《 本日のメッセージメモ 》
 コロナ禍で、聖餐式も、うどん食堂も、コーヒータイムも奪われた現状。情けなくも、如何ともし難い。
パウロはついにローマへ送られることになった。地中海とは言え、冬が迫り、荒れる気候が予想された。
パウロの警告を無視して出航したが、案の定激しい暴風にさらされ、船具や積み荷を投げ捨てて長く漂流する事態となった。一同拾困憊したに違いない。
その場面でパウロが、かつてイエスがしたように、皆に食事を勧めたのだった。そして一同元気を取り戻した。
生き延びるため、と34節にある。が、これは直訳すれば「救いのため」。生き抜くための食事でありつつ、パウロには自分がそうされたように、皆が救われて欲しいという願いがあったのだろう。言わばそれは聖餐式だった。イエスを覚えるとともに、イエスから覚えられていることを記念するひととき。
共にその食事に預かることで、276名の知らない人たちが一つとされた。
 一緒に食事もできない現況だが、私たちも招かれていると覚えたい。おいしくて、ありがたくて、イエス、である。感謝!

《 メッセージ全文 》
 若い頃、礼拝というのは式次第で決められた時間内だけのことではなくて、それが終わってみんなでお茶を飲んで、時には食事もして、あれこれ話をして帰る、それを含めて全部が礼拝なんだ、と先輩牧師から教えられました。そこには、信仰には交わりも大切だという意味もあったでしょう。ですがそれだけでなく、私たちの救い主イエスこそが人々ともに食事を共にすることをいつも大切にしたということを覚えたいということがあったと思います。
今年は聖餐式もできませんし、うどん食堂もありませんし、CSによるコーヒーサーヴィスもしないまま、もう7月が終わろうとしています。礼拝堂から出たら、なるべく速やかに帰るしかないのです。お茶を飲んで談笑するひととき、こればかりは動画配信で済ませる訳には行きません。コロナが奪った残念な時間です。
教会に勝って子どもたちの学校給食を思います。毎日ですから。今までのように机をくっつけて対面で食べるのではなく、それぞれ離れて、しゃべらずにただ食べるのだそうです。そうせざるを得ない事情は分かっています。でも言葉は悪いですが栄養を摂るためだけの「エサ」の時間に思えてなりません。
こうした現実は、言うてもどうしようもありませんが、せめても今日は一つの「食事」の光景を思い描きたいと思います。ただしやっぱり楽しい食事ではありません。さて最近三週間続けて使徒言行録からテキストが与えられました。特に今日は先週に引き続くパウロの物語です。それも難破する船の中での食事の出来事が描かれていました。思い描きたいのはその食事のことなのです。

先週は総督フェリクスの前でパウロが弁明をなした記述を読みました。2年牢に入れられた後、次の総督フェリクスを通してユダヤのアグリッパ王の前でも弁明を重ね、ついにローマへ送られることとなったのです。その船が難破したのです。
 ルカによる、この使徒言行録におけるパウロの足跡は非常に詳細に記録されています。聖書のうしろに載っている9番の地図が今日のテキストの時のものです。お持ちの方はちょっと御覧下さい。そこには「パウロのローマへの旅」なんていう、Gotoトラベルキャンペーンのような題がつけられていますけど、そんな楽しい旅だったのではありません。
 そもそも彼は囚人として兵士たちに護送されたのです。恐らくは足に鎖をつなげられてです。カイサリアを出発してキプロス島の向かいにあるミラという町でイタリア行きの船に乗り換えますが、きっと商人たちとその積み荷が満載された船だったでしょう。地中海とは言え、冬には暴風に見舞われることが多いので、パウロは航海の危険を訴えるのですが聞かれませんでした。過去三度も伝道の旅を行った経験値が彼にはありました。結局、クレタ島の良い港と呼ばれる所からフェニクス港に向けて無理に出航したのが仇となってしまいました。

 今日読んだのは13節から記される、暴風にあってなされるがまま14日も漂流した後の出来事でした。フェニックスに行くつもりが、カウダという小島まで流され、更にアドリア海をマルタ島まで漂流したというのです。
 19節20節にはこうあります。「しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に投げ捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」
 
惨憺たる状況です。命からがら、食事を取ることもできず、疲労困憊した一同だったに違いありません。今日の一つ前の段落には、船員たちが船から逃げ出そうとしたことも書かれています。もう何もかも、破滅寸前に追いやられていたのです。
 そういう時にパウロが皆に食事をするよう勧めたというのです。積み荷も船具も捨て去り、航海の目印となる太陽や星も見えず、船員すら逃げ出そうとした漂流船の中で、囚人のパウロがまるで船長に取って代わったかのように希望の言葉をかけたのです。
 「今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきまいた。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
 こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をした。-と36節までに記されています。想像すると、私たちにとっては感動的なシーンです。まさにイエスが5000人の人々に食事を与えたあの奇跡や弟子たちと取った最後の晩餐の場面を彷彿とさせられるからです。
 ただし、14日という数字自体は定かではありません。それほど長い間ということの表現だと思います。ついでにもう一つ、「頭から髪の毛一本もなくなることはありません」という文言について、ある牧師が「この言葉に素直にアーメンと言えない自分がいます」とコメントを書いていて、笑いました。皆さん、その意味分かりますよね。私も笑いましたが、笑えないブラックジョークです。

 この食事のあとで、穀物を捨てて船を軽くした、と37節にありますから、下手をすれば、それこそそれが最後の晩餐になってしまうところだったでしょう。それでも何とかマルタ島に流れ着くことができたのでした。本当に命からがらの出来事でした。ローマに向かうことは皇帝の前で弁明したいというパウロの望みでしたが、その皇帝とはあの悪名高いネロだったことも忘れる訳には参りません。
 つまりパウロは勇躍ローマを目指したのですが、ネロの噂を知らないはずはないのです。行ったところで、希望があるとは到底思えない、そのローマに向かって進むさ中、死んでもおかしくないような暴風に巻き込まれた船旅でした。
 その渦中の食事の記述でした。楽しい食事ではありませんが、さきほど「私たちにとっては感動的なシーンだ」と言いました。繰り返しになりますが、イエスがなした食事のことを思い起こすからです。けれども、イエスの死後弟子とされたパウロに、その体験も記憶もないのです。あるとすれば他の弟子たちから聞かされた言い伝えでしかないはずでした。

 現在、私たちが大事にしている聖餐式は、パウロが制定したものです。イエス自身が語った言葉を用いて、「私の記念として、このように行いなさい」とパンと杯の言葉が定められています。
 イエスの生涯を記念するため、思い起こすためにパウロは聖餐式の文言を定めました。でも彼が「私の記念として」と言ったイエスの言葉は、ただイエスの生涯の記憶だけではなかったように思うのです。
 イエスのことを思い起こすとすれば、パウロには、イエスからこんな自分を覚えていただいた、イエスに許され受け入れていただいた、その感謝と喜びしかないのです。そのことを先週も語りました。ですからパウロにとってイエスを記念するとは、イエスを覚えることに勝って、イエスから覚え受け入れられたその大きな感謝と喜びを記念することでした。

 「生き延びるために必要だからです」と、34節の訳にありました。遭難という現状にあっては、それはいかにもふさわしい訳かもしれません。しかし、原文を直訳すると「あなたがたの救いのためである」なのです。かなりの意訳と言えます。「あなたたちを救うために役立つのですから」とした岩波書店版の訳が正確かもしれません。
 生き延びるためと訳するとサバイバルっぽくて格好いいんですが、パウロの頭にあったのは、自分がそうだったように、そこにいる皆が救われて欲しい。現実の命とともに心が、精神が、魂が救われて欲しい、そんな期待と希望があったのではないか、そう推測します。そしてそこに、その救いに預かるための条件などあるはずはなかったでしょう。洗礼を受けた人だけどうぞ、などとアホな思いは露ほどなかったでしょう。誰もが、イエスの招きに預かって、自分と同じように救いに至って欲しい、これがパウロの願いだったと信じます。ですから確かに生き延びる、生き抜くための食事であっても、パウロにはイエスが招いて下さった聖餐式の思いがあったことでしょう。

 こうしてパウロのお勧めによって、決して楽しくはないけれど、元気を取り戻しこの食事に預かった人は276人だったと記されています。その数字も定かなものではありません。ただし、そこに船具も捨て、逃げ出そうとした船員がおり、積み荷を投げ出した商人がおりました。恐らく彼らに使われていた奴隷もいたことでしょう。そしてパウロを始め何人かの囚人がいましたし、彼らを護送するローマの兵士がおりました。身分も人種も、宗教も違う多くの人がそこにいました。もちろん皆、初対面の間柄でした。
しかし一時であれ、パウロの呼びかけ、お勧めによって、この全然知らない違う人たちが一緒に食事を取ったのです。その時、それぞれ他者の食事の光景を心に留めることはできなかったかもしれません。みんな何日かぶりの食事でした。エサのごとくガツガツ食べたかもしれません。けれども後から振り返ってみれば、あの食事があって、一つとされ、生かされたのでした。

 この情景を想像しながら、私たちは私たちで如何ともし難いコロナ禍にあって、少なくとも今を生かされていることを思います。現在は残念ながら集まることはできません。ただし、大きい意味では不自由な世界の中でイエスの食卓に皆が集められているのです。救いのために招かれているのです。
テレビでは「おいしくて、ありがたくて、エビス」って某ビール会社が宣伝しています。でも私たちはちょっと違います。「おいしくて、ありがたくて、イエス」です。

天の神さま、困難の中にあっても皆を覚え、一つと招いて下さる恵みを感謝します。いずれ収束の時が来たならば、大いに盛り上がり、喜び勇んで集結できるよう、今その備えの力を蓄える者として下さい。