《本日のメッセージメモ》

 予定通り東京五輪が開かれていたら、この夏は「頑張れ、ニッポン!」の嵐だったろう。

「勝利」と言う言葉が、いつのまにか勝ち負けや損得でばかり語られるようになったが、仏教ではもともと「優れた利益(りやく)」を意味していると、一楽教授(大谷大学)は書いている。

テキストには「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しがつけられ、「打ち勝つ」という言葉が3回も登場する。

キリスト者であることで、時に死をも覚悟せねばならなかった時代。著者の熱い思いは十分に想像する。

だが、テキストの文言を現代にそのまま用いる訳にはゆかない。信仰は、勝利至上主義のものではないのだ。

勝利至上主義の最大は戦争だ。「勝ってくるぞと勇ましく」(露営の歌)を歌いながら、かつて兵士たちが向かった戦地は地獄だった。痛ましさしかない。

 「勝つ」ことが大声で叫ばれる時は、心したい。信仰は軽やかでひそやかなもの。命を大事にすることに勝る利益はあるまい。

《メッセージ全文》

 私は東京オリンピックの開催に反対する者の一人です。それには幾つかの理由がありますが、今日のところはそれは割愛します。

 ともあれコロナ禍のために延期になったオリンピックですが、もし予定通り開催されていたら、この夏は「頑張れ、ニッポン!」の大合唱だったと思います。反対派だったのに、きっと「スポーツに反対はしていない」とか言って、私も「頑張れ、ニッポン」って叫んで、テレビの前で応援していたかもしれません。軽いですね。

 スポーツは勝負ごとですから、やっぱり勝てば嬉しい、負ければ悔しいという感情がどうしてもあります。「勝利を目指して」当然だと思われています。しかし、最近大谷大学の一楽真先生の文章を読む機会があって、ちょっと考えてしまいました。その一文を紹介します。

「勝利」
一楽 真(教授 真宗学)

 スポーツ新聞の見出しなどで「大勝利」とか「勝利に湧く」という文字を見ることはあっても、それが仏教の中で使われてきた言葉であることはあまり知られていない。仏教語としては「勝(すぐ)れた利益(りやく)」を意味している。

 勝利の対義語は?と問われると、ほとんどの人が「敗北」と答えるのではなかろうか。しかし対義語はそれだけではない。目先の小さな利益にとらわれるなら「小利」であるし、自分だけが得をするなら「私利」であろう。また、他を犠牲にするようなものは「暴利」と言った方がよかろう。

 いつの頃からかは分からないが、勝利といえば勝負の文脈でのみ用いられるようになった。特に現代は、よろずのことに勝ち負けが取り沙汰される風潮にある。そんな中で、「利益」という言葉も、損か得かというものさしでしか使われなくなっている。そのために、利益の大小については考えられても、勝れた利益など何のことか分からなくなったのだ。

 他国に対し、他社に対し、他人に対し、いつも勝つか負けるかばかり。いい意味でのライバルであれば高め合うことにもつながるであろうが、敵と見なして争うあいだは自分自身も落ち着くことがない。また、本来勝ち負けの対象ではない病気に対しても勝ったとか負けたという言われ方がされることもある。最近では、老いと戦うことを奨励するアンチエイジングなどという言葉まで出てきた。

 はたして病気になったことは敗北なのか。歳をとって、若いころできたことができなくなるのはダメなことなのか。他人と比較したり、若いころの自分と比べる限り、本当の満足はないであろう。比べる必要のない世界との出会いによって心の底から満足できること。それを仏教は「勝利」と教えてきたのである。

 勝利が戦いに勝つことだけを意味するようになったのは、何が本当の利益かを見失った結果と言えよう。人間の都合だけが優先されたり、いのちまでもが損得のものさしで計られたりする今日、本当の利益とは何なのか。改めて問う必要がある。

                      2011年文芸春秋2月号より

勝利とは勝ち負けではなくて、優れた利益。そうだったのか、と目からウロコです。(ちなみに、目からウロコとは聖書に由来する言葉です。正しくは「目からウロコのようなもの」ですが。)

 さて、今日与えられたテキストには「悪の世に打ち勝つ信仰」と小見出しが付けられています。そして短い一段落の中に3回も「打ち勝つ」という言葉が用いられていますし、勝利という言葉も使われています。しょっぱなから強烈な言葉が記されています。「イエスがメシアであると信じる人はみな、神から生まれた者です。」

 キリスト者というだけで、時には死をも覚悟せねばならなかった頃の教会では、確かにこの世は「悪の世」という他ない状況だったと想像します。キリスト者にはあれこれの誹謗中傷が投げかけられ、「信じる」ことに相当に強い覚悟が求められたのです。そうでなければ、信仰を持ち得なかったに違いないでしょう。そういう事情はよく分かります。当時はそうだったのです。

 ただ、そのことを押さえてもなお、このテキストを現代において読む時は、かなり注意が必要だと思うのです。イエスをメシアと信じない人は、神から生まれなかった人なのか?人はみんな神から生まれたのではなかったか。そういう反論がすぐ来そうです。 「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰、イエスが神の子であると信じる者が世に打ち勝つ」という、いかにも信徒を鼓舞する言葉が、必ずしも誰にとっても励ましにはならず、かえって大仰すぎて引いてしまう人たちだっているかもしれません。熱い思いはよくよく分かるけれど、銀や銅ではだめで、どうしても金メダルでなければ、というようなスポーツの世界の勝利至上主義と似たものを、信仰に持ち込んではならないと思うのです。

 この箇所の解説が、次のように書かれていました。

「私たちは「~に勝つ」「打ち勝たねばなりません」という言葉を約半年間聞いてきたことでしょう。しかしその「勝つ」ことが目指されてゆく中で、現実に今直面している苦難の上にさらに苦難を重ねられてしまった人たちの存在、それぞれの生きづらさの中に置かれてしまっているのに、それを他者から顧みられない人たちを思うものです。もし「勝つ」という勇ましい言葉の背後で小さくされた人たちの存在が蔑ろにされるのならば、「勝つ」ということは一体何事なのだろうか、その意味とは何なのだろうかと考えずにはいられません。」

 こうありました。全く同感します。ここで「打ち勝たねばなりません」と私たちが半年間聞いて来た相手とは、言うまでもなく「コロナウィルス」のことです。コロナに打ち勝つことが一部では至上命令のように言われました。不自由な生活に懸命に耐えているのに、必要な手助けは与えられず、我慢だけを強いられている人のほとんどは、小さな人たちでした。

 ところで、勝利至上主義の最大のものは、今も昔も戦争です。コロナのせいで、NHKの朝ドラ「エール」は今月いっぱい再放送が続いています。エールの主人公こそは、阪神タイガースの不朽の応援歌「六甲おろし」、そして夏の高校野球開会式の名曲「栄冠は君に輝く」を作曲した古関裕二です。しかし彼は、戦時中は軍歌もたくさん担当しました。中でも有名なのは「露営の歌」です。1937年(昭和12年)の作品です。

「勝ってくるぞと勇ましく」という歌を知らない人はいなかったでしょう。この歌を歌って多くの兵士が戦いへと臨みました。しかし向かった戦地は、泥沼の地獄であったのです。自分の歌で死んで行った兵士たちに、古関は死ぬまで自責の念を抱き続けたといいます。

 対象が何であれ、勝つことが勇ましく言われる時、大声で叫ばれる時、私たちは心したいと思うのです。まして信仰生活は、本来軽やかなものであり、ひそやかなものであることでしょう。勝利とは、優れた利益だと教えられました。命を大事にすること、これに勝る利益はないと信じます。

天の神さま、平和について考え、祈る月に、大切な教えを受け、感謝します。優れた利益を喜ぶ者として下さい。