《 本日のメッセージメモ 》
 テキストの小見出しは「反キリスト」。その文言も、反キリスト者に対する文章も極めて厳しい内容だ。
当時の教会内外の状況を考えれば、当然と言える。22節にあるように、イエスを救い主と認めず、神と子の関係を受け入れない人たちは、教会とは相容れないだろう。
だが、それでも「正義」には気を付けたいと思う。単に「反」では終わらず、憎悪を伴って排除することも少なくないからだ。
ヘイトスピーチはその具体例だ。また緊急事態宣言の間、自粛要請に従わない業者が攻撃された現実も見た。
それが当たり前なのではない。他者を脅かす正義などない。イエスの内に留まるとは、それを知ることである。
信仰がブレたくない私たち。救い主はブレないが、私たちはブレる存在だと覚えておきたい。テレビCMからさえ、洗脳されることがある。
イエスから教わるのは「解き放たれる」こと。不自由になるなら、それは信仰ではない。
7月からの教会礼拝再開に向けて、「解き放たれる」ことを心しておきたい。

《 説教全文 》
 先週金曜から、無観客試合とは言え、ようやくプロ野球が開幕しました。尼崎の商店街に、「阪神優勝までマジック120」の垂れ幕も掲げられました。元気を取り戻す一助となって欲しいと思います。

 さて、アンチという言葉を私が最初に覚えたのはいつであったか、「アンチ巨人」というフレーズでした。今はアンチエイジングとか、すっかり普通に使われるようになりましたが、最初は強すぎる当時の巨人に対する強烈な対抗意識がプロ野球ファンでなくてもあったように思い起こします。辞書でアンチの使用例を見ると、「アンチ巨人」って、今でも書いてあります。

 アンチとは、「反」、つまり反対を意味する接頭語です。もともとギリシャ語で、実は今日のテキストの中にも使われているのです。小見出しにもあるように「反キリスト」という単語で、原文には「アンティ・クリストス」と書かれています。聖書の中で、ここだけで用いられている単語です。

 ヨハネの手紙は、未だ著者も執筆年代も、成立場所も特定されていません。ヨハネという名前が使われてはいますが、人物は誰かよく分からないのです。三つある手紙のうち、今日の第一の手紙は、書かれたのが恐らくは1世紀後半から2世紀初頭の頃ではないかと言われています。

 教会の外にはもちろん、キリスト教を迫害する人たちがおりましたが、この手紙は、教会の中にも出現した、教会を危うくする人たちが、この「反キリスト」と呼ばれている人々だと思われます。

 外にも敵がいる状況にあって、せめて教会内では皆が一致して歩まねばならない時、それを壊すような人たちがいたとしたら、確かにそれは大問題だったでしょう。時代は違いますが、私も今そういう状況がもしあるとしたら、見過ごすことはできないと思います。

 それにしても、読んでお分かりのように、「反キリスト」という言葉自体もそうですが、「反キリスト」に対して相当に厳しい文章が羅列されていました。22節にはこうあります。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」とあります。

 この一文から、彼らが教会に連なりながら、イエスを救い主として認めない人たち、イエスを神の一人子だとは思わない人たち、つまり神さまと一人子の関係を信じない人たちだったことが推測されます。

 そうであれば、著者の抱いた危機感は当然のことだったでしょう。そういう人たちの言葉に惑わされず、ただただイエスの内に留まれと呼びかけるのも、当たり前の成り行きだったと言えます。私たちだってそうすることでしょう。著者の思いを否定するつもりは何もありません。

 しかし、現代を生きる私たちは、その必死な思いとは別に、この出来事から注意しなければならないことがあるのです。正義だったら、何を言い、何をしても良い訳ではないからです。自らの正義をよく見つめなければなりません。

 アンチは「反」という意味だと言いました。反には色々な意味合いが含まれるのです。意見や立場が違うことは「反対」となります。でも、反対の立場であっても、互いを尊重し、互いを切磋琢磨する者として意識するなら、「対抗」に留まります。

 ところが、はっきり邪魔な存在だとするなら、相手は「敵対」者となりますし、そこには常に「反発」の思いが生まれますし、ついには「排除」「排斥」したい願望へと変わって行くでしょう。

 イエスを救い主として認めず、神も一人子もないという人が教会の中にいては、現実としては由々しき問題ですし、看過できません。できれば、教会外へどうぞ、そこならご自由ですよ、と言いたいです。だったら何の問題もないように思えます。

 ところが、案外そうはならないのです。排除・排斥したい人たちへは、しばしば憎悪、憎しみが伴うからです。しかも我こそは神の元にいる。神の正義がバックにあると思い込んでしまうと、相手を少々罵倒するくらいでは済まず、脅迫しても、迫害しても「致し方ないこと」になりかねないのです。あのパウロでも、かつて熱狂的なユダヤ教徒であった時は、キリスト者を迫害して何も顧みない人物でした。

 ヘイトスピーチをする人たちが具体的な例と言えます。自分こそは正義と思い込んでいるから、他者の人権を脅かしても全く平気なのです。人を脅かす「正義」などどこにも存在しません。イエスの内に留まるとは、まさにそのことを指しているのです。他者の命を大切に扱うことです。

 緊急事態宣言が出されていた間、自粛要請に従わない業種の方々、例えば一部のパチンコ店の人たちは相当悪く言われました。ひどい時は脅迫もされました。自粛要請を出すこと、それに従うことが「正義」で、従わないことは「悪」でした。

 ほんの少し譲って、例えそうであっても、相手も同じ人間であることを忘れてはならないと思うのです。基本的に、人は自由であり、自由に思いを抱く権利を有しています。

「これが一番、これしかない」となって、(心の中で思うのは勝手ですが)、違う宗教を侮蔑したりしては決してならないでしょう。

 私たちは自分の信じているものにブレがあってはならないと思っています。半分当たっており、半分勘違いです。私たちの信じているイエスに、きっとブレはありません。それは固く信じて良いと思います。けれど、それを信じている私たちには、ブレがあるのです。

 聖餐式の方法で、随分ともめました。ブレのある私たちがなすことなのに、こうでなくてはならない。それ以外は違法だと強い主張が出されました。意見はともかく、守らない人は教団から出るべきとも言われました。その対立からは何も良いものは生まれなかったと言えます。

 外出自粛している間に、それまでよりテレビを観る時間が増えました。知らず知らずのうちに、ちょっとブレたかもしれません。何度も同じコマーシャルを見て、洗脳されたのでしょうか。と或る自動車保険のCMで言うんです。「通販型もいいかなって。」、毎日聞いているうちに、私も段々「いいかなって」思えて来ました。

 安くて早くて、サービスが良いそうです。文句のつけようがありません。でもある時ふっと思いました。これだけCM流す費用は巨額だろうな。その分も、ちゃんと保険に込んでるんだろうな・・・。

 私たち、イエスを通してあれこれ学んでいます。中でも「解き放たれる」こと。つまり自由について教わっています。それを信じたばかりにかえって心が窮屈になったり、不自由になったりしたとしたら、ましてそのことをもって他者を糾弾するようなことになったとしたら、それはきっと信仰とは言えないのでしょう。

 7月から、今後の状況をよく見ながら、教会での礼拝を再開したいと思います。外出自粛も感染防止には必要でしたし、巣籠りも悪いことばかりでもありませんでした。通販型も悪くないのです。だけど、直販には直販の、ダイナミックな喜びと交わりがあります。少しずつ、解き放たれたいと願っています。

天の神さま、私たちの交わり、私たちの信仰をおおらかにまとめて下さい。命を脅かすものにはきちんと対処し、ことさら正義を振りかざすことなく、イエスのうちに留まる者とならせて下さい。