《 本日のメッセージメモ》
学生時代の、単なる遊びに過ぎない仲良しグループでさえ、そこに属さない者への思いやりはなかった。
仲良し会自体が悪いのではない。が、結束を大事にする一方で、排除や侮蔑が起りやすいことには留意しなければならない。
コリントの教会で、誰をリーダーとするかの派閥争いが生じた。パウロは「私たちは神のために力を合わせて働く者」と説いた。
グループの解散を命じたのではない。違いがあることは、間違いではなく、それぞれの役割があるからだ。かつてそれを認めなかった自身の体験があった。
自分は植え、アポロは水を注いだ。違いを認めつつ、共にあることこそ、真の一致に違いなかった。成長させて下さるのは神である。
「花いちもんめ」という昔遊びがある。実は人身売買の悲しい現実から生まれた遊びだ。人の命を軽く扱ってはならないと示される。
今も命の重みに大きな格差がある。自分の所属するグループで、しょぼく群れている場合ではない。はるかに高い理想を掲げ、神さまの畑の中で、共に人生を耕す者でありたい。
《 説教全文 》
神学生(大学院)の頃、「火曜会」という会を作っていました。聖書の勉強会などではありません。たまたま仲の良かった何人かのメンバーが、火曜ならアルバイトが休みとか都合がつくというので、では火曜日に飲み会をしようということになったのです。何じゃらほいです。
毎週ではありませんでしたが、卒業まで結構な回数の火曜会を実行しました。それはとても楽しくて、今でも火曜会のメンバーは特別な絆で結ばれています。もちろんそれは、思い出という意味の絆です。
学生時代ではなく、卒業し牧師となった今も、〇〇会とか〇〇組とかグループを作って集まっている人たちを知っています。それはほとんど遊びですから、たわいないものです。
でも、気をつけていないと、たかだか遊びの会であっても、回数を経るごとにグループ内の結束が固まって行くその一方で、グループ外の人たちへの視線が狭まって行くことはままあるのです。
卒業だいぶ経ってから、火曜会に参加したかったけど、火曜が空いてなくて残念だったというつぶやきをある友だちから聞かされました。その頃、ただの飲み会に過ぎなかったけど、そういう参加できなかった他者への思いやりはありませんでした。正直言って参加できる人だけが大事だったのです。
ましてや、一部の仲良しグループが妙な存在感を持ち、現実に何らかの力を振るい出すことになると、やっかいです。仲良しグループ自体は悪いことではないのですけど、仲良しグループがそうでない人たちを敵視したり、侮蔑したり、排除したりすることにならないよう、留意せねばなりません。多分、これはどんな組織でも言えることだと思います。
さて、本日与えられたテキストはまさしく教会内における派閥争いへの記述でした。この箇所を読むたびに、教会であっても起こるこの世的争いにため息が出ます。はるか2000年前の初代教会でもそうでした。そして、もっとため息をつきたくなるのは、こうしてパウロから示しが与えられているのに、聖書に学んでいる現代の私たちが、今も派閥争いから脱却できていないという悲しい現実があるからです。教団がいい例です。
今日の箇所には二人の名前が登場しました。パウロとアポロです。コリントの教会を起こしたのがパウロで、その後を継いだのがアポロでした。今風に言うならば初代牧師と二代目牧師、そのどちらにつくかで教会内が揺れておりました。
不思議なことです。何もパウロとアポロが対立したのではないのです。信徒たちの所属はコリントの教会でした。それなのに、パウロに所属するか、アポロに所属するかで対立が起きたのです。
実はこの二人以外にもケファ、すなわちペトロ派に属する人たちがおりました。1章に書いてあります。またその誰もでなく「キリスト」派というグループもありました。要するに、もうしっちゃかめっちゃかです。一体何のために彼らは教会に集ったのでしょうか。
人が一人でいるのは良くない、そう思われた神さまはアダムにパートナーを作りました。人の意志や願いではなく、もともと人が孤独に陥らないよう、孤立することのないよう、神さまの愛の計らいによって私たちは仲間を備えられた。―それが聖書に示される教えです。
私たちが仲間を求め、何らかのグループを作り出す、そのこと自体は何も間違いではないのです。とりわけ、キリスト者を迫害する多くの外敵に満ちていた時代、仲間は群れを守る大切な力であったに違いありません。
また私たちが人間である以上、他者に対して少々の好き嫌いがあり、何らか個人的な好みやこだわりがあることも致し方ないことです。致し方ないというより、当たり前と言って良いでしょう。パウロは説教は上手ではなかったなどと言われています。アポロは雄弁で教養のある、パウロの後を継ぐに相応しい人物だったそうです。また、パウロの後から教会に連なった人たちもいたでしょう。例えパウロが教会を作ったとしても、自分はアポロに従うとした人たちがいても、おかしくはなかったのです。
でも問題は、それと信仰がどう結びつくのかということでした。生き方と言い換えてもいいでしょう。イエスを救い主として仰ぎ、それを通して神さまの心に聞き従って行くこと。それが信仰であり、彼らの生き方であり、ひいては私たちの生き方であるのです。
誰につくか、どこに所属するかで論争することは、その一番大事な生き方を破壊することに他なりません。最近近所のお寺の掲示板に「重い墓石の下にはゆかぬ。縁ある人々の心の中に私の住処がある」と書かれていて、つくづく同感しました。私たちが今どこにどう生きているかを問いかける言葉でした。
パウロもまさしくそう問うたのです。成長させてくださったのは神なのだから。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。(9節)と訴えました。実に冷静で、公正な視線だと思います。
ここでパウロが、空しい論争を直ちに止めよ、それぞれの所属を捨てて、一致団結せよ、とは書いていないことに、重ねて注目したいのです。神のために力を合わせて働く者とされるために、それぞれの「私」を捨て去れというのではないのです。滅私奉公とは違うのです。
一人ひとりの役割があり、務めがあり、存在理由がある訳です。自分は植える者だったし、アポロは水を注ぐ者だった。それぞれ違うのです。その違いを認めて共にあることが、真の意味での「一致」であることでしょう。
違うことは、当然のことで、決して間違いではないのです。にも関わらず、自分の所属の優位性を示そうとするほどに、相手の誤りを指摘することになります。しばしば見下すことにもつながります。パウロは、その虚しさを、イエスに出会う前の自分自身に見ました。違うことはその頃のパウロにとって罪でした。ユダヤ人たる者、律法を懸命に守って、救いを得る、そういう意味で一つになる努力をこなすことに必死でした。そしてそれは大いなる誤解でした。それぞれに違うことの意味があったのです。だから言うのです。「あなたがたは神の畑、神の建物なのだ」、と。
「花いちもんめ」という遊びを皆さん、した思い出がありますか?多分、今時の子にはないと思います。私はぎりぎり、それをした体験があります。二組に分かれて、歌いながら代表がじゃんけんするのです。勝ったら相手から一人もらう。負けたら一人差し出す。どっちが先にメンバーを取ってしまうか、そういう昔遊びです。
この遊びは貧しい生活の中から生まれたことを知りました。例えば飢饉が起きると、都会から田舎に人買いがやって来るのです。口減らしをしたい農家は、泣く泣く子ども(特に女の子)を売るのです。
表向きは花を銀で売り買うことになっている歌ですが、花とは女性を陰で指しています。一匁は、わずか3.75グラムの重さの単位です。そんな安い軽い値で女性が売り買いされていた悲しい現実が込められた歌なのでした。歌いながら、こんな現実であってはならないと心に刻んだ時代があったのです。
子どもの頃、何も知らずに歌っていました。今はもう意味を知っています。誰にも命の重みがあって、たやすく売り買いするようなことがあってはならないでしょう。でも世界は未だ余りにも命の重みに違いがある格差に満ちています。
狭い自分たちだけの世界で、しょぼいグループを作って、どこに群れてもたかが知れているのです。命が安い。群れて悔しい花いちもんめです。それよりも、はるかに高い理想を神さまからいただいて、それぞれの違いの中で、畑の中で、共に人生を耕して行くことです。私たちは神のために力を合わせて働く者だからです。
神さま、永遠の命の中に生かされていることを感謝します。身近な場所で、その希望を具現化する一人として下さい。