《 本日のメッセージメモ 》
 「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」は疫学者の三砂ちずる著作。叱られると自分の一部が死ぬ。だから叱られたくない。それよりほめられたいと率直に書く。
2章には「親になることは許されることを学ぶこと」とある。全くその通りと思い返す。ふと、自分は「イエスに叱られたことがない」ことに気づかされた。十字架につけた者にさえ、叱ることがなかったイエスだった。
パウロは、逮捕され千人隊長→最高法院→総督フェリクス→総督フェストゥス→アグリッパ王→ローマと、連れ回され、その度に堂々と弁明をなした。
それを強い、偉いと評することもできよう。だがそもそも彼は無罪だった。しかもその出発点にイエスとの出会いがあった。
キリスト者を迫害する者だったのに、一方的にイエスと出会いが与えられ、何も反省しないのにいきなり許され、受け入れられた。パウロもイエスから叱られなかった。だからこそ、その話は誰に対しても何度でも繰り返し語りたい一事だった。それがパウロの原動力となった。
忘れられない失敗の記憶が消し難い履歴なのではない。イエスから叱られず(許され)受け入れられて今がある。これが消し難い履歴である。この履歴はみんな同じだ。感謝!

《 メッセージ全文 》

 最近、三砂ちづるという人が書いた「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」という本に出会いました。今年の5月に出た本です。

 ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私はこの本で初めて「三砂ちづる」という方を知りました。で調べて見たら、私と同い年ということが分かりました。61歳です。山口県のお生まれですが、西宮で育ったそうです。京都薬科大学を出た後、神戸大や琉球大でも学ばれ、最終的にロンドン大学で博士号を取られた疫学者です。今は津田塾大学の教授をなさっておられます。
 びっくりしたのは、疫学者が本分でありながら、専門分野ではないたくさんの本を書いておられること。特に2011年にパウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」の新訳を書かれていました。その話は今日はする時間がありませんが、学生時代に旧訳を読んで影響を与えられた本で、感激しました。

 この本とても面白かったです。私にはいつも後書きを先に読んでから本文を読む癖があります。それでエピローグに書かれていた一部を紹介します。

「わたしたちは、みんなほめられたい。愛でられたい。えらいねって、言ってほしい。誰か、わたしを、ほめてほしい。わたしを叱らないで。叱られることは、死ぬほどつらいこと。叱られることは、わたしの一部が死んでしまうこと。わたしが何かをまちがっても、叱らないで。注意してくれるのはいいけれど、叱らないで。

 わたしたちは、ほめられるために生きている。誰かにほめて、愛でてもらうために生きている。叱られることで、死にたくない。わたしの一部を殺さないで。わたしがどんなにまちがっても、どんなひどいことをしてしまっても、どんなにあなたが気に入らなくても、どうか、わたしを許してください。この世にいる限り、わたしは許されていてほしい。叱られないわたしでいたい。」

 と、まあこんな調子で延々と続くのです。余りにも単純率直で、反論の余地のない主張です。「許し方」という題が付けられた本ですけど、叱らないで、ともかくも自分を許そう、許して欲しい、そして人をほめようと書かれているのです。ここだけ読むなら、ちょっと軽く感じるかもしれません。

 でも本文に戻って読んでみると、第2章の中に「親を許す」という項があって、次のような文章が載っていました。

「親になることは、許されることを学ぶことなのだ。自らの子どもに許されること。なぜなら、わたしたちは、親になると、まちがうから。不可避的に、まちがうから。自らが良かれ、と思って、子どもたちにできるだけのことをしようとするけれど、その多くは子どもたちの向かう方向性とは、異なっているから。

 結果として、何をやっても、やっぱり「何かしら、まちがっていることが多いのだ。自分としては、いっしょうけんめいやったんだけどなあ、と、親としてのわたしたちは、ぼんやり思うことができるだけだ。

 わたしたちはまちがう。まちがうから、子どもたちに、許されなければならない。許されていてほしい。それは、祈りのようなものだ。」

 こうありました。本当にそうだと思いました。読みやすい文体ですが、軽くはありませんでした。むしろ重くいことが書かれていました。私も子育てという場面では、たくさんの間違いをしてきたことを思い起こします。子どもが理解できず、頭ごなしに叱ったこと数え切れません。それは、相手の一部が死んでしまうことでした。失敗の数々です。ただ叱らないということって、本当にできるものだろうか・・・。
などとつらつら考えるうちに、私はとても重大なことに気づかされることになりました。それは、私はイエスから叱られたことがないということでした。子育てと称して、子どもをいっぱい叱って来た自分は、しかしイエスからただの一度も叱られたことはなかったと気づきました。

 そんなの当たり前だと思われるかもしれません。現実に目の前に見える形でいるイエスではない訳ですから。しかし、私たちは今も生きて働くイエスを信じているのです。「生きて働く」とは、生活や決断においてイエスの指示を受けるということです。それはあると感じています。でも叱られた覚えはありません。

 聖書を通して描かれたイエスの生涯の中で、例えば子どもたちを受け入れなかったとか、嵐を怖がった時とか、弟子たちを叱る場面がわずか幾度かは記されていますが、思えば直接裏切ったユダにさえ叱責することはありませんでした。

 自分を十字架につけた人々に対しても「彼らは自分で何をしているか分かっていないのです」という言葉をかけたイエスでした。叱ることは許さないこと、叱られないことこそ、許されることでした。そしてこれは、きっと誰もが同じなのだと確信します。イエスに叱られる人はいないのです。

 今日のテキストは、パウロが総督フェリクスの前で堂々と弁明をなした箇所でした。もともとパウロは神殿で逮捕され、千人隊長のところへ送られました。最高法院で取り調べられた挙句、フェリクスのところへ送られたのです。訴えた人たちはパウロの死刑を望んでいました。しかし、極刑に値するような罪を見つけることができなかったのです。そもそも冤罪ですから当然の結果でした。

 ついでに言えば、この総督フェリクスが腹黒くていい加減な人物だったので、2年間牢に入れて何の審理もしないまま次の総督フェストゥスにバトンタッチしました。この時パウロは自らローマ皇帝に上訴したので、ユダヤのアグリッパ王の取り調べの後、ローマへ送られることになったのです。

 こうしてパウロは逮捕以来、何度も何度も色々な人たちから取り調べを受け、その度に繰り返し誰に対しても堂々と弁明をなしました。その挙句誰もパウロの罪を見出すことができなくて、最終的にローマ皇帝へ引き継ぐしかなかったという訳でした。

 パウロはローマの市民権を持っていました。またギリシャ語を話すことができました。それはそれで当時凄いことだったと思います。が、それ以外は職業的には皮なめし職人であって、ただのユダヤの一市民に過ぎないパウロでした。そんな人物が次から次へと、しかも段々と上の位の人たちへ連れ回され、権力の嵐に吹きさらされたのです。普通に想像したら、心が折れてしまう展開です。それなのに、そうはならなかったパウロは強い人だった。権力ある人たちの前でも負けなかった、実に偉い人だという評価もできるかもしれません。

 ただ、そもそも訴えられる理由がなかった。当然、逮捕される理由もなかったのです。「自分は無実である。」、それはその通りで、パウロが堂々と弁明をなしたのは、まずは無実―そこに出発点があったでしょう。ただし、その出発点にはイエスとの出会いが大いに影響したのです。

 パウロはイエスと直接出会い、薫陶を受けた弟子ではありません。それどころかイエスと出会うまではキリスト者を迫害して回った熱狂的律法主義に生きるユダヤ人の一人でした。それが幻のようにイエスと出会って、道を変えられたのです。それもパウロ自身が何かに気づき、反省してそうなったのではありません。すべてがイエスからの一方的な歩みよりにありました。かつての歩み方をイエスから叱られたことは一度もありませんでした。いきなり許され、いきなり受け入れられたのです。

 ですからパウロからすれば、ただもうイエスに対する感謝と喜びしかありません。イエスのことは誰に対してでも語り伝えたかった一事だったのです。イエスから許され、受け入れられた。それを通して神さまに許された。それこそが相手が誰であれ、何度でも堂々たる弁明をなしたパウロの伝道の、また信仰の原動力のすべてでした。

 子育てという場面のみならず、誰にもたくさんの忘れてしまいたい失敗やつまづきがあることでしょう。三砂さんが言われるように、人から叱られたくはないし、それよりはほめられたいものです。自分を許すということが、もしできるならそうすべきです。実際、比較的小さいことなら、人は自分を自分で許しながら歩んでいるものと思います。「私の不徳の致すところです」なんて言ってるような場合は、特にそうかもしれません。

 けれど、中にはそう容易く許せない出来事もあるのです。申し訳なくて、恥ずかしくて、忘れることも、自分で自分を許すこともできそうにない過去があるものです。しでかしたことで勝手に忘れてしまってはならないことも中にはあるのです。自分で自分を許せない、きっとそういう履歴が誰にもあるでしょう。忘れられない悲しい履歴です。

 ですが、それが消し難い履歴なのではありません。自分では自分を許すことができなくても、イエスにならできるのです。イエスに叱られることはなかった、叱られずに今がある。許されて現在に至る。これが消し難い履歴であるのです。この履歴だけは、みんな一緒です。本当に感謝です。

天の神さま、自分が自分であるため、未来に向けてより良く生きるため、イエスを通してあなたに許され、受け入れられていることを、心から感謝します。神さまにしていただいたように、あなたの力をいただいて、願わくは、隣人にもそれをなす私たちにして下さい。