《本日のメッセージメモ》

 コロナ禍でなかったら、パンの代わりにせんべいの聖餐式を行いたかった。小麦粉アレルギーの人がいるからだ。

「兄弟を罪に誘ってはならない」との小見出しのテキストが与えられた。肉を食べる人と食べない人の間で、論争が起きていた。それぞれ信仰上の理由をつけているから、お互いに譲れない。不毛の論争をパウロは危惧して手紙を書いた。どこででも起り得る課題だった。

「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(23節)とある。確信と訳されたピスティスは、通常は信仰と訳される。しかし、本来の意味である「誠実さ」と訳すべき。「誠実さに基づく」ことが大事だ。

それをしなかったから、広島で原爆直後の黒い雨に打たれ、健康被害を受けながら手帳を交付されなかった人々がいた。

4年前の教区2・11集会で、東神戸に講師として来て下さった崔善愛さん。「存在の否定」と題する文章の中で、「ジャパニーズオンリーという空気を毎日吸っていると息ができなくなる」と書かれた。

 隣人にそのような不自由を与えている現況を心から申し訳なく思う。食べ物のことだけではない。私が自由であるために、隣人も同じでなければならない。隣人を隔てる川を埋めたい。

《メッセージ全文》

 コロナ禍のために、4月のイースターからこのかた聖餐式を取り止めています。もし、コロナでなかったら、今日のこの平和聖日礼拝は、例年子どもたちとの合同礼拝でした。そして、子どもたちも共にいる礼拝の聖餐式で、私は一度やってみたいと思っていたことがありました。

 それは、パンの代わりに小さいせんべいを使う聖餐式です。おふざけで考えたのではありません。小麦粉がダメな人がいるからです。実は私の娘がその一人なのです。大人になってから小麦粉アレルギーであることが分かりました。うっかり食べると、たちまち異変が起きます。大げさに言えば、命に係わる危険があります。

 小麦粉がダメとなると、パンだけでなく結構たくさんの食べ物に影響が出ます。スパゲティもダメです。ラーメンもダメです。だから娘一家との食事は、他が何を食べようとも、彼女だけはご飯かうどんかになってしまいます。気の毒です。娘ですから切ない思いがします。

 先日、南大阪教会の伝道師に正式に就任しました。いずれは正教師試験を受け、聖餐式を担当することでしょう。そうすると娘は、自分は食べられないパンを配さんすることになるのです。ちょっとそれは何だかな~と思う訳です。

 小麦粉アレルギーの人でも与かれる聖餐式ってないかな。カトリック教会のような小さなウェハース状のもので、簡単に手に入るものってないかな。などと考えて、小さいせんべいならどうだろうと思いついた次第です。ただし、柔らか目のせんべいでないと今度は噛めないという人が出るかもと思ったりもします。

 聖餐式が、いわゆる信仰上の理解の違いによって、オープンだったりクローズだったりの論争が続いています。けれど、そういう思想の問題ではなく、体の問題から与かることができない人がいる、今まであまり考えたことがなかった課題を、私は娘の存在を通して知らされました。せんべいより、もっといいものがあったら、是非お教え下さい。

 さて、今日はローマの信徒への手紙がテキストに与えられました。今日読んだ14章の最初の段落には「兄弟を裁いてはならない」という小見出しがつけられています。そして次の段落には「兄弟を罪に誘ってはならない」という小見出しがつけられています。

 パウロはローマに行く前にこの手紙を書いた訳ですから、具体的にローマの信徒の誰かを頭に浮かべたり、ローマの教会の現実を想像してというより、既に知っている教会の中で起きたこと、その課題を書き記しました。それは恐らくどこででも起り得る課題だと思ったからでしょう。

 その一つが食べ物についての課題でした。キリスト者の中で、肉を食べる人がおりました。肉を食べないで、野菜だけ食べる人がおりました。肉でも何でも食べる人は、強い人で、野菜を食べる人は弱い人とされてもいました。

 食べるにせよ食べないにせよ本来それは、それぞれの自由のはずです。けれど双方、それを選択することに信仰上の理由付けがなされました。お互い、神さまをバックにつけていますから譲れません。当然、大きな論争になってしました。その論争の虚しさをパウロは危惧したのです。

 ですから「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17節)、だから「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(19節)と訴えたのです。全くもって同感します。

 信仰は、あれこれのこの世的軋轢から解き放たれ、心が自由にされることです。それなのに、信仰のために新たな不自由を抱え込むことは矛盾しています。そのことを「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(23節)と書いたのです。

 ただし、ここで確信と訳されている単語に注意を払いたいと思います。確信がなければ、罪だと言われたら、素直には受け入れられないように思うからです。ここで「確信」とされたギリシャ語はピスティスという言葉です。多くの場合は「信仰」と訳される単語です。実際、相当数の聖書が「信仰」を選択しています。例えば新しく出た聖書協会共同訳では、23節は「しかし、疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです」と訳しています。

 確信に基づいていないと言われても受入れづらいですけど、信仰に基づいていないと言われたら、きっともっと受け入れられない気がします。「何だと?」と反発されるのがオチではないでしょうか。

 ここではやはり、ピスティス本来の意味を用いるべきと思います。それは、誠実さとか、熱心さという意味です。「誠実さに基づく」ことが大事だと思うのです。

 先週、画期的な判決が広島地裁で出されました。原爆直後に放射能を含んだ黒い雨が降りました。その雨に打たれて、深刻な健康被害を受けたのに、大雨が降った地域だけが援護対象とされたのです。大雨とされなかったその他の地域の人たちは対象からはずされ、被爆者健康手帳の交付が受けられませんでした。これは違法だとして訴えた原告84人全員に手帳の交付が命じられました。全面勝訴、本当に画期的判決です。ですが、この判決が出るまでに75年が過ぎました。国がもっと被爆者の声に、もっと早く誠実に向かい合っていたらと思わずにはおれません。

 ところで4年前、信教の自由を守る日の教区2・11集会が、東神戸教会を会場にして行われました。講師はピアニストの崔善愛さんでした。この時の出会いがきっかけになって、崔さんと時々メールを交換する間柄となりました。そのことを嬉しく思っています。その崔さんが先日ある雑誌に「存在の否定」と題した一文を書かれていました。全文を紹介します。

 トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言っていたが、彼を批判するメディアを「フェイク」と憎悪し、黒人差別への抗議デモに軍の出動命令まで出した。そのトランプ大統領が一番仲のいい人は安倍晋三首相だと元側近が回顧録で明かした。なるほど、さもありなん。こちらにはもうひとり、ナチスの手口を学べばと言う副首相が「一つの民族」を声高に唱える。日本も、人種差別が常態化している。

 6月15日、ナイジェリア人の父を持つプロ野球のオコエ瑠偉選手(22歳)がツイッターに自身の体験をつづった(抜粋)。

 野球を始めると「先輩たちは俺の肌の色をあざ笑いながら、お前の家では虫とか食うんだろうとか、汚い言葉の数々で罵られ、殴られる」「甲子園には黒人は出るな、などの言葉が耳に入ってくる」「毎日が辛すぎた。ベランダから外を眺めながら、ここから飛び降りて生まれ変わって、普通の日本人になれるかなとか考えてた」「この普通とは何なんだろうと未だに考えてる」-。

 オコエ選手だけでなく「普通の日本人とは何だろう」と悩みつづける若者たちが日本中にいる。かつて私自身もそうだった。

 幼いころに親から「韓国人であることに誇りをもって」と幾度となく言われた。にもかかわらず「普通の日本人になりたい」と毎日のように考えた。不思議なほど、韓国人であることを恥じていた。そしてこの苦悩は次世代になっても終わらなかった。

 オコエ選手と同世代の私の娘も5歳のころ、「わたし、本当の日本人?」と不安そうにきいた。中学生になった娘がある朝、「こわい夢をみた。学校で先生が『みんなの中に朝鮮人がいる。探してつかまえろ』と校内放送をして、必死でにげまわるんだけど、つかまってしまった。こわかった」と。同じころ、最寄駅の階段下に「在日韓国人の参政権を許さない。主催・在特会」という集会の看板が置かれていた。そして私もヘイトスピーチの映像を見た翌日、発熱し、日本刀で刺される夢をみた。

 数か月前、娘がこう明かした。「実は小学生のとき友だちから、『お母さんは韓国人なの?でも半分日本人でよかったね』と言われた」と。このことを娘は15年間胸に秘めていた。

 「日本人でよかった」「JAPANESE ONLY」という空気を毎日吸っていると「息ができなくなる」。窓はどこにあるのだろうか。

 私はこの文章を読んで震えました。申し訳なくて、辛くて。崔さんと交わりを得られたと能天気に喜んでいましたが、私は彼女のこと、在日外国人のことを何も知らなかったのです。

 先日ようやく梅雨明けして夏本番がやって来ました。なのに、今週金曜には立秋を迎えます。暦の上では、もう秋です。それでこんなタイトルが浮かんでしまいました。

 とても近いと思っている隣人との間に、思いがけない隙間がありました。隙間というより、大きな隔ての川かもしれません。隣の友が、何を感じ、どう生きているか、知らないことだらけであるばかりでなく、その原因の一端に自分がいるかもしれません。

 私が自分らしく自由に生きられること。信仰の目指す大事なあり様です。ですが、自分がそうであるように、隣人が同じくそうであることはもっと大事なあり様です。万一誰かが不自由さ、息苦しさを抱えているなら、そこに平和はありません。食べ物のことだけではないのです。耳を澄まし、心を整えたい平和聖日です。

天の神さま、本当の平和が来たりますように。そのために私たちの心と、手足をお用い下さい。