《 本日のメッセージメモ》
 J・カルヴァン曰く「ヨハネはキリストの霊を伝えた」。この福音書はキリストがどのような目的で世に現れたかを明言した(宮平望)。
テキストは決別説教の締めくくりの部分。まさにイエスの遺言にふさわしい文言。
故・中村哲医師の口癖は「実行あるのみ」、「行動で示せ」だった。その下敷きに「わたしは既に世に勝っている」とのイエスの遺言があるように思う。
遺言を書くのは、存外難しい。しでかした失敗や迷惑かけた人々へのお詫びから始まり、お世話になったことへのお礼と感謝。そして後の人々への委託や依頼のお願い。なかなか適当な言葉にならない。
自分を特別視することが、適切な言葉化できない原因かもしれない。
弟子たちもイエスの遺言は、師匠が偉大過ぎて困惑の部分をあったろう。だがイエスは「互いに愛せよ」以外の命令はしていない。
「既に世に勝っている」とは、この世の価値観に打ち勝ったという意味ではない。この世の価値観以外の価値観(つまり神のそれ)に生かされているということだ。
イエス以外に口にできない史上最強の励ましだった。この励ましを受けたら、あとは「実行あるのみ、行動で示せ」につながるのだろう。

《 メッセージ全文》

 聖書日課の中から聖書箇所を選んでいます。それで今年は1月からこのかたヨハネによる福音書を読んで来ました。そのために一番使って来たのが、西南学院大学の宮平望先生が書かれた解説書です。

 ふと解説書の帯に目が留まりました。そこには宮平先生がこの本の序論で書かれた文章が記されていました。ちょっと紹介します。

 「宗教改革者ジャン・カルヴァンによると、マタイとマルコとルカが概してキリストの生と死を物語ったのに対して、ヨハネはキリストの務めや、死と復活に関する説明に焦点を合わせており、マタイとマルコとルカはキリストの肉体を、ヨハネはキリストの霊を知らせている点で、このヨハネによる福音書は他の福音書を理解するための扉を開く鍵であるという。したがって、カルヴァンは他の福音書より先にこの福音書を読むことを勧めている。この福音書こそ、キリストがどのような目的で世に現れたかを明言しているのである。」

 一度聞いただけではすぐには分かりづらいかもしれません。でも一番あとで書かれた福音書です。イエスの死後おおよそ70年くらい経って書かれたものです。初めのマルコに比べたら、随分と教会を取り巻く事情も変わっていたでしょう。ですから、イエスに関わる出来事より、イエスの存在の内容をヨハネは懸命に伝えたのです。

 他の福音書にはない、イエスの決別説教は、まさにイエスの内容そのものだと思います。14章から16章に渡る長いこの決別説教の、今日は最後の部分を読みました。お別れの説教の中の締めくくりの箇所になります。

 「お別れ」ではありますが、それはイエスからすれば処刑されることを覚悟して語っったものですから、言わば「遺言」と言っても差し支えないと思います。実際、この後はすぐに逮捕され、十字架刑への道のりとなって行くのです。

 イエスにとっては死を見つめた説教でしたが、弟子たちにとっては、それは漠然とした不安や恐れはあっても、具体的にはよく分からない、聞くことが半分苦痛を伴う話だったかもしれません。

 それでもヨハネ、そしてヨハネの弟子たちが懸命にイエスを思い起こして記した決別説教は、その内容をほとんど理解していなかった自分たち弟子の貧しさの告白であると同時に、そうであっても後を託して誠実に語り続けた師イエスへの感謝が下敷きだったに違いありません。

 中でも、イエス亡きあと、現実の課題の中で繰り返し繰り返し思い起こされた決別説教の最後の言葉に、彼らがどれほど励まされたかを想像します。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」弟子たちは、苦難の渦中で「わたしは既に世に勝っていると」と最後に語ったイエスから、勇気を出す力を与えられ続けたことでしょう。まさに遺言にふさわしい締めくくりの言葉だと思います。

 先週ペシャワール会報が届きました。去年十二月銃弾に倒れた中村哲医師亡きあとのことが今号の中心でした。PMS(平和医療団・日本)の総院長を引き継がれた村上優さんは「中村先生を失った悲しみと喪失感は私たちを圧倒しました」と書いておられました。しかし、実行あるのみ!という中村先生の口癖を繰り返し、希望を引き継いで行くと。

 1月に西南学院で開かれたお別れの会での息子さんの挨拶も載せられていました。「行動で示せ」と若い頃言われた言葉が「最も濃く」記憶に残っていますとありました。それは息子さんにとっては相当にプレッシャーの言葉だったと推測します。父親が余りにも偉大過ぎました。しかし、それでもそれは今では大切な叱咤激励の言葉だと語っておられました。この中村さんの人生哲学の下敷きに「わたしは既に世に勝っている」とのイエスの言葉があるような気がしてなりません。

 ところで、皆さんは遺言を書かれたことがあるでしょうか?この場合、相続に関わる遺言ではなくて、単純な(広義の)意味での遺言です。私はあります。ほんの少し前まで、毎年誕生日に書いていました。

 アホらしくなってもう止めてしまったんですが、アホらしくなったというより恥ずかしくなって止めた理由は、一つには死を意識する切羽詰まった理由がない中で書くことなので、どうしても文言に切実さがないということです。

 もう一つは、だから書くことがワンパターンになってしまうということです。一年前に書いたのと、次の年とほとんど何も変わらないのに気が付きました。それで、書き続ける情熱を失いました。

 私のような凡人が遺言を書くとなると、まずは謝罪から始まります。意識的に、或いは無意識のうちにしでかしてしまった数々のことごと、迷惑をかけた方々へのお詫びが第一です。だからお詫びだけは膨大な量です。読まされる人からしたら大迷惑です。それでも許され、或いは助けを与えられ過ごして来た人生がありますし、当然お世話になった方々がいます。それへの感謝と御礼が2番目になります。全員書き連ねることもできないので、一部に留まりますが。そして最後が、後の方々への言葉です。何かして欲しいということではありません。後のことは任せるとか託したという依頼のようなものです。遺言ですから、最後はバシッと決めたいとつい思うのです。

 自分で言うのも何なんですけど、読み返したら陳腐です。笑ってしまいますよ。若い頃は泣きながら書いたこともあったんですけど。人間いつ亡くなるかは分からないのは当然なので、もう少し死を意識できたらなと思いますが、なかなか難しいです。お別れに当たって、命の切迫する言葉を紡ぎたいのだけど、如何せん想像力が乏しいのです。遺言はともかくとして、愛の言葉にせよ、闘いの言葉にせよ、死ぬまでに一遍言うてみたいとあこがれるセリフの一つでも欲しいと願ってしまいます。

 そこが問題だと気づきました。作家の町田康さんが「自分は普通の人間である。普通の人間の普通の人生はそもそも楽しくないのである。」と書いておられました。それを読んで、ハッとしました。私も普通の人間に過ぎないのに、どこか特別視ししていて、だから特別な言葉を求めてしまうのか、そう思いました。

 さて、イエスは長い長い決別説教の中で、弟子たちに命じたのはたった一つ「互いに愛し合いなさい」これだけでした。それこそ、実行あるのみ、行動で示せ、というものだったと思います。

 弟子たちには師匠が偉大過ぎて、とても足元にも及びません。しかしよく読むと、イエスは弟子たちに自分を超えて託するものなど何一つここで語ってはいないのです。依頼もありません。頑張れとも頑張らないで良いとも何も鼓舞していません。

 もう一度最後の3行を読みます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 いっぺん言うてみたいような最高・最強の励ましのセリフは、私たちにとって他でもないイエスが語ったのでした。イエス以外には誰も言えないセリフ、「わたしは既に世に勝っている。」

 凄い言葉です。史上最強の励ましと言って良いでしょう。ただそれは、「この世の価値観に打ち勝った」ということではありません。そうではなく言い換えれば、自分は「お前たち人間が通常願うような価値観の中では生きていない」という宣言であったと思います。この世的価値観とは違う価値観の中に生かされている。それが「わたしは既に世に勝っている」という言葉の中身であり、事実イエスの生涯の中身でした。そうであれば、もはや怖いものなどありません。この言葉、この価値観に励まされたなら、まさにあとは、「実行あるのみ、行動で示せ」という生き方につながることでしょう。

神さま、イエスの励ましを通し、その招きに導かれて、私たちを私たちの想像を超える喜びや生きがいや価値観の中に生かして下さい。