《 本日のメッセージメモ》
 呉智英(くれ・ともふさ)さんが、コロナ禍に対し「宗教全負け」、神は何をやってる?と文章を書いている。辛辣な風刺だ。
だが、「神は万能」と考える誤解がそこにある。それは私たち自身にも。
仮庵祭(一年で最後の収穫の祭り)で、イエスは立ち上がって語った。信じる者は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。
「その人自身」がそう「される」のだ。神が自ら動いて強制的にそうするのとは違う。
むしろ人間こそ、力を望み、それを振るい、他者を信じない。神はその力があっても、そうはされなかった。その姿勢をこそ学ばねば。
復活したなら、弟子たちと共にずっといても良かったろう。だがそれでは働きが限定される。まだ見ぬ人をも含めて、すべての人が「内から生きた水が川となって流れ出る」よう望んで、イエスは天に昇った。
そういう喜びを弟子たちと分かち合って別れたのだ。自分だけ有頂天になる人間とは違う。

《 メッセージメモ全文 》 

評論家の呉智英さんが或る雑誌に連載している文章がおもしろいです。つい最近のは「宗教とコロナ禍」と題して、福沢諭吉が少年の頃、お札を踏んでみたが何も起こらなかったことや、神社の社の中を開けてみたら、ただの石ころが入っていて、別の石ころとすり替えたことなどを紹介しています。それは福沢の自伝の中に書いてあることだそうです。福沢は神仏への懐疑を生涯貫き、一方、柳田国男はその「幻覚」が文化の一つの柱になっていると気づいたと書いています。

 その続きを読みます。

「さて、話は冒頭に戻ってコロナ禍である。この二か月間、宗教全負けではないか。4月8日付け朝日新聞は、パキスタンやインドのイスラム教礼拝所で、濃厚接触を禁じる政府当局と信者たちとの衝突を報じている。4月24日からはラマダン(断食月)が始まったが、日没後大勢で集まる食事会ができない。そもそも神(アラー)は何をやっとるんだ。キリスト教も同じ。4月12日は復活祭だが、バチカンは教皇ら少人数だけのミサを行った。信者が集まるほど死者がふえるので礼拝を自粛させたのだ。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(コリント前書)って、何だったのだろう。神(ヤーウェ)、負けてるぞ。仏教・神道も同断だ。7月に予定されていた京都祇園祭の山鉾巡行が中止になった。祇園祭って疫病退散の祭りだったはずだ。闘う前から負けているではないか。」(あと略) ・・・というものです。

 半分はジョークも交じっているのでしょうけど、「宗教全負け」って、なかなか辛辣な風刺だと思います。でも実際そうなので、呉さんに反論できなくて、ちょっと悔しいです。ただ、他の宗教はともかくとして、私たちキリスト教の場合、昔から神さまに対して誤解があるのです。それは、「万能の神には何でもできる」という誤解です。

 さて、先週21日木曜は、教会暦では昇天日という日でした。十字架刑から復活して40日後、イエスが天にあげられたことを覚える日です。キリスト教信仰の中では、イエスが神の子として神の右の座に着かれたとするとても大事な出来事(高挙)とされています。

 その割には、昇天の記述はマルコとルカ、2つの福音書が短く書いているのと、あと使徒言行録にほんの少し詳しく書かれているのと、合わせてたった三か所だけです。

 今日読んだテキストは、十字架の出来事のおよそ半年前のこと。舞台は仮庵祭で賑わうエルサレム神殿でした。仮庵の祭りは、ユダヤの人々にとって過ぎ越しの祭り、刈り入れの祭りと並ぶ三大祭りの一つです。一年の終わりに行う収穫の祭りですから、最も大切なお祭りだったでしょう。

 その祭りの神殿で、イエスは境内で人々に話しをしたのです。既に命が狙われている状況にありました。イエスもそれは分かっていたので、そもそも「人目を避け、隠れるようにして」神殿に来たと7章10節にあります。命の危険を承知の上で、話をした訳です。そして同時に、いずれ近いうちに現実となるであろう十字架刑とその後を見据えていたのです。その意味では昇天を予感させる出来事でした。

 神殿でイエスを信じる人たちへ影響が広がるのを恐れて、祭司長やファリサイ派はイエスを捕えようとして下役を遣わしたのです。今日のテキストの前半は、その下役たちに向かって語ったイエスの言葉が書かれていました。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」イエスはそう語りました。

 これはまさに、十字架刑のその後のことを語ったもののように思われます。弟子たちにではなく、捕らえに来た下役たちに向かって語ったものですから、彼らには弟子たち以上に受け取り方に誤解があり、大きな食い違いが生まれました。

 イエスが語ったのは、神の中に生かされる命のことでした。ですが、彼らはそうは受け取れなかった、と言うより全く理解できませんでした。現実の世界がすべてだったからです。ですから「いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか。」(35節)という噛み合わない反応となりました。

 にも関わらず、つまり、何も理解しようとしない人、できない人たちを向こうにおいて、祭りが絶頂に達する、最も盛大に祝われる終わりの日に、いつも座って教えていたイエスが立ち上がって、大声で語ったのでした。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 これこそが、イエスの望みであり、働きであり、後に続く者たちへの委託だったと思います。

 イエスにとって、イエスの言葉を文言として頭で理解できるか否かは問題ではなく、語ったことを心に受け入れるかどうか、すなわち信じるかどうかが一番大事だったのです。信じた人にはご褒美をあげよう、信じた人には特別こうしてあげようと語ったのではありません。信じる人は、その人自らの人生がこれまでと違う内容に変わる。この世で価値があるのはお金や地位など見えるものだと多くの人が思い込んでいるのだけど、イエスの語ったことを信じるなら、愛や正義や平和や柔和や誠実さが喜びとなるような、見えないものを大切にして生きる者となる。その人の内から生きた水が川のようになって流れ出るような、そんな人生になる、そういう意味だったと思うのです。

 私たちも含めて、神さまへの誤解を大いに持っています。神さまは万能な方だから、すべて神さまが力を振るわれる。振るわれるに決まっている。そう思っていますし、そう期待します。だから逆に理不尽なことや、不条理なことが起ると、神さまのせいにして、疑問をぶつけたり、不平をつぶやいたりする訳です。コロナでこんなに苦しんでいるのに、神さまはどうして何もしてくれんのやろ?神さまでもコロナの前では沈黙なのか?

 ところがイエスが語ったように、神さまが自ら動いて、強制的に、一気に何かを成し遂げるのではありません。信じた人の内から生きた水が川のようになって流れ出るように、「される」のです。神さま自身が直接何かされると信じる事が信仰ではありません。万能の神さまは万能だからこそ、ぐっと自分の力で何かするのを堪え、欠けがあろうと人間に一切を任せられるのです。これが神さまに学ばねばならない一番の姿勢です。人間こそは足りないのに力を無理にも得て、その力を自在に振るいたい存在です。またその力を手に入れた人ほど、他者に委ね任せることをしません。

 だいたい、イエスが天にあげられたのは神の右に座するという、この世的な栄光の地位を得たことの証ではなかったのです。一人の人間として徹底的に誰とも同じ人の一生を生きたイエスでした。死を乗り越えるものがある、そのことを証しするため、復活の出来事が起こりました。

 せっかく復活したなら、せめても弟子たちと共に最後までもう一度歩んでくれたら良かったのに、と思わない訳ではありません。しかしそれでは、その働きが一部の人たちの一部の時期に限定されてしまいました。会ったこともない人にも、この先の人たちにも、人生は神の中に生かされること、それをはっきり示すために、天に昇る別れの日が設定されたのだと思うのです。

そのためには弟子たちへの信頼がなかったら無理でした。どんなに足りない弟子たちであっても、大丈夫、「信じる者の内から生きた水が川のようになって流れ出るようになる」、この確信を分かち合ってイエスは天に上げられたのです。だからこそ、お別れなのに、弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24:52~53)、と記されているのでしょう。

 目に見えるものをつい大事にする私たちは、思いがけず予想外のラッキーが起ると、天に昇ったこともないのに、自分だけ有頂天になります。天にも昇る気持ちを味わうのです。しかし、目に見えないものを大事にし、それを誰にも分かち合うイエスは、すべてを託し、弟子たちと喜びと平安を共有して天に昇ったのでした。
 
天の神さま、目に見えないあなたの存在と働きを信じます。この世とは違う価値観の中で、喜びと希望をもって生きられるよう導いて下さい。