《 本日のメッセージメモ 》
 5月26日に「香港2020福音宣言」が出された。迫り来る危機を想定して、教会の歩むべき道を改めて示した。想定は今や実感を伴う現実に突入している。
テキストは、今週も著者その他が判明しない文書。ではあるが、格調高く、差別のあふれる当時の世界で、ユダヤ人も異邦人も同じであると述べる。
5月25日、米ミネソタ州・ミネアポリスで、黒人のジョージ・フロイドさんが、白人警官に首を足で挟まれて死亡した。
兄の追悼集会で、弟のテレンスさんが聴衆に訴えた。「左手に平和を、右手に正義を!」と。
私たちは私たちの平和と正義を、キリスト教至上主義に陥らないよう、よく吟味しなければならない。
その上で、テキストの著者の言う「キリストは平和」の文言を味わいたい。それは、イエスの生涯を通して教えられる、「隔ての壁を取り壊し、違うものを一つにする」喜びを味わうことだ。それがキリストの平和である。
 香港の現状を憂慮する。覚えて、連帯の祈りをささげる。「左手に(神の)平和を、右手に(神の)正義を」だ。

《 説教全文 》
 皆さんご存じのように、6月30日、中国は「香港国家安全維持法」を可決し、即施行しました。以来、逮捕・拘禁者が続出しています。この事態を事前に予測していた香港の超教派の牧師や神学者たち20人が、かつて第二次大戦下のドイツで起草された「バルメン宣言」に倣って「香港2020福音宣言」を発表しました。5月26日のことです。

 6つの信仰命題からなるこの宣言の起草目的は、決して新しい教義を言い表すことではなく、むしろ教会の群れのために、古き信仰がこの時代に持っている意義を、新たに宣言すること。行動は信仰から始まり、信仰は告白に基づく。時代の巨大な車輪に直面する時、キリスト教会は、自らの福音信仰を改めて明確にする必要がある。―というものです。少し長いですが、とても大事な宣言なので全文を紹介します。

第一項 イエス・キリストこそ、福音そのものである。
 イエス・キリストは救い主、王であり、そして福音の土台である(マルコ1:1)。
この福音は、神の国の到来と現臨、罪と悪の闇の力に対する勝利、世界のすべのものに変革をもたらすものである。
したがって、福音は、単に死後における個人の魂の救いに関するものではなく、御国の到来、世の闇の根絶、悪の権威の打倒に関するものである。
この福音は、この今の世界の生命に対して配慮し、癒し、保護し、人類の解放と社会的配慮を含む、具体的で行動的、かつ全包括的なものである。

第二項 イエス・キリストが、教会の唯一の主である。
 教会はキリストの体であり、その頭はキリスト、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」である(エフェソ1:23)。
 したがって、教会は最終的には天の御国の王であり救い主であるお方に対してのみ従順かつ忠実でなければならず、地上のいかなる政治的・経済的支配者や権力者に対してであってはならない。教会はこ
の世のいかなる権力や権威者にも依り頼んで存続を図ってはならず、またそれらによって支配されてはならない。
 経済発展が他のあらゆることよりも優先されてしまいがちな香港社会において、特に、教会は歴史を鑑とし、すべての偶像を拒絶しなければならない。
 教会は「あなたがたは、神と富〔マモン〕とに仕えることはできない」〔マタイ6:24〕という主イエスの教えと、十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」〔出エジプト20:3〕とを心に刻み、その御言葉に生きなければ
ならない。イエス・キリストのほかに、救いはないからである。

第三項 教会は、福音を宣べ伝える証人の共同体である。
 イエス・キリストと神秘的に結合された体としての教会は、この地上においてイエス・キリストの真の証人となる(マタイ5:13−16)。
 したがって、教会は自らの内部の安定・安心・繁栄の増進ばかりを追い求めてはならない。
 むしろ教会は、キリストに従う群れとして、イエス・キリストの模範に倣い、貧しき者の中に住み、迫害される者と共に歩み、助けを必要とする者に手を差し伸べるべきであり、悪の力による迫害や十字架を背負う苦難を恐れるべきではない。

第四項 教会は、真理の柱また土台であり、虚偽を拒絶し、真理を堅く守る。
 事実を歪曲し、メディアをコントロールし、真理を埋没させる全体主義的統治に直面する時、教会は、あらゆる虚偽を拒否し、政権が犯した誤りを勇気をもって指摘する。
教会自身は真理そのものではないが、しかし偽りなき良心をもってイエス・キリストの聖なる御言に従い、常に聖霊の声に耳を傾け、謙遜に自らを絶えず新たにし、事実を見
究め、真理に生きる(テサロニケ一3:15)。

第五項 霊性と行動は、不可分である。
 主イエス・キリストは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」〔マタイ25:40〕と言われた。教会とイエス・キリストとの関係は、キリストの御業に従う教会に基づいている。したがって、教会の霊性と行動は、分かつことができない。教会の祈りと具体的な行動は結びついており、行動は祈りの実践であり、祈りは行動の基礎である。教会の祈りと行動は、決して止むことがない。(テサロニケ一5:17)

第六項 教会は、暗闇の時代にあって光の子である。
 聖書は「夜は更け、日は近づいた」(ローマ13:12)と述べている。教会がこの世に存在する目的は、まさに、来るべき日を待つ間、証人となること――すなわち、絶望のあるところに希望をもたらし、不正のあるところにおいて正義を擁護し、憎しみのあるところに愛を広め、虚偽のあるところに真理を追求し、傷つき痛むところを包み癒し、
暴力のあるところで犠牲をいとわないことである。教会は神の国を待ち望み、その到来のために祈る。教会は、神が人間に賜った尊厳と自由と生命を力の限り守り、香港人と
共に歩み続け、平等・正義・愛という御国の価値を香港において具体的に示さねばならない。

 説明を重ねるまでもなく、社会の危機的状況の中にあって、これから教会がどう生きるかについて緊迫の決意が伺われます。その思いと今日のテキストの文面が重なります。

 エフェソの信徒への手紙は、パウロの名前が使われていますが、著者は別人です。でも誰であるかよく分かりません。最近幾つか読んで来たテキスト同様、背景や執筆場所なども未だ確定されていない書物で、わずかに80~90年頃書かれただろうという推測だけがあります。

 しかし或る神学者によれば、この手紙は「新約書簡類の女王」だそうです。何が女王なのかよく分かりませんが、確かに書かれている文面は格調高いものです。今日のテキストは「実に、キリストは私たちの平和であります」と始まっています。その理由が後の文章に綴られていて、「二つのものを一つにし」、「敵意と言う隔ての壁を取り壊し」、「規則と戒律づくめの律法を廃棄」されたと続いています。よく分かる内容です。

 当時ユダヤ人たちは自分たちこそが神さまから選ばれた民という選民思想を色濃く抱いていました。それは当然異邦人に対する優越感、差別感と結びつきます。割礼であったり、律法順守ということがその目的手段として用いられることにもなりました。

 本来、誰に対しても開かれているはずの神さまの庭、すなわち神殿の構造に、彼らの差別意識が如実に表されていました。一つの差別意識は、それで留まらず、次の差別を誘発することになります。神殿には一部の祭司しか入れない区域がありましたし、男性しか入れない場所もありました。異邦人は外庭にしか入れませんでしたし、病気など事情のある人たちは、庭にも入れず神殿の周りにいるしかありませんでした。

 キリスト、つまり救い主イエスはこうした隔ての壁を取り壊した、それを私たちの「平和」だと著者は言い表したのです。ユダヤ人も異邦人もないのだと。

 私たちはこの古い文言が今も生きていることを信じます。キリスト教が一番で、絶対である訳ではありません。クリスチャンだけが集まって世界を構成する訳でもありません。そうではなく、イエスの生きざまを通して、「違うものが一つにされる、その喜びを味わいたい」と思うのです。それがキリストの平和です。

 5月26日に香港2020福音宣言が出されました。その前日25日、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスで、黒人のジョージ・フロイドさんが、白人警官に足で首を絞められて死亡しました。

 追悼集会で、弟の一人であるテレンスさんが訴えました。「左手に平和を、右手に正義を!」。

 香港の事態も、黒人差別問題も、私たちと無関係ではありません。むしろひどく関わっています。結びついています。自分たちだけの平和などないのです。コロナ禍に揺さぶられる今ですが、日本でひとまず戦いはなく「平和」と言えるかもしれません。しかし、私たちが平和と言う時、そこに正義があるでしょうか。しかも神の正義があるでしょうか?よく見つめたいと思うのです。

天の神さま、香港の人たちをお守り下さい。私たちにあなたの平和と正義を固く持たせて下さい。