No.67「てやんday」
牧師 横山順一
 
 コロナ禍の中で、誰もがこれまでの「当たり前」を奪われ、傷ついている。
 いつまで続くか、今のところ先は見えない。宣言が解除されて、少々の日常が戻ったとしても、かりそめに過ぎないのでは。どこかで次の波を恐れ、いわゆる「新しい生活様式」からはずれぬよう気を使っているのが現状だろう。
 でも、この苦渋の時をただ「苦渋」で終わらせないため、多くの人たちの懸命な闘いがなされている。私だって、その一人で、何とかして「元気」を維持したいと思っている。
 「このピンチをチャンスに」変えよう、などと訴えている人も少なくない。
 過日、ある牧師が書いた文章を読んだ。
 「このたびのコロナ禍で、教会員に会う機会を奪われたが、教会員名簿を見て祈り、電話やメールを通してコミュニケーションを図る頻度は増え、牧会的配慮は以前より深まり、共同体感覚は強くなったと感じている。」
―と書かれていた。更に、「試練だが、教会のあり方や牧会の本質を振り返る契機となった。いま願うことは単なる集会再開ではなく、真の共同体形成に向かうこと」だと続けられていた。
全く異論はない。この牧師の言う通りだと思う。
思うのだけど・・・。
正直言うと、もうええわ。外出自粛は耐えるとしても、どこでもマスクも、礼拝の動画配信も、私には新しい生活様式じゃない。
 懸命に「緊急事態」に対処しているのに、もはや「過去(コロナ前)は戻って来ない」ことを受け入れ、次に備えるなんて、無理・無理、絶対無理。
 誰だったか、「オンラインが当たり前になるならもう辞める」と言った芸人さんがいた。
 私はその方に賛同する。江戸っ子じゃないけど、
「てやんでぃ!」って、叫びたい。
それに「この、すっとこどっこい!」「おととい、来やがれ!」って付け加えたい。
 現状はよくよく分かるのだが、何か「異常」を余りにもすんなり受け入れているとしか見えない世界に舌打ちしたくなるのだ。
 人と接してこそ何ぼのものである。何がソーシャル・ディスタンスだ、何が三密だ。
 そうやって黙って「異常を正常」とすることに、もしかしたらもうかなりの人が慣れて来たのではなかろうか。
 そうであるなら、確かに「コロナ前」は戻って来ないだろう。それを認めることが、コロナ後への第一歩なのか。私はできそうにない。残念ながら、切に願うのは単なる集会再開だ。悪いか?
 しんどい時もそれを口にせず、常に前を向いて積極的でありたい、のはやまやまだが。
 そんなに頑張らなくてもいい。いつも能動的じゃなくてもいい。
しんどい時に「しんどい」と言えて、互いに「そうだね」と交わせる関係がいい。
 いつか当たり前が戻って来るとしたら、その時、別人になっていたくない。
 そのために、一週間に一度は、本音を吐露する「てやんday」を設けよう。