《 本日のメッセージメモ》
 電化製品などの取り扱い説明書やカードの入会規定は、とても全部読めない。膨大で、言葉も難解だ。
テキストは14章から16章に渡る長いイエスの「決別説教」の一部に当たる。別れに当たって熱く重い言葉が続くが、15章18節からの一段落は「迫害の予告」と小見出しが付けられている通りの大変暗い内容となっている。
「迫害される」ことをストレートには言いづらい思いが難解さにつながっている。恐らく弟子たちは不安の余り、スルーしたのではないか。少なくとも、「今更そんなことを言われても」という困惑の思いだったろう。
だが、イエスからすればごまかしようのない予測だった。16章には「その時、私が語ったと思い出させるため」(4節)とある。聞いていないとは言わせない強い思いが込められる。
しかし、弟子たちを「聖霊」が助ける予告こそがイエスの主眼だった。イエスに対する証しとは「人は神によって生きる」ことに他ならない。
朝ドラ「エール」のワンシーンから、現実を超えて困難に立ち向かう人の背景に「諦めず腹を括る」ための力を感じさせられる。「覚悟するしかもうあらへん」という聖霊からの力である。

《 本日の説教全文》
 先週の月曜・火曜、例年であったら、私は大阪教区総会へ出向いて、大阪女学院のキャンパスで、関西労伝の資金集めのための「労伝カフェ」を開いていました。それも今年はみんな中止になりました。唐突な話ですけど、思いがけない時間が与えられましたので、今まで気になっていた某薬局の会員になることにしました。家族で私だけメンバーでなかったのです。もちろんスマホからの手続きです。
 
 買い物をした時ポイントをもらうために登録をした訳ですが、びっくりでした。膨大な規約が定められているのです。「たかが」と言ってはいけないと思いますけど、たかがほんの少しのポイントのために、ここまで約束事があるのかと驚きました。こんなん全部読む人がおるんかいな?とつぶやいてしまいました。家電製品などの取り扱い説明書も長いですね。
 
 結局、何も読まずにページをスルーして「同意」のボタンを押しました。手続き自体は実にあっけないのです。読まないで言うのも何ですが、多分万一の時の様々な条項が書いてあるのでしょう。それも法律用語を交えた難解な文体です。

 万一ですから、まず滅多には起こらない仮定の出来事です。問題が起る確率はゼロに近いほど低いと思われます。でも、真面目に考えればゼロではない。ゼロではない以上、何かが起ったらきっと慌てる羽目になるのでしょう。

 ほんの少し不安は残りますが、まあおおかた大丈夫!あとはポイント貯めるだけです。自分で「ええ加減やな」って思います。で、あんな膨大でこ難しい規約を読めっていうほうが無理な話やで、と自己正当化を図ってしまうのでした。チャン、チャン。

 さて、今日与えられたテキストは、ヨハネによる福音書15章からの一段落でした。そもそも14章から始まって16章に至る長い記録は、イエスが弟子たちになした「決別説教」になります。お別れに語ったメッセージですから、中身は熱くて重いのです。

 例えば15章の冒頭には「イエスはまことのぶどうの木」という小見出しがつけられています。有名な聖句の一つでしょう。自分はぶどうの木、弟子たちはその枝。そう語った上で、「互いに愛し合いなさい」という命令で17節までの一段落が締めくくられています。熱くて重いのです。

 ところがそれに続く18節からの今日の一段落には「迫害の予告」という小見出しが付けられています。もうそれだけで「やばい」と身構えてしまう暗い箇所となります。実際、読んでみて「やばい」と感じられた方も少なくないと思います。

 最初は「もし○○なら、」という仮定の形で言葉が続いています。例えば18節は「もし世があなたがたを憎むなら」という仮定です。でも仮定の形を取りながら、実は現実のことをイエスは話しているのです。

 つまり「世間はお前たちを憎んでいる」ということなんです。その方がスッキリ分かるのに、イエスは何故かにわかに分かりづらい表現で語ったのです。それが当時の語り口だったのかもしれません。でも、余りにストレート過ぎては、弟子たちにショックだろうという思いやりも含まれていたかもしれません。16章には「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」(1節)という説明が記されています。

 「お前たちは世間から憎まれる。それは世間が自分イエス、そして神を憎んだからだ。だからイエスへの迫害同様に、弟子たちもこれから迫害される。」今日のテキストをかいつまんでまとめると、そうなるのです。

 つまずかせないため、とか言い繕われてもなあ、と弟子たちは思ったかもしれません。

 「あなたがたを人間を取る漁師にしよう」、ペトロたちガリラヤ湖の漁師だった者は、そのイエスの呼びかけを信じ、一切を捨てて従って来たのです。
 
 イエスとの宣教の旅を通じて、薄々分かっていたことも多々ありました。群衆みんなが信じる訳ではありません。それどころか反発する場合もどんなにあったことでしょう。何より、当局から狙われる事態を迎えてもいました。
 
 それでも、イエスを信じたばかりに、これから迫害されると予告されても困る訳です。ここまで従って来て、今更それを言われてどうしたら良いですか?聞いた弟子たちは、不安と対峙したくない一心で、イエスの言葉をスルーしたのではないでしょうか。

 そういう弟子たちの心の動きをイエスは読んでいました。ですから16章にはこうも書かれています。「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときには、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(4節)

 万一のことが現実になった時、聞いてないとは言わせない。読んでなかったとは通らない、私はあの時お前たちに確かに語っておいたのだ、そういうイエスの強い思いを感じない訳には行きません。「これから先待っているのはバラ色の未来だ、それを信じて待て」というような嘘偽りを語るイエスではなかったのです。

 ただし、イエスはここで弟子たちが迫害されて終わると語ったのでもありませんでした。「父のもとから出る真理の霊」(26節)という表現を用いて、弟子たちに聖霊が与えられ、イエスの言動の証しをなす者となるという予告をしているのです。それは一言で言うなら、「人は神によって生かされる」という証しに尽きます。そしてそれこそが、今日のテキストの一番大事なメッセージ、主眼であるのです。

 ところで、この春NHKの朝ドラを見ています。「エール」というドラマです。御覧の方も結構多いでしょう。作曲家・古関裕而さんをモデルにしたドラマです。番組では古山祐一という名前で、関内音という声楽を学ぶ女性と結婚する予定です。

 ただ今は、福島の家業を長男として継がなければならない事情があったり、コンクール入賞の副賞として留学できるはずだったのが世界恐慌でダメになったりで弱気になり、祐一は結婚も音楽も諦めようとするのです。
 
 ところが、音は違います。裕一のために東京のレコード会社を回って仕事先を懸命に探して回るのです。残念ながらどこからも断られて、万事休す、意気消沈している音を、今度は母親が断固「諦めてはならない」、「一から始める」よう励ますのです。それは爽快なワンシーンでした。

 この関内家がクリスチャン家庭という設定なのです。そのこともあってか、ドラマには度々教会が登場します。聖公会の司祭でもある立教大学の西原廉太教授(学Y時代の友人)がキリスト教考証を務めておられます。「諦めてはならない」「不可能に挑戦する」ということを、母親は歯が折れそうな固い粟おこしを必死の形相でかみ砕いて、「噛んで割るのよ」と叫ぶのでした。

 それはあくまでもドラマ(しかも笑える筋立て)ですが、私はそのワンシーンの背景にキリスト教信仰が込められているように思いました。歯を食いしばって耐えろと言われたら心折れるけど、粟おこしを噛んで割れなら、行けるかも!この後イエスは「悲しみが喜びに変わる」という話をしています。違う出来事によってそうなるのではなく、同じ出来事の中でそうなると言うのです。

 かたや裕一のほうは現実を選んで夢を捨てようとしていました。音だってその選択をするほうが、どう考えても現実的なのです。泣く回数が減るかもしれません。

 しかし、結果がどうであろうと、条件が厳しく現実的でないとしても、それがその人本来の人生である限り、簡単には諦めないと腹を括ること、それを後押しする力が例えば聖霊であるように思えてなりません。噛んで割る、覚悟するしかもうあらへん、ということです。

 イエスは、これから弟子たちに待っている未来は決してバラ色ではないけれど、その困難を助ける聖霊が送られて、イエスの弟子たる人生をきっと全うすることができる、その確信の思いを語ったのです。

 弟子たちよりはるか後にイエスと出会った私たちですが、事態は同じです。困難などないほうがいいに決まっています。でも何故か困難は訪れる。その時、現実を選択して逃げる道もない訳ではありません。それなのに聖霊によって、敢えて逃げない選択が与えられるとしたら、もはや腹を括るしかない、覚悟するしかもうあらへんのです。その力を祈り求めたいと思います。

 天の神さま、揺れる私たちの心を受け止め、固く据えて下さい。