。あの酒とは、幻の銘酒と呼ばれている大変高価なお酒で、お父さんの宝物でした。それを注いでもらった彼が、うっかりグラスを倒してしまうのです。そしたらテーブルにこぼれたお酒をお父さんが「もったいない」と言ってテーブルに口をつけて飲むシーンがあって笑いました。で、「何ぼしたと思うてんねん。」ってことです。結局お金による価値は大きい。残念ですが気持ちはよく分かります。

 さて、今日与えられたテキストには、「ベタニアで香油を注がれる」という小見出しがつけらえています。出来事としてはほぼ同じことがマタイとマルコにも記されています。

 マタイとマルコとルカ、この3つは同じ基本資料を基に書かれていて、少しずつ記述が違うとしてもほぼ同様の記録が多いので、共観福音書と呼ばれています。

 その意味では、マタイとマルコまではよくある話ですが、そこにヨハネが加えられた記録としては珍しい出来事と言えます。そして何より、マタイとマルコでは、ベタニアという村は一緒でも、重い皮膚病シモンの家が舞台となっているのです。更にもう一つ、そこでイエスが一人の女性から香油をかけられるのですが、女性の名前は書かれていませんし、その香油はイエスの頭にかけられているのです。

 もちろん、マタイ、マルコがこの出来事を記したのは、女性の名前が大事だったのでもありません。またそれがイエスのどこにかけられたか問題でもありませんでした。その香油が恐るべき高価な香油であったこと、それが惜しげもなくイエスにかけられたこと、それに尽きます。

 ヨハネでは、その舞台がマルタとマリア姉妹の家だったとされています。重い皮膚病シモンの家とどちらが真実だったか分かりません。ただ言えるのは、やはりそれ自体は基本的に大事なことではないということです。

 ベタニアはエルサレムの東方、距離にして3キロ足らずのところにある、オリーブ山のふもとの村になります。他の記述からも分かりますが、イエスはこのベタニアをよく訪れていました。そしてマルタ・マリア姉妹の家に恐らく相当に出入りしていたと思われます。姉妹には兄弟のラザロがいて、一つ前の11章では、イエスはこの3人を愛していたと書かれているので、その親密さが伺われます。

 ヨハネではこの家に来た前段階の出来事が詳しく記録されています。ラザロが病気で死んでしまうのです。姉妹はイエスのところに使いを出しますが、イエスが駆け付けた時には既に時遅く、もう亡くなっていたばかりか、埋葬されて四日も経っていたのです。

 マルタ・マリアの悲しみを前にして、イエスも涙を流したと11章の34節にあります。その上で、洞穴に埋葬されていたラザロに「出て来なさい」と呼びかけ、ラザロは生き返って出て来るのです。

 この奇跡の出来事が科学的にどうこうかは、これまたここで大事な観点ではありません。信じる・信じないに関わらず、ここではそういう出来事が起こされたのだとひとまず受け取っておきましょう。

 そんな出来事があった後、イエスは再びベタニアのマルタ・マリア姉妹の家を訪ねたのです。そこには生き返ったラザロがおりました。この3人にとっては、イエスにどんな感謝をささげても足りないくらいだったでしょう。ですから、最大限のもてなしとなりました。

 今日のテキスト2節には、「イエスのためにそこで夕食が用意され」と、さらっと書かれていますが、夕食と訳されているデイプノンというギリシャ語は、本来「宴会」という意味です。デイプノンは、ダプトーという動詞から来ています。ダプトーは「むさぼり食べる」という意味です。マルタ・マリアたちは、ラザロを生き返らせてくれたイエスに、もうむさぼり食べても余るほどの豪勢な食事を用意したに違いありません。

 ところで、当時の食事というのは、今のように椅子に腰かけて食卓を囲むというスタイルではありませんでした。低いテーブルがあって、カウチのような寝そべるタイプの椅子に横になって食べるのでした。だから足は投げ出してぶらぶらしていることになります。

 働き者のマルタはこの時も食事の給仕をしていました。マルタとは違う感謝をマリアはなしたいと思ったのでしょう。それで香油を持って来て、この時寝そべっていたであろうイエスの足にかけたのです。食事時であれば、頭ではなく足にかけたのは自然なことだったと思われます。しかも、ただかけただけでなく、マリアは自分の髪でそれをぬぐったというのです。仰天の出来事でした。

 その香油がナルドの香油と呼ばれる極めて高価な香油だったのです。油は、鎮痛など主に医療用として用いられました。お金持ちの女性には美容のためにも使われたでしょう。また人が亡くなった時、遺体にかける埋葬用として使われていました。庶民であれば、そのほとんどの場合、それはオリーブから作られた油でした。

 ナルドの香油は、ナルドというオミナエシ科の植物から絞られたもので、物凄い価値がありました。今日のテキストにも300デナリオンという表現が使われています。1デナリオンを一日分の給料1万円とするなら、300万円、労働者一年分の賃金に匹敵するのです。しかも1リトラはわずか300ミリグラムです。

 どの家にもあった訳では決してありません。しかしある程度の家には、万一の時の財産として用意されていました。使うためには、細い陶器の瓶を壊して使うのですが、まず使わないのです。使わないで、何か必要に迫られた時、現金に換えるために保険として持っておくのが普通でした。

 マルタ・マリア姉妹の家が、ナルドの香油を普段から当たり前に使うほどお金持ちであったはずはありません。少し余裕はあったかもしれませんが、その瓶を壊して使うのは恐らく初めてではなかったかと想像します。
まして、周囲の誰もがその匂いを生まれて初めて嗅いだのです。家は香油の香りでいっぱいになった、と3節にあります。イエスに至っては、それが足に塗られたのです。イエスにとっても、生まれて初めての経験だったでしょう。みんなが、今まで匂ったことのない、あのナルドの香油の匂いに包まれる強烈な体験をしました。本物の香油の体験でした。

 それがきっと素晴らしいものだった。だからこそ、ユダが「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか」と不満を述べたのです。この香りならば、高価なのは当然。直ちに金品としての換算が働きました。後の説明の通り、彼に貧しい人たちへの思いがあったからではありませんでした。ただしユダのつぶやきは他の弟子たちとて否定しがたいものだったでしょう。

 しかもマリアは、かしずいて自分の髪でぬぐいました。イエスに対する最大級の敬愛の表現です。悲しいかな、この時、ユダは裏切りを実行する確かな決断をなしたことでしょう。イエスへの憎悪と嫉妬です。

 イエスがラザロを生き返らせたことで、多くのユダヤ人がイエスを信じた、と11章に書かれています。それは告げ口として、大祭司カイアファの元にも伝えられました。

 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ、と53節にあります。彼らもまた、イエスへの憎悪と嫉妬から、事を決断したのでした。

 マリアの行動は、通常あり得ないものでした。けれど彼女は、ラザロを生き返らせてもらったことをも含めて、自分にできる最大限の感謝をイエスに捧げたに過ぎませんでした。大事な財産を一瞬のうちに使おうとも、それは銭金の問題などでは決してなかったのです。

 イエスはただ、マリアの思いを受け取りました。同時に近づくエルサレム入城、そしてその先に待っている事態を一人覚悟していたでしょう。その覚悟をもってイエスも、イエスにできることをその都度淡々となしただけでした。これほどまでの感謝を表してもらって、十分だ。いずれ近く処刑されるかもしれない自分にとって、十分過ぎる事前の香油塗布となったのです。ですから「この人のするままにさせておきなさい」と語りました。銭金の問題ではない、マリアの思いをマリアの想像以上に、十全に受けたイエスでした。

 相田みつをさんの詩に「みんなほんもの」という詩があります。
 トマトがねぇ トマトのままでいれば ほんものなんだよ
 トマトをメロンに みせようとするから にせものに なるんだよ
 みんなそれぞれに ほんものなのに
 骨を折って にせものに なりたがる

 思えばナルドの香油だったから、弟子たち、中でもユダの気持ちが舞い上がったのでしょうか。これが通常のよくあるオリーブ油だったなら、ここまでの事件にはならなかったのかもしれません。
 しかしナルドだろうが、普通の油だろうが、イエス自身は銭金の問題ではなく、マリアの感謝を思いを変わらず受けたことでしょう。本物は、本物にしかないものを持っています。偽物のほうが、無理をしているのです。何でも探偵団とか、ゴチになりますとかの番組を見ていると、本物を見る目を持つことがどんなに難しいかを知らされます。相当の鍛錬を積まないと、見極めはなかなか難しいです。
 英語で本物のことをリアルと言います。これはラテン語レアリスから来ています、レアリスとは、現にあるものと言う意味です。現にあるものをマリアは表現しました。現にあるものとしてイエスは受け取りました。
 ユダはできませんでした。心より、お金の価値に魅かれました。もしかしたら、それは私たちの姿であるかもしれません。
 物はともかくとして、本物の気持ちを見分けるのは、相田みつをさんの詩の通り、偽らなければ、それはみんなほんものなのです。現にあるものです。偽らず、イエスに従いたいと思います。

天の神さま、次第にイースターが近づく恵みを感謝します。十字架の出来事を前にして、マリアの思いをそのままに受け取った救い主の心のありように倣えるよう、私たちの心を整えて下さい。