《 本日のメッセージメモ》  

復活から一週間後、弟子たちは相変わらず隠れ家に籠っていた。そこに姿を現したイエスは、トマスに手やわき腹を触ってみるよう声をかけた。   一週間前、何らかの事情で他の弟子たちと共にいなかったトマス。復活の主に会った弟子たちへの悔しさもあったのか「傷跡に触ってみなければ信じない」と口にした。証拠を求めたのだ。 これらのことから、疑い深い人物像とされてきたトマスだ。が、「触ってみよ、信じる者になれ」(27節)とイエスに言われた瞬間に、分かったことがあったのではないか。 彼も含めて主の十字架の前に逃げ出した弟子たち。「傷跡」を口にしたトマスだったが、それは想像のことで、実際に最後までを見てはいなかった。証拠を問いながらの不真実。 一週間の間、繰り返し思い起こされたのは、生前の主の真実だったろう。「見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸い」(29節)とイエスは続けた。 既にイエスの真実を思い起こしていたトマス。もはや現物(証拠)を見たから信じるあり方は抱いていなかった。 素晴らしい対応をいつの頃か「神対応」と表現している。時を与え、自分で思い起こす時間を備えたイエスこそは「神対応」だった。コロナ禍で混乱する中、この対応に導かれて過ごしたい。

《 メッセージ全文》

今日は先週のイースターから一週間、ちょうど本日にぴったりのテキストが与えられました。十二弟子の一人、トマスに復活のイエスが現れた出来事が描かれていました。 復活から一週間後のことでした。 一週間前、復活の日、他の弟子たちはみんな復活のイエスと出会ったのでした。トマスはそこにいなかったので、会うことができなかったのです。何があったか分かりません。「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)という文章は意味深です。一緒にいることができない何らかの事情があったかもしれないと想像するのです。 その事情があった中で、他の弟子たちは自分たちは「主を見た」とそれぞれ口にしたでしょう。「体を見せて下さった」と興奮する者もいたことでしょう。一人取り残された感がトマスには湧きました。悔し紛れも手伝ってか、「イエスの手を見、この指を釘跡に入れて見なければ、またこの手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない」(25節)と口にしたのでした。動機はともかく「証拠」を求めたのです。 一つ前の段落に、イエスが他の弟子たちへ「手とわき腹」を見せて復活の姿を表したとはっきり書かれています。彼らはそれを見て喜んだけれど、誰も検証はしなかった訳です。

「実際にそうやって触れてみなければ信じない」という記述から、いつしかトマスは「疑い深い」人というイメージが作られました。それにしては、トマスという名前は英語圏の国々で今もなおよく使われています。トーマス・エジソンだとか、機関車トーマスだとか、トマスそのものもそうですが、トマスの短縮形のトムとなると、トムとジェリー、トム・ソーヤーの冒険、トム・クルーズにトム・ハンクスにと、例を挙げればキリがありません。 トマスより、トムと読んだ方が私たちには親しみがあるかも、です。そのトムが「触れてみなければ信じない」と悔し紛れに語ってから一週間が経ちました。26節冒頭の「さて八日の後」とは、復活から一週間後のことでした。ユダヤではその当日も入れて数える慣習なのでそうなるのです。 この日は、トマスも他の弟子たちと一緒に家におりました。「戸にはみな鍵がかけてあった」という続きの記述は、彼らが当局を恐れて隠れていたということを意味しています。その隠れ家にイエスが再び姿を現したのでした。 そしてトマスに向かって声をかけたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と。何も説明がされていませんが、このイエスの言葉は、鍵がかかっている家に入り込んだこと以上に不思議な言葉です。 トマスが悔し紛れに言い放った言葉は、他の弟子たちに向けてであって、そこにイエスはいなかったのです。でも、あたかもそこにいて、言われたことへの答えのように語ったのです。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と続けました。 このイエスの言葉も、疑い深いトマスの人物像を彷彿とさせるものかもしれません。 しかし、トマスはこの時に気づいたものがあったのです。それは「イエスの最後を自分は見ていなかった」という自身の行動についてでした。

 「手の釘跡やわき腹に触れてみなければ信じない」と自ら言ったけれど、トマスも含めて弟子たちは全員十字架刑の前に逃げ出していて、その最後を見てはいないのです。「十字架刑だから手足に釘を打たれ、わき腹を槍でえぐられたに違いない」という通常の処刑の想像からモノを言ったに過ぎませんでした。信じるための証拠をいかにも科学的、合理的な要求かのように口にしたトマスでしたが、考えてみれば見届けてはいなかった。 思えば、皆がイエスを信じていたら十字架刑など起らなかったことでしょう。そもそも復活の前に、最もイエスと近かったはずの弟子たちが怖れをなして逃げ出してしまったのでした。「触れなければ信じない」と口にしてから一週間。トマスの脳裏に繰り返し浮かんだのは何だったでしょうか。それは間違いなく生前のイエスの言動の数々であったに違いないのです。信じ切ることができなかった自分たちの不信仰と対比して、イエスの真実だけが何度も蘇ったことでしょう。  だから「わたしの主、わたしの神よ」という返答を迷わずなしたのです。そのトマスにイエスは「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」となお言葉をかけました。  トマスがこのかた一週間、尽きず思い起こしたのはイエスの真実でした。生きて復活した生身のイエスを見たから信じる、ではないのでした。既にすべてが真実だった。トマスにとって、もはや現物を見て、その証拠のゆえに信じるあり方はなかったのです。 他の弟子たちと言えば一週前、もう復活のイエスと出会ったのでした。傷跡も含め生身のイエスと会った。でも変わらず隠れ家に籠っていました。「見ないのに信じる人は幸い」とは、トマスと言うより、他の弟子たちに聞かせた言葉のようにも思えます。

 最近「神対応」と言う表現を時々聞きます。驚くほど優れた、迅速な対応のことで、主にクレーム処理について使われています。(ちなみにその反対語は塩対応)。トマスの発言の現場にいなかったのに、イエスが何故答え得たか。他の弟子たちには自ら見せた、トマスはその場にいなかったし、やっぱり旅を通して生前から現実主義的な彼を知っていたからとか、想像は沸きますが、それはここで問題ではありません。  それより、いつでも対応できたはずなのに、一週間待った。その間、トマスが自分自身で深く思い起こす時を備えたイエスでした。これこそが本当の「神対応」ではないでしょうか。  「見ないで信じる」ものとは、現物のことではなく、生きるに当たって一番大事なもののことだと思えてなりません。例えばそれは「こころ」です。コロナ禍の中で大きく揺さぶられ混乱している今年は、特にそれを強く感じます。時を与え、自身で考えることを備えて下さるイエスの、真実の神対応に委ねて今を過ごしたいと思います。

神さま、復活の主を与えられ感謝です。何が真実で、今何を大切にすべきか、一人ひとりに教えて下さい。