《 本日のメッセージメモ》
 先週23日、沖縄慰霊の日追悼式で、高校3年生の高良朱香音さんが「あなたがあの時」という詩を朗読した。
平和学習で学んだ、住民の命を助けた戦中のガマの出来事がベースにある。
本テキストは、著者も執筆場所も明らかではない。内容は、イエスが亡くなって5~60年後、様々な時代の変化に伴って、最初の頃の元気を失った信徒たちへの励ましである。
それにしては、現代の私たちに「神は燃え尽くす火」という表現は難しく、受け入れがたい。
高良さんは、想像力を働かせ、今の自分に結び付け、だから今があると詩に書いた。手紙の著者も同じだったろう。イエスの十字架は、神の業の結果だった。だから今があるのだ。
毎年初夏、カルガモの引っ越しが話題になる。
以前引っ越し途中で消えた親子は、案じた人に一時保護されていた。小さな命を見えにくくしていたのは、人間社会の都合と、人間の想像力の欠如だったと思う。
命を命として取り戻すために、自分に結び付けた想像力が欠かせない。実はイエスと共に、私たちも神の火によって焼かれた。だから今がある。熱く感謝する。
 

《 本日のメッセージ全文》
先週23日火曜日は沖縄慰霊の日でした。75年目となる追悼式で首里高校3年生の高良朱香音(たから・あかね)さんが「あなたがあの時」と題した平和の詩を朗読しました。ちょっと長いですけど、読みたいと思います。


 「懐中電灯を消して下さい」 一つ、また一つ光が消えていく 真っ暗になったその場所は まだ昼間だというのに あまりにも暗い 少し湿った空気を感じながら 私はあの時を想像する
 あなたがまだ一人で歩けなかったあの時 あなたの兄は人を殺すことを習った あなたの姉は学校へ行けなくなった
 あなたが走れるようになったあの時 あなたが駆け回るはずだった野原は真っ赤っか 友だちなんて誰もいない
 あなたが青春を奪われたあの時 あなたはもうボロボロ 家族もいない 食べ物もない ただ真っ暗なこの壕の中で あなたの見た光は、幻となって消えた。
 「はい、ではつけていいですよ」 一つ、また一つ光が増えていく 照らされたその場所は もう真っ暗ではないというのに あまりにも暗い 体中にじんわりとかく汗を感じながら 私はあの時を想像する
 あなたが声を上げて泣かなかったあの時 あなたの母はあなたを殺さずに済んだ あなたは生き延びた
 あなたが少女に持たせたあの時 彼女は真っ直ぐに旗を掲げた 少女は助かった 
 ありがとう
 あなたがあの時 あの人を助けてくれたおかげで 私は今 ここにいる あなたがあの時 前を見続けてくれたおかげで この島は今 ここにある
 あなたがあの時勇気を振り絞って語ってくれたおかげで 私たちは 知った 永遠に解かれることのない戦争の呪いを 決して失われてはいけない平和の尊さを
 ありがとう
「頭、気をつけてね」 外の光が私を包む 真っ暗闇のあの中で あなたが見つめた希望の光 私は消さない 消させない 梅雨晴れの午後の光を感じながら 私は平和な世界を創造する
 あなたがあの時 私を見つめたまっすぐな視線 未来に向けた穏やかな横顔を 私は忘れない 平和を求める仲間として

 高良さんは平和学習でガマの体験をしたのです。そこで聞いた体験者の姿を自分に重ねて書いたのがこの、「あなたがあの時」という詩です。1945年4月に、沖縄の読谷村にあるチビチリガマという洞窟に、米軍から逃げた村人140人が逃げ込みました。が、先を悲観して集団自決を図りました。それで亡くなった83名のうち、半数は12歳以下の子どもでした。
 ところがチビチリガマからわずか600メートルほどしか離れていないシムクガマに避難したおよそ1000名は、米軍からの投降の呼びかけに応じて、全員が助かったのです。その中に英語のできるハワイ帰りの人がいて、皆を説得したというのです。これ、随分知られた話なので御存じの方もたくさんいらっしゃることでしょう。

 さて、今日のテキスト、難しかったです。このところ与えられる聖書日課の箇所が何とも難しくて叶わんです。何度読んでもよく分からない。と言うより、伝わって来ないのです。

 ヘブライ人への手紙も、公同書簡とか牧会書簡とか呼ばれる手紙類同様、未だ著者が誰だか良く分かりません。書かれた場所も背景も明らかではありません。わずかに、書かれたのが80年から90年頃であろうという推測だけです。
 12章冒頭の一段落には「主による鍛錬」という小見出しのもと、与えられた信仰生活を競争に例えて、「忍耐強く走り抜こうではありませんか」という呼びかけがなされています。
 それに続く14節からの次の段落には「キリスト者にふさわしい生活の勧告」という小見出しが付けられていて、今日読んだのはその一部に当たります。いずれもキリスト者として聖なる生活をしよう、頑張ろうということです。それ自体は分からないではないのですが、罰を逃れないよう、とかの文言が、理解力にストップをかけてしまうのです。
 とりわけ今日最後の29節の「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」という文章が、とても険しすぎて、繰り返し読むごとにかえって敬遠したくなるのです。私たち、何とか励まされたいと思って聖書を読んでいますから、「神さまは焼き尽くす火」と言われては、恐怖しか生まれない気がしてくる訳です。
 
「燃え尽くす火」とは、日本人が持っている地獄のイメージのほうが近いかもしれません。燃え尽くされては何も残らない、余りに厳しい裁きの言葉です。この手紙は、エフェソからローマに送った説教のまとめだと主張しておられる方もいますが、ローマの人々だったらすぐに理解し、受け取ることができたのでしょうか。

 ともあれ、書かれたのが80年から90年だとすると、イエスが亡くなってから5~60年は経っています。当初、それこそ燃えるような思いでスタートした教会も、時代が変わり、指導者が代わり、何か特別な成果を見るでもなく、かえって迫害は強まるばかりであったろう当時の状況を考えると、手紙の著者が何とかして皆を励ましたいと思った、そのその思いだけはかろうじて分かる気がします。
 
 高良さんの書いた「あなたがあの時」という詩を聞いて、初めよく分からなかったテキストの言葉の意味を教えられたように思いました。イエスの十字架の出来事は、確かに神さまの燃え尽くす火の出来事だったと思えました。終わりに思われた凄絶な出来事でしたが、次の命が芽生える希望の出来事でした。

 今年は沖縄戦が終わって75年、日米安保条約が発効して60年の節目の年でした。2年前、チビチリガマを荒らした沖縄の少年たちがおりました。彼らはそこで何が起きたか知らなかったのです。知らなかったら、そうなるのです。否、現実には知り様はないのです。聞いて、想像するしかありません。

 私もチビチリガマを訪れたことがあります。ライトを消すと自分の手のひらさえ見えない漆黒の闇でした。そこで起きた事件の悲惨さにばかり目が向きました。近くのシムクガマでは全員が助かったと聞いても、それが「自分」につながっているとは気が付きませんでした。
 
 高良さんは自分に結び付けたのです。「だから今がある」と。ヘブライ人への手紙の著者もそうでした。イエスの十字架の出来事は、神の燃え尽くす火の出来事だった。自分に結び付く出来事だった。だから今がある、と。忘れてはならないことでした。

 今日の説教題、またまたけったいな題だと思われたことでしょう。毎年5月になると、いわゆる季節ネタと呼ばれるニュースが流れます。カルガモの引っ越しのニュースです。どうも日本のあちこちで流れているようです。
 数あるカルガモ引っ越し報道の中で、どこだったか引っ越ししていたはずの親子が消えたというニュースがありました。何しろ、小さな子ガモを連れての道のりは、途中結構な危険に満ちているのです。段差あり、クルマあり、動物あり・・・。それでカルガモを案じた人が一時的に避難させていたようで、安堵しました。いっとき見えなくなったカルガモたちですが、それは見えにくくした人間世界が原因でした。乏しく、貧しい私たちの想像力です。
 カルガモでは語呂が悪いので、敢えてアヒルにしました。

 私たちが見えにくくしているものがあります。小さいけれど大事な私たちの命です。命を命として取り戻すために、想像力が欠かせません。それも自分に結び付いた想像力です。あなたがあの時、十字架についた。神の燃え尽くす火で、私たちも含めて焼かれた。しかし、「だから今がある」のです。

 天の神さま、忘れやすい私たちの目を覚まし、豊かな想像力をもって生きる者として下さい。