《 本日のメッセージメモ》
自分ではどうしようもない、出口の見えない課題の中で、誰かからの励ましや後押しを切に願うことがある。コロナ可渦の中で、山中伸弥さんやトルコのコジャ保健相の言葉はそれだ。
テキスト冒頭、イエスは「私は心騒ぐ」と語った。近づく十字架の出来事を前にして、イエスとて何の迷いもなかった訳ではなかった。
高橋純子さんは、キング牧師の演説を引いて、「言葉を磨け」「理想を語れ」と書く。それは野党に対する言葉だが、信仰にも言える。
「心騒ぐ」と言う言葉は、必ずしも適当な訳ではない。心は本来「魂」と訳されるプシュケー。騒ぐは、震動させる・かき立てるという意味もあるタラッソー。「魂は奮い立つ」と訳している神学者もいる。
イエスは迷いや恐れ、不安などの中にあっても、答えは見出していた。神さまの励ましを通して、更に語って行った。
多くの緊迫の中で、キング牧師はイエスを「愛の過激派」と表現し、どんな種類の過激派になるかを問いかけた。
イエスの言葉は「あきらめを希望に変えてくれる言葉」ではなかったか。
そのイエスが「光を信じなさい」と勧めた。実に具体的な理想の励ましではないか。
《 メッセージ全文 》
今日は2019年度最後の主日となります。今週水曜からは新年度に入ります。ちょうど桜も咲いて、例年であれば、暖かさのもとでまた歩み始めようと心新たにする頃です。でも今年はちょっと違います。ちょっとというより、かなり違います。先週は、東京オリンピックの延期が決まりました。4月も含めてこの2か月あまり、コロナウイルス対策であれこれの集会が中止や延期となりました。この「二週間が山場」はとうとう「長期戦を覚悟」となりました。それらの発表のたびに聞いて来たのが、「苦渋の決断」という言葉です。或いは「断腸の思い」という言葉です。この言葉を繰り返し聞きながら新年度を迎える今年は、多くの人にとって人生初、本当に異例のことでしょう。それこそ「苦渋」だし「断腸」だと思います。
山中伸弥さんが先々週、新型コロナウイルスに関する個人的なホームページを開設されました。そこには「国や政府のための我慢ではありません。自分を、大切な家族を、社会を守るための我慢です。」とあり、「短距離走ではなく一年は続く可能性のある長いマラソン。」「疲れたり油断してしまうと、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じます。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じたペースで走り続ける必要があります。」と書かれています。国の専門家会議とか行政とかからの声明より、よほど思いがよく分かる発信です。
今トルコ各地で、夜9時になるとそれぞれの住宅で口笛を吹いたり、拍手をしたり、音楽を鳴らしたり、電気を付けたり消したりしているそうです。それはトルコのコジャ保健大臣が「午後9時に、(コロナウイルスするに)献身的な努力を続ける医療スタッフにみんなで感謝の拍手を送ろう」と呼びかけ、それに国民が応えて行われていることだそうです。「連帯を感じる。いつか克服できると信じられる」という一人のコメントがありました。こういうのって、ほんといいなと思います。険しい顔つきで、「あとはロックダウンしかない」とか言われるよりも、はるかに心が元気になります。
さて、今日与えられたテキストはとても興味深いイエスの言葉から始まっています。「今、わたしは心騒ぐ」というものです。心が騒ぐと聞くと、通常決断することができない、或いは決断しづらい何かの課題や悩みがあって、落ち着かない状態を想像します。
実際、私たち一人一人の人生においても、そういう「心騒ぐ」時が幾つもあるものです。ありとあらゆる利害が複雑に絡むオリンピックのような国レベルの課題までではないにしても、あちらを立てればこちらが立たず、進むも引くも地獄のような、そう簡単に答えを出せない状況は個人でもある訳です。
出口が見つからず、自分だけではにっちもさっちも行かない時、誰かからの励ましや後押しの言葉が欲しいと願います。新型ウイルスという未知の状況に包まれている今は、まさにそうかもしれません。
「世界」という雑誌の4月号に、「世界は野党を待っている」という文章がありました。著者は高橋純子さん。朝日新聞の編集委員であり、論説委員をなさっています。「野党は言葉を磨け」と言う内容なんですが、その一部を紹介します。
「米国公民権運動の指導者で、のちにノーベル平和賞を受賞したキング牧師が「I have a dream(私には夢がある」」と語った、有名な演説を思い出してみる。後半、執拗に繰り返される「Let freedom ring(自由の鐘を鳴り響かせよう)」が驚異的な説得力を生んでいる。
ニューハンプシャーの美しい丘の上から自由の鐘を鳴り響かせよう。ニューヨークの雄大な山々から自由の鐘を鳴り響かせよう。ペンシルベニアのアレゲーニー山脈の高みから自由の鐘を鳴り響かせよう・・・・。
言葉とは実に不思議な「生き物」である。
革命にせよ独裁にせよ、政治が動き出す時は必ず、言葉が躍動している。自分が本当は何を望んでいたかに気づかせてくれる言葉。あきらめを希望に変えてくれる言葉。自分の力を信じ、一歩踏み出そうという気にさせてくれる言葉―客体から主体へ、主権者としての覚醒を促す。これぞ、政治における言葉の神髄である。」
高橋さんはこう書いて、「理想を語る」ことの重要性を説くのです。理想を語ることが行為の目的ないし起動力であると。これを欠いたまま、政治を、社会を変えられるはずがない。理想を語る。それは「仕方ない」に慣らされた私たち自身を語りなおす作業でもある、と。
いやはや、残念でした。こういう刺激的な文章が、教団出版局の本にないことがです。
それはともかく、高橋さんが「理想を語れ」と書かれていることは、野党だけでなく、政治の話だけでなく、私たち信仰者こそだと思いました。主にあって理想を語ること。「現実はこうだから」という現実主義に、いつから私たちは染まったままなのか、反省とともに振り返りました。
イエスは「心騒ぐ」と語ったあと、「何といおうか。父よ、わたしをこの時から救ってくださいと言おうか」と続けました。それは言うまでもなく、この後に起こされる十字架の出来事を想定しての言葉です。捕らえられる直前、オリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったという、その悲痛な叫びを思い起こします。緊迫感あふれる記録です。
ですからイエスは十字架を覚悟していました。でも何の迷いもなしに、一筋に歩んだのではありませんでした。私たちと同じように恐れもあり、躊躇もあり、心配もあり、不安さえもあったのです。それが「心騒ぐ」ということでした。
しかし、実はその訳は必ずしも正しいとは言えないのです。ここで「心」と訳されているのは、ギリシャ語プシュケーです。心でもありますが、息吹とか魂とか訳される言葉です。通常人間の心と訳されるカルディアより、もっと内的で根本的な心というべきものです。魂が相応しいと思います。
そして「騒ぐ」と訳されているタラッソーですが、不安にするという意味もあり、惑わす・混乱させるという意味もあります。その一方震動させる・かき立てるという意味もあるのです。不安はあり、混乱していたとしても、なおかき立てる思いがあることもあります。ですから「騒ぐ」ではなく「奮い立つ」として、「今、私の魂は奮い立つ」と訳している神学者もいるのです。
自分にはこれから死が待ち構えている。それも社会的に理不尽な形で、乱暴なやり方でそれが近づいているとすれば、一切恐れがないはずはありません。何とか助かる道を求めて良かったと思います。もっと言えば逃げても良かった。
けれどもイエスは恐れと不安のうちにも、自分の出すべき答えは分かっていて、なおそれから逃げなかったのです。だから「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください」と続けたのです。そしてそれに応えて神からの励ましが与えられました。
高橋純子さんが引用したキング牧師の言葉ですが、何の恐れも不安もない中で語られた理想ではありませんでした。家を襲撃され、逮捕・投獄され、常に緊迫の渦中にありました。誰からも支持を得たのではなく、非暴力・無抵抗の闘いでありながら「過激派」というレッテルを張って、攻撃する人たちもいました。そんな中でキング牧師は「正義のための過激派」という一文を書いています。
「しかし、なお考えるうちに、わたしは過激派と呼ばれることに、むしろ満足を覚えるようになりました。あなた方の敵を愛し、あなたがたを呪う者を祝し、あなたがたを虐げる者のために祈りなさい、と言われたイエスは愛についての過激派ではなかったでしょうか?
正義を水のように、義を大いなる流れのように流れしめよ、と言った預言者アモスは、正義についての過激派ではなかったでしょうか?わたしは主イエスのしるしを身におびている、と言ったパウロは、イエス・キリストの福音のための過激派ではなかったでしょうか?・・・・問題は、わたしたちが過激派かどうかということではなく、どんな種類の過激派になるかということでしょう。憎悪のための過激派か、愛のための過激派か?不正を存続させるための過激派か、それとも正義のための過激派か?」
キング牧師はイエスを「愛の過激派」と表現しました。イエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と語りました。
イエスの言葉こそは、高橋さんの言葉を借りて言うなら、自分が本当は何を望んでいたかに気づかせてくれる言葉。あきらめを希望に変えてくれる言葉。自分の力を信じ、一歩踏み出そうという気にさせてくれる言葉―客体から主体へ、人間としての覚醒を促す、これぞ人生における言葉の神髄。」だと心から思います。
そのイエスが「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と人々に勧めたのです。実に具体的な理想でした。この理想のうちに今を生きたいと思います。
天の神さま、暗闇の渦中にあります。私たちを励まして下さい。信仰は何も問題がない時だけの力ではありません。むしろ今こその力です。どうかおおらかに、軽やかに心を導いて下さいますよう。