本日のメッセージメモ

 「どんなに悔いても過去は戻らない。どれほど心配したところで、未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。」(松下幸之助・語録より)

イエスは、自分は「天から降ったパンで、食べる者は永遠に生きる」と人々に語った。彼らは、自分の知識だけから聞いたので、理解できなかった。パンが消えて「肉」につまづき、「天から」の文言にひっかかり、激しく争った(52節)

テキストの主眼は、イエスの話の難しさでもなく、人々の理解力の乏しさでもない。「人々」とは誰か。直前にイエスから5000人の給食を受けた「普通のユダヤ人」であり、イエスの話はカファルナウムの会堂でなされた。群衆は過去と未来に執着し、イエスは「今」を生きる、その感覚のズレ。それがテキストの主眼だった。

 群衆同様、今を生きるに難しい私たち。越前喜六神父は「今ここで安らかに、明るく、楽しく生きられれば、それがいまここでかみとともにいきる天国」と書き、それには「神さま、あなたが大好きです。どうぞ必要な恵みをお与え下さい」と祈ればよい。と綴る。

 子どもたちが竹にソーメンを流して笑う光景を想う。流しソーメンかソーメン流しかの違いなどない。中身さえあれば、そこが天国。そのように生きることが、今、現在に最善を尽くすこと。

メッセージ全文

 先日、いつも飲んでいる薬を処方してもらうために薬局へ行きました。そしたら、そこのパーティションに張り紙がしてあって、こう書かれていました。「どんなに悔いても過去は戻らない。どれほど心配したところで、未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである」(松下幸之助)。

 その通り、と深く頷かされました。さすがは松下幸之助さんだわって、思いました。それで渡された薬の袋にこの言葉をメモして帰って来たんですが、ネットで調べてみたら、出るわ出るわ、松下幸之助語録から、金言・名言の類が物凄くありました。

考えてみれば、人を励ます言葉とか、人生の役に立つ言葉は、松下幸之助さんを含めて数えきれないくらいあって、そういう本もたくさん出ていて、聞くと「成る程」と思うんですが、思うだけで実際にはそれほど役に立っていないのは何故でしょう?残念ながら、私たちがすぐに忘れてしまうから、かもしれません。

さて今日与えられたテキストは、イエスが人々に向かって、「自分は天から降って来たパンで、これを食べる者は永遠に生きる」と語った箇所でした。本来は6章22節から始まる長い出来事の一部です。

全部を読む時間がないので、52節からを読みましたが、一連の出来事の中で、イエスは「はっきり言っておく」という強調の言葉を3回も使っているのです。26節と47節と53節です。

これは「確かに確かにあなたがたに言う」とか、「よくよく言っておく」という訳の聖書もありますが、もともとは「アーメン、アーメン わたしはあなたがたに言う」と書かれているのです。イエスはアーメンを2回繰り返した上で語った訳です。

それはよほど強い思いがあったことを示していますが、どうやら人々は理解することができませんでした。「私は命のパン」という言葉一つにも彼らはつまづいたのですが、「天から降った」と言えば、42節にあるように、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と反応しました。

イエスが語ったのは言うまでもなく表現でした。しかし聞いた人たちは、この世の常識、自分の知識の中だけでしか理解しようとしなかったのです。情けない気もしますけど、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」などと聞かされては、おぞましさの方が先行したとして無理もないように思います。イエスも松下幸之助さんのように、分かりやすい例えを使ったら良かったのにとも思うのです。

ただ、この出来事はイエスが例えば意地悪でこ難しい話をしたという話でも、人々の理解力が乏しかったという話でもありません。イエスが語った人々とは誰だったかという話なのです。

41節には「ユダヤ人たちは」と書かれています。このユダヤ人たちとは、イエスをどうにかしたいと狙う、いつもの律法学者やファリサイ派たちではないのです。6章の初めに記されていることです。

ガリラヤ湖の向こう岸で、イエスの元に集まった群衆がいました。食べ物がない人たちのために、イエスはそこにあったパン5つと魚2匹を、感謝の祈りをもって分かち、彼らの空腹を満たしたのです。いわゆる「5000人の給食」と呼ばれる奇蹟の出来事でした。

その驚くべき力に心酔した人たちは、この人こそ預言者だと思い、イエスを王にしたくて後を追って来たのです。イエスは彼らを避けるために山に退いたと書かれています。ヨハネが記述した通りであれば、そういう出来事があった翌日、人々はなおイエスを追ってカファルナウムまでやって来た、その群衆に向かって語ったのが今日の出来事であるのです。もう忘れてしまったのかと悲しくなります。

つまり、わずか昨日のこと、イエスの大きな力を目の当たりにしたばかりの人たちが、その力の意味を知ろうとせず、押し寄せて来たということです。特別の人たちではなく、普通の人たちでした。イエスは彼らが何を期待して押し寄せたかを分かっていたので、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と指摘しています。26節です。ここでも最初に「はっきり言っておく」、すなわち、アーメン、アーメン私はあなた方に言う」と明確に語った上で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と勧めたのでした。

41節と42節を読みます。

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こういった。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

ここでは直接イエスに言うことができないで、彼らはつぶやいた、ささやいたというのです。それも、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と語ったのに、彼らはその文言からパンをはずしました。それだけでなく、実は「天から」と言う言葉の順番を入れ替えてつぶやいたのです。新共同訳では、同じ順序で訳されていますが、原文では「天から私は降って来た」とあるのです。

すなわち、彼らの関心は「パン」ではなく、イエスが「天から」と語った、その一語にのみあったのです。何故大工ヨセフとマリアの子が、天からなのだ?ということです。その上、パンとはわたしの肉のことだと聞かされ、「どうして自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と激しく議論し始めたと52節に続いて行きます。冷静にお互いに話し合ったということではありません。この議論と訳されているマコマイというギリシャ語は、戦うという意味もあります。初めはつぶやいたのですが、もはやイエスに対して我慢ならず、怒りに満ちて反論したということでしょう。

こういう状態ですから、イエスは繰り返し「アーメン、アーメン私は言う」と強い態度で臨んだのです。イエスと群衆の間には、実に大きな感覚のズレがありました。そのズレとは、イエスの過去にこだわり、一方で未来の保証を得たい群衆と、ひたすら「今を生きている」イエスとのすれ違いと言えると思います。

ヨハネ福音書は、このすれ違いの出来事が起きたのは「イエスがカファルナウムの会堂で教えていたとき」(59節)とわざわざ記しています。どこででも起り得るのですが、教会であっても起こり得るのです。

6月に越前喜六というカトリックの司祭が「必ず道は開かれる」という本を出されました。何と日本基督教団出版局からの出版です。カトリックの司祭がプロテスタントの教団から出した本ということが珍しいので、思わず買ってしまいました。

一つ一つが短いエッセイで、大変読みやすい内容でしたが、余りにも平易なので、それに驚きました。その一つを紹介します。

「今ここに」という言葉があります。わたしたちが生きているのは、まさに今であり、ここであります。過去でもなければ、未来でもありません。一瞬に生きると言いますが、一瞬は永遠なのです。だからキリストは、明日のことは思い煩うな、今日の労苦は今日で充分だ、とおっしゃったのです。

不安や心配や思い悩みは、大抵、過去や未来に関係しています。多くの人の意識は、そうしたすでに起こったことやこれから起こるであろうことにとらわれているので、なかなか安らかに生きられないのです。人の幸・不幸は、あなたの意識にあって、環境にあるわけではありません。それを多くの人は考え違いをしています。」

まさに最初に紹介した松下幸之助さんの言葉とそっくりです。だから「いま、現在に最善を尽くすことだ」と松下さんは言いました。越前神父は次のように続けておられます。

「わたしたちは、むろん、隠遁者ではありません。世俗の真っ只中で生活し、働いています。しかし、そういうわたしたちが、今ここで安らかに、明るく、楽しく生きられれば、それが「いまここで」神とともに生きる天国なのではないでしょうか。

それには、必ず祈りが必要です。祈りには定義も方法もありません。ただ、今ここで神とともにあるということを意識して、神さま、あなたが大好きです。どうぞ必要な恵みをお与えください、と祈ればよいのです。」

こう書かれています。拍子抜けするほど、単純なお勧めです。けれども、「私は命のパンである」と語ったイエスも、実のところ、訴えているものは、同じではないかと思うのです。私と共に今を生きよう、ということです。

なかなか過去からも未来からも離れがたい私たちではありますが、イエスと共にある、神さまと共にある今があるなら、そこは天国だと単純に信じたいのです。

例年なら平和聖日に子どもたちとソーメンを流していました。今年できなくて残念です。ソーメン流しであろうが、流しソーメンであろうが、どうでも良いのです。違いなどありません。くそ暑い中、汗をダラダラかきながら、何が楽しいんだか、ただ竹にソーメンを流して食べるだけなのに、ゲラゲラ笑い転げる子どもたちの笑顔を思い起こします。子どもたちとそれを楽しむ、その中身さえあれば、そこが天国でした。そのように生きたいと思います。今、現在に最善を尽くすとは、そういうことでした。 天の神さま、あなたが大好きです。どうぞ必要な恵みをお与え下さい。