《本日のメッセージメモ》  

昔遊んだ「双六(すごろく)」。途中に「振出しに戻る」升目が設定されていて、時に地獄に落とされたものだ。

テキスト・21章は、後代の加筆とされる。20章最後には「本書の目的」と小見出しされた一段落がある。恐らく、混乱する1世紀の教会に励ましを送るための付加だった。

冒頭はガリラヤ湖での7人の弟子にイエスが姿を現した箇所。ルカに記された、かつてイエスの指示で大漁を与えられ、漁師たちが弟子とされた出来事があった。それと同じ出来事が再現された。

もしペトロら漁師たちだけだったら、夢破れて仕方なく故郷に戻ったゆえの話だったろう。だが、そこには、例えば「触れないと信じない」と言い張ったトマスら、漁師ではなかった弟子たちも含まれていた。

一見、「振出し」に戻されたかのような出来事だった。しかし同じではなかった。メンバーが違ったし、まるで再現が起るのを信じ期待しての出来事のようだった。そこには主が共におり、仲間がいるのだった。

コロナ禍によって、積み上げたものが崩され、振出しに戻ったかのような私たち。でも、ゼロに戻されたのではない。主がおり、仲間がいる。 感謝!

《メッセージ全文》  

皆さん、「双六(すごろく)」で遊んだことがありますか?今ふうに言えば、ボードゲームの一つです。さいころを振って、出た目の数だけ駒を進めて、早く上がるのを競うゲームです。もしかしたらすごろくを知らない人もいるやもしれません。

駒を進めるコースが、升目に区切られていて、ところどころに細工されています。ちょうど止まったところが「あと3つ進む」とかボーナスのような嬉しい場合もあるんですけど、恐ろしいのはせっかく半分まで来たのに、というところか、ひどいのはもうちょっとで上がりというところの近くに「振出しに戻る」という地獄のような升目が用意されていたりすることです。  

さいころですから、ちょうどそこに止まる確率は6分の1で、そうならない確率のほうがはるかに高い。にも関わらず、そういう時に限って6分の1に当たったりするのです。まあ、だからこそ面白いのですが、当人には悔しい限りです。私の子どもの頃には、お正月とか結構家族や友達で盛り上がりました。  

さて今日与えられたテキストは、ヨハネによる福音書の21章からの出来事でした。一つ前の20章の終わりには「本書の目的」と小見出しを付けられた短い一段落があります。これで示されているように、ヨハネによる福音書はもともと20章で終わっていました。21章は後代の加筆になります。  

20章最後の「本書の目的」をちょっと読みます。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命をうけるためである。」  

いったんはそのように書かれて閉じられたはずだったんでしょうが、例えばこの福音書が書かれた1世紀頃の状況は、ローマからの激しい迫害で、教会はぼろぼろ、信徒は実に苦しい状態に追いやられていた頃です。どうしても皆を励ます必要を感じて、21章が書き足されたのだと思われます。  

その21章の最初に記されたのはペトロたちが故郷ガリラヤに戻って来て、ティベリアス湖(すなわちガリラヤ湖)で漁をした出来事でした。ルカによる福音書(8章)に記されている出来事ですが、かつて彼らがイエスと出会った場所であり、その日不漁だったのに、イエスからの指示によって網を打ってみれば、網が破れんばかりの大漁となったという出来事が起きたのでした。  

かつてと言っても時間的にはそんな遠い昔ではありません。ほんの数年前のことです。ペトロらガリラヤ湖の漁師たちにとって、驚愕の出来事が起こされて、なおかつ職を捨ててイエスに従った、忘れようにも忘れられない原点の場所と言っていいでしょう。  

それこそ十字架の出来事が起こるまで、つまりわずか何日か前までは、ガリラヤ湖は彼らが一切を捨てて出かけた故郷、もしいずれ帰って来るとすれば、偉くなったイエスを筆頭に、彼に仕えた功績ある部下として故郷に錦を飾る夢の舞台であったでしょう。  

その夢ははかなくも敗れ去りました。まるで敗残兵かのごとく、しかし他に頼るところもなく、帰って来るしかなかったガリラヤだったのです。もう少しで上がりかと思いきや、予想もしなかった振出しに戻る升目に当たってしまったのです。少なくとも、彼らの事情を知る者だったら、冷たくそのようにとらえたでしょう。  

否、本当に彼らの事情を知っている者だったら、違う捉え方をしたかもしれません。それが付加されたこの21章の意図であるような気がしてならないのです。それは、このガリラヤ湖に戻って来た弟子たちがみんな漁師たちだったのではないという記述に込められています。  

今日の小見出しには「イエス、七人の弟子に現れる」とあります。ペトロの兄弟のアンデレの名がはっきりないのが少し不思議ですが、ともかくシモン・ペトロ、ゼベダイの子たち(すなわちヤコブとヨハネ)、の3人ははっきりガリラヤ湖の漁師でした。戻って来たのがもし彼らだけだったら、確かに夢破れて振出しに戻るしかなかった物語だと言えるでしょう。  

ところが、そこに漁師ではなかった人たちが含まれていました。あと4人のうち、「ほかの二人の弟子」とされている二人の名は判明しませんが、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、少なくともこの二人は漁師ではなかったはずです。  

トマスについては先週も読みましたように、復活のイエスについて「触ってみなければ信じない」と頑なに語った人でした。はじめイエスが復活の姿を現した時、彼だけがそこにいなかったのです。このことで他の弟子たちとの間に、更に溝ができてしまった感がありました。  

それでも、そのトマスを含めた弟子たちの前に、再度復活の姿を現したイエスでした。その時までは当局を恐れて、彼らは隠れ家に潜んでいたのです。それ以降のことは、「本書の目的」にある通り、こまごまとは記されなかったのですが、その後、弟子たちはそれぞれの道を選択してとりあえず散って行ったのでしょう。  

元漁師だったペトロたちがガリラヤ湖へ戻ったのはある意味当然でした。本来であれば、トマスもナタナエルもそれぞれの場へ戻って行ってもおかしくはありませんでした。それなのに、彼らはガリラヤ湖へ共に連れ立ったばかりか、「漁に行く」というペトロに「わたしたちも一緒に行く」と返答しているのです。漁師でない二人が行ったとしても、ほとんど役には立たないはずでした。  

結果的には、大量となった網をみんなで運ぶことができた訳で、ちゃんと働きの場が提供されました。彼らのために朝食を用意していたイエスに「弟子たちはだれも、あなたはどなたですかと問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(12節)とありました。それはペトロを筆頭に、復活のイエスが共におられることをもう十分に確信していたことを示しています。  

振出しに戻った彼らでしたが、前と同じではありませんでした。状態は同じように見えて、そこには変わらず彼らの主イエスがいたし、イエスを介して共に弟子とされた仲間がいたのです。もう恐れて閉じこもっていた彼らではなかったのです。  

思いがけないコロナウイルスの蔓延で、私たちもこれまで積み重ねて来たものが瓦解したかのような、振出しに戻されたかのような状況にあります。でも、弟子たちと同様、同じように見えて、そうではないのです。例え離れていても、イエスが共におり、仲間が共にいるのです。振出しかもしれないけど、ゼロからの出発ではないのです。むしろ希望に向けての出発です。心から感謝します。

天の神さま、何があろうと励まし続けて下さるあなたの業に感謝します。今私たちが孤独だったとしても、一人ではないことを改めて心に刻みます。どうぞ、常に支えて下さい。