《 本日のメッセージメモ 》
 久しぶりに出席した釜ヶ崎公民権運動運営会議で「日本にも黒人差別がある」という発言があった。一つの差別を通して通底する他の差別に気づく感性は大切だ。
テキストには2か所「実に」という言葉が用いられている。原文ではそれは単純な接続詞に過ぎない。訳が「過ぎる」ともいえる。
しかしイエスに出会うまでのパウロにとって、救いは「我にのみ」あり、他者について聞くことも語ることもなかった。文章でなく、自分の口で語るなら「実に」はパウロの気持ちそのものだったろう。実に信仰は自分で語り、聞くことから始まる。それは命とも人権とも言いうる。
「間違って」いる。しかし、だからこそ、それは新しく、創造的なのだ。と石原友明さん。新しい生存の技法へズラした、とも。イエスの生涯こそ、まさにそれだ。
全米各地での黒人差別への抗議デモ。それは連帯の輪として世界にも広がる。その様子は権力者には争乱かもしれない。が、聞き、語る人たちの「百花良乱」の姿である。そこに共に咲く花でありたいと思う。

《 説教全文 》

 先週、釜ヶ崎公民権運動の運営会議に、三か月ぶりに出席しました。自粛を解除した訳ですが、やっぱり直接みんなと出会って語り合えることは何ものにも代えがたいと思いました。嬉しかったです。

 その会議の中で、ある方が「日本にも黒人差別があるのに、聞かれんねえ」と発言しました。ちょうど黒人差別の話題が出たのです。もう少しこの発言を補うと、黒人という人種差別は日本にはないかもしれないけど、経済とか住居とか貧しい環境に押しやられている人たち=敢えて言えば日本における黒人層のような人たちは、現にいる。でも彼らの声が全然聞かれていない、そういう趣旨の発言でした。
 
 会議内での発言とはいえ、自由に語り合っている中での発言で、例えば議事録に正式に残すような発言ではありません。でも私はこの発言が妙に心に残ったのです。発言そのものに賛同しますが、「日本にも黒人差別がある」と言われた、その経済や住居やらの貧しい環境を強いられている人々とは、言うまでもなく釜ヶ崎の人たちを指しているのです。黒人差別の話をしながら、底流にある同じような差別の実態に敏感に反応する感性が凄く大切なのだと思わされました。

 例えば何か一つの差別問題があって、それに関わる体験を持ったとしても、しばしば他の差別問題には鈍感で気づかない。ひどい場合には差別そのものを犯してしまうことがあるのです。偉そうに言うつもりではなく、私自身そのような人間だからよく分かる気がする訳です。つまり、聞かなければ分からないという話です。

 さて、今日のテキストの中に、「実に」と訳されている文が二か所ありました。10節と17節です。全体に「万人の救い」と小見出しがつけられています。万人、つまり誰もが皆、救われるということが書かれているのですが、そのことのために2つのことが大事だとパウロはいうのです。

 その2つのことを語っている10節と17節に「実に」という言葉が用いられています。私たちが普段、「実に」という言葉を用いる時は、例えば「実に見事な演奏だ」、「実に美しい」とかのように、強調の意味合いや感嘆(驚き)の思いを表す時ではないかと思います。

 ところが、原文を読んで見ると、使われているのは単純な接続詞です。「なぜなら」とか「つまり」とか「こういう訳で」とか、そんなふうに前後をつなげる、続けるための言葉が、もともとは使われているのです。

 ですから、そのまま訳している聖書もたくさんあります。岩波書店版では、「なぜならば」「それゆえに」となっています。新改訳では「なぜなら」「ですから」です。本来はさらっと訳せば良い単語だと思われます。それで十分に意図はつながるのです。大事なのはそのあとの「口で告白すること」、つまり「語ること」、そして「聞くこと」。この二つが大事だとパウロはここで語っていて、それをことさら強調したり、感嘆の思いを付加する必要はないのです。
 
 新共同訳だけが、その2つのことに対して「実に」という訳をしています。誤訳とまでは言えませんが、敢えて言えば、その訳はちょっと「過ぎる」と言えるでしょう。でも、パウロがもし文章ではなく、自分の口で語っていたら、そう使ったかもしれないのです。

 イエスと出会うまで、すなわち非常に熱心な律法主義者として生きていた時、彼にとって大事だったのは、語ることでも聞くことでもありませんでした。大事なのはいかに律法を守って生きるか、それに尽きました。律法を守る者が救われるのであり、律法を守らない人は批判の対象でしかなかったのです。もう少し言えば、他者の存在は深く気に留めるものではなく、関心は自分だけにあった、そう言って過言ではなかったでしょう。

 ところがイエスとの出会いを通して、その誤りに大いに気づかされることになりました。救いは神さまの働きで、誰にも皆与えられるものであるのに、パウロにとって救いは我のみにあった、それに気づかされたのです。

 そうであれば、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」という新共同訳の2つの訳は、単純に「ですから」「なぜなら」と訳するよりも、とても力強い、熱い思いのこもった言葉ではないか、そう思うのです。

 石原友明さんという画家・美術家がいます。京都市立芸大の先生(教授)でもあります。DJが二つのレコードプレーヤーのターンテーブルを手で回して、反復して繰り出す手法について、それは「間違って」いる。しかし、だからこそ、それは新しく、そして創造的なのである。と述べておられることを新聞で読みました。その装置は、元の用途を無視して使われることで私たちの新しい生存の技法へとズラされたのだ、そうです。

 律法をいかに守るかしか頭になかった頃のパウロには、汚れるとか病気がうつるとか祝福に預かれないと言われていた人たちと付き合うイエスの存在は、それこそ「間違った」存在であり、間違ったあり方だったに違いありません。

 でもそれでは終わりませんでした。石原さんの言葉を借りて言うなら、イエスは新しく、創造的でした。イエスはその生涯をかけて、その生き方で私たちの新しい生存の技法へとズラしたのだと思います。パウロはそこに気づかされたのです。

 最初に、「日本にも黒人差別がある」という発言を紹介しました。そこだけを聞いたら、そしてちょっと固く捉えたら、「日本のどこに黒人差別があるか?」と反論されるかもしれません。でもやっぱりあるんです。先週は、久しぶりに映画を見に行きました。激しい内戦の続くシリア、包囲されるアレッポの町で懸命に生きる人たちを撮ったドキュメンタリー映画「娘は戦場で生まれた」。日々爆撃が続く日常、医療現場にさえマスクなどありませんでした。

 帰りに元町でラーメンを食べました。そしたら店の常連客らしき人が「うちにもようやくアホのマスクが届いたで」って、店主と話してました。とうとう「アホのマスク」まで落ちたかと、笑ってしまいました。が、そのアホのマスクがとっても必要とされるところがあるんです。

 全米各地で黒人差別反対のデモが行われています。それに連帯する抗議のデモが世界中に広がっています。コロナ禍の中にあっても、数千人、数万人という単位で人々が集まっている様子をテレビで見て、胸が熱くなりました。そこに確かに生きている命を感じたからです。権力者からは、時に争乱としか見えないデモや集会でしょう。でも、命の叫びを聞いて、更に語るために集まったその人たちは「百花良乱」の花々でした。私たちもそこに共に咲く花でありたいと思います。

天の神さま、語ることから、聞くことから信仰は始まるとパウロは書きました。それは命の始まりであり、人権の始まりでもあると確信します。そのために語り聞く私たちとして下さい。