《本日のメッセージメモ》

 Tさんからの久しぶりの新聞投稿には、失明したことが書かれてあって衝撃だった。看護師からの慰めに「周りの目もはばからず泣いた」とあり、読んで泣いた。

しかしかつての仕事仲間の支えがあり、「全盲となったのに、最近見えるものがある。今まで見えなかった人の優しさが見えるようになった」、「それは大きな希望である」と。

テキストは新約誌上唯一「婦人の使徒」と記されるタビタの出来事。病気で亡くなった彼女のため、近くにいたペトロが呼ばれた。

駆け付けた彼が見たものは、タビタを愛してやまない仲間のやもめたちの熱い思いだった。それ故に主に倣い、ペトロはタビタを「起こした」。

肉体のよみがえりというより、心のよみがえりを想う。復活(イースター)は、温かく優しい共同体の中に起こされたのだ。終わりではないという宣言、それは本当に大きな希望である。

イースターはきっと度々与えられる出来事だ。それを通して私たちは生かされるのだろう。

《メッセージ全文》

 私には新聞の投稿仲間が何人かいます。と言っても、会ったことはありません。密かにと言うか、私が勝手にライバル視している、同好の友という存在です。広島のTさんはその一人です。

 このところしばらく、Tさんの投稿を見ないので、どうしたのか気になっていました。そうしたら6月末に、久しぶりに名前を発見したので、一瞬、ああ良かったと思ったのです。

 でもそれは束の間のこと、文章を読んで衝撃を受けました。その投書を全文紹介します。

 「昨年の秋口から再三、目の手術を受けたが、そのかいなく両眼の視力を失い、全盲となった。現実を受け入れる間もなく、年末には白杖と身体障碍者手帳を手にした。生産性や効率や競争重視の社会で、私の居場所はあるのか?暗闇と明日への不安。情緒不安定となった。

 ある日、車椅子で眼科受診を待っている時、見えない恐怖と孤独が私をいつものように襲った。沈む私の背中に温かい手を当て、看護師が「大丈夫よ」と声をかけてくれた。私は周りの目もはばからず泣いた。

 私は7年前まで10年以上、障がい者施設で職員として働いた経験がある。全盲の私を支えてくれたのは、障がいを持つ当時の仲間や言葉。「人は一人では生きていけない」とメッセージをくれていた。

 体力作りと心のケアを兼ねて今、デイケア施設に通っている。障がい者になった私を皆が優しく受け入れてくれる。以前は職員、今は利用者。双方の立場からの意見やアドバイスを施設責任者から期待される。

 全盲となったのに、私は最近見えるものがある。今まで見えなかった人からの優しさが見えるようになってきた。それは大きな希望である。」

 以上、このような投稿でした。職業をアルバイトと書いておられた時期もありましたが、障がい者の施設で働いておられた時期があったのを初めて知りました。当時からTさんの投書の筆致は優しかったのを覚えています。

 病院で、不安と孤独の中でいる時に、看護師さんから手を当てられ、励まされ、「周りの目もはばからず泣いた」という、その時の想像が胸に迫って、私も読んで泣きました。

 さて、今日のテキストには小見出しにあるように、ペトロがタビタという女性を生き返らせたという出来事が記されていました。本当に死者を生き返らせたかどうか、そのこと自体には実は関心がありません。やっぱり余りにも非科学的で非現実的だからです。

 けれども、そのような驚くべきことが起こされた背景にはとても惹かれます。タビタという名前はアラム語の名前です。ギリシャ語で言うと、「ドルカス」で、それは「かもしか」という意味だと36節にありました。

 このタビタ、「婦人の弟子」と書かれているのです。この出来事のすぐ前はサウロ、すなわち後のパウロが回心した出来事が記されていて、まさにイエス亡き後の、まだまだできたばかりの教会の時代の出来事だったのです。教会と言うよりは集会だったでしょう。

 それまでイエスに従った女性はたくさんいたことでしょう。でもこのタビタが初めて「婦人の弟子」と記されたのです。教会・集会内での働きもきっとあれこれ担っていたに違いありません。初代の教会の時代ですから、現代の教会とはまた違う面も多々あったと思います。婦人の弟子として、記録魔ともいえるルカは、私たちの想像の及ばないそれら使徒・弟子としての働きを書いてしかるべきだったとも言えます。しかし、ルカが記したのはそういう働きではありませんでした。「彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた」と36節の続きに書かれています。

 詳しい事情はよく分かりませんが、そんな女性が病気になって死んだというのです。その頃、彼女がいたヤッファと言う町から、おおよそ20キロばかり離れたリダと言う町に使徒ペトロが赴いていました。一つ前の段落に記されていますが、ほうぼうにいる信徒を励まして回っていたのでしょう。リダではアイネアという中風で8年寝たきりになっていた男性を癒した出来事が記されています。

 その噂がヤッファにもきっとすぐ伝わったのです。だからヤッファの教会の人たちはタビタの遺体を階上の部屋に安置しました。普通遺体は速やかに墓地に葬るのです。ですが近くにペトロがいるので、それをしませんでした。癒しの力を期待したものと思われます。実際彼らは二人の使いを出して、ペトロの来訪を依頼したのでした。

 緊急の要請に応えて、ペトロがやって来ると、彼の周りにやもめたちが大勢寄って来ました。そして泣きながら、ドルカスが生前彼女たちに作ってくれた数々の下着や上着を見せたというのです。

 当時「やもめ」と呼ばれる女性たちの生活は大変でした。女性の地位は現代よりもはるかに低く、後ろ盾である夫を失った女性たちは毎日を生きることだけで精一杯だったと想像します。そんな女性たちとタビタは共に生きたのです。タビタが彼女たちを思って作ったという下着や上着の数々は、タビタを失いたくないやもめの女性たちの慟哭のしるしであったことでしょう。ルカはそれを記しました。

 ペトロはヤッファを訪ねるや、いきなりその姿を目の当たりにしました。「人は一人では生きていけない」事実をかみしめたのです。だから、イエスがかつてしたように、タビタに接しました。「起きなさい」と。

 起きなさいという言葉は、そのまま「見なさい」という意味を含んでいるのではないでしょうか。起きて、見てみれば、そこに「一人では生きていけない」だから一緒に助け合って生きる優しい世界が見えるのでしょう。生き返るとは、そういう世界が見えるところに実現されました。誰でも彼でも生き返るのでは、多分ないのです。冷たい人間関係の間に、よみがえりはないのかもしれません。イエスの復活、つまりイースターがそうでした。

 Tさんは「全盲となったのに、私は最近見えるものがある」と綴りました。「今まで見えなかった人からの優しさが見えるようになってきた」と。「それは大きな希望である」と。

 イエスの十字架は、ただ一度キリの出来事でした。でもこれで終わりではない。むしろここからこそが始まりだという、復活の出来事は、どこにも備えられる。何度でも実現するのだと知らされます。

 温かい交わり、優しい共同体、人間関係の中に、諦めないよう、絶望しないよう、よみがえりが重ねて起こされるのです。イースター・タビタビです。だから私たちは生きて行けるのです。 神さま、私たちもあなたの愛と正義のあふれる温かい交わりを作ってゆけるよう、一人びとりを導いて下さい。