《 本日のメッセージメモ》
 韓国のYさんは、強制連行・強制労働で日本企業を訴えている。15歳で名古屋の工場でひどい環境の中、働かされた。何とか帰国した後も、慰安婦と叩かれて苦渋の生活を強いられた。
テキストは姦淫を犯した女性の出来事。前半の主人公は、彼女をイエスのもとに連れて来た律法学者とファリサイ派。そのために彼女を監視していたと推測される。
真の意図は、石打ちにすべきか否かをイエスに語らせることにあった。どちらを答えても陥れられる計画的意図があった。
あなたたちのうち「罪を犯したことのない者」が、まずそうせよ、とイエスは答えた。ハマルティアという言葉が使われている。「的外れ」と訳したほうが分かりやすい。
結局、皆がその場を去り、女性だけが残された。イエスは彼女に「これからはもう的外れを犯してはならない」と声をかけた。
神に聞いて生きる生き方が的をはずさないことなら、神の愛が誰にどうかけられるかを聞かなければならない。罰を与えて律することは、神の業ではない。
Yさんへの対応は全く的外れだった。私たちはイエスの遺志の中で生きている。その遺志を求めて生きて行きたい。

《 本日のメッセージメモ 》
 朝鮮女子勤労挺身隊として強制連行・強制労働に就かされ日本企業を訴えている、今は光州に住んでいる原告の一人Yさんの聞き取りの一部を、ある雑誌の記事から紹介します。

Yさんも21歳で経歴を隠して結婚した。だが夫は街の男たちの嘲笑で妻の過去を知ることになる。毎晩、浴びるように酒を呑み、「お前は汚れている」と怒号し、暴力を振るった。「毎日、毎日、酒呑んだら散々殴られて・・・」。
やがて夫は蒸発、10年後に子連れで戻ってきたが、すでに体はボロボロ、Yさんが36歳の時、6人の子を残して死んだ。最後に「悪かった」と言われたのが唯一の救いだった。残飯まで食べた極貧生活、誹謗中傷は続いた。「一晩に何人相手した?」「幾ら稼いだ?」とか。何よりも辛かったのは子どもたちに中傷を聞かせることだった」。
息子を連れて街に出ると、男たちが「慰安婦」と指さす。「オンマ、慰安婦って何?」逃げるように帰宅し、必死で説明した。「奴らを刺し殺す」と猛った息子だが、心が折れたのだろう。やがて怒りを母にぶつけるようになり、酒浸りになって若死にした。
一人娘も夫に先立たれ、自らの子3人を必死に育てた。「子どもたちの苦労も私のせいじゃないか。みんな私があの時、日本にさえ行かなければ、あの時、校長の言うことを信じさえしなければ・・・。みんな私のせいだ。子どもに会うのも辛い・・・」。両手でティッシュペーパーを握りしめ、Yさんは嗚咽した。
Yさんは15歳の時、国民学校の日本人の校長から「日本に行って働けば、金もたくさん稼げるし、女学校にも入れる。行きたい者は手を挙げろ。」と言われて手続きをしたそうです。辞退した生徒には「それならば父親を捕える」などという脅しがあったと言います。
そして名古屋のある工場に10代の少女140人ほどが集められました。8畳に7~8人の寄宿舎で、一日9時間から12時間、飛行機の塗装をさせられたのです。その間は立ちっぱなし、トイレに行くこともままならず、失禁することもありました。洗って布団の下で乾かしたそうです。
何よりも辛かったのは、空腹。毎日わずかなご飯に梅干しか福神漬けのような食事。余りに耐えがたく、日本人が捨てた残飯をあさった。夜、寄宿舎で誰かが泣き出すと、見るまに嗚咽が広がっていったというのです。
女学校に通うことはなく、賃金もない。空襲で富山の工場に移って終戦となりました。それで何とか帰って来れたのです。いわゆる慰安婦とは違います。強制労働の被害者です。
でも帰国してからの扱いは、前述のようなひどい有様でした。涙なしに聞けない辛い体験でした。訴えて当然だと思います。

 さて、平和を覚えて祈る8月も最後の礼拝となりました。今日テキストに与えられたのは、通常「姦淫を犯した女性」と呼ばれて来た箇所です。よく知られた話ですが、案外に知らないこともあります。新共同訳では「わたしもあなたを罪に定めない」と小見出しが付けられていますが、聖書協会共同訳では「姦淫の女とイエス」となっています。

 しかし、物語の前半の主人公は、この女性ではなく、女性をイエスのもとに連れて来た律法学者やファリサイ派の人々でした。姦淫を犯した女性をどう罰するかについてイエスの考えを聞きに来たことになっています。一見、彼らは正義の立場です。今でも芸能人が不倫とかとなったら、ワイドショーなどマスコミで一斉にバッシングとなります。みんなが警察になり代わって総たたき。本当に大事な問題が一瞬で消え去ることがよくありますが、ちょっと似ているかもしれません。

この人たちこそ実に生臭いのです。4節で、「この女は姦通をしているときに捕まりました」とあります。ここで「とき」と訳されているギリシャ語は、アウトフォロスという単語です。現場という意味もありますが、直訳すれば「盗人本人」と言う意味です。ですから「さ中」と訳している聖書もあるくらいです。

 つまり連中は、この女性を端から狙っていたし、行動の一部始終を監視していたとも推測されます。そうでなければ、姦淫している「さ中」に捕らえることなどできないでしょう。そうして皆の真ん中に女性を立たせたというのですから、すごく嫌らしい手口だと感じます。

 真の狙いはイエスにあったのです。石打ち刑にすべきかどうかをイエスの口から語らせたかったのです。レビ記や申命記にあるように、石打ちをせよ、と答えたなら、ローマ帝国下にあった当時のユダヤでは、ユダヤ人に死刑執行の権利はありませんからローマの法律違反ということになります。

 一方で、石打ちはならないと答えれば、ではモーセを通して命じた神の思いに反することになって、たちまちユダヤ人たちの反感を買うことになると予想されました。

 しかもこの狡猾な問いかけは、身勝手な理解に支えられていました。旧訳聖書の姦淫の規定では、男女ともに石打ちの刑と定められていました。特に、男性が強引に女性を姦淫した場合には、男だけが殺されなければならないと定められているのです。

 ですから、彼らが女性だけをそこに連れて来て訴えていることは、明らかな誤りに基づいています。そこには女性蔑視が大いに込められてもいたことでしょう。密かに後をつけながら、男性は見逃して、表面だけの出来事を訴え、中身を調べない。ですから相当におかしい出来事でした。

 これに対してイエスは初めも後もかがみこんで、地面に何かを書いていたというのです。何が書かれていたか明らかではありません。その文字はアホだったでしょうか?真実だったでしょうか?それともコヘレト7章20節にあるように「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」という聖書の言葉だったでしょうか。いずれにしても多分何も声に出して答えたくはなかったのでしょう。それでも彼らがしつこく問い続けるので、仕方なく立ち上がり発したイエスの言動は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という静かな言葉でした。

 ここで使われている「罪」と言う単語が後半のキーワードになります。ハマルティアというギリシャ語が用いられているのです。犯罪を表す単語は他にもあるのです。規定に反したというなら、別の単語を使っても良かった。しかし用いられたのはハマルティアでした。これが後の女性への言葉でも重ねて使われたのです。

 ご存じの方もいらっしゃるでしょう。このハマルティアこそは、聖書における「罪」の意味を表す大事な言葉です。もともとは「的をはずす」と言う意味です。神に聞き従って生きる真の生き方からはずれることを指します。だから一般的な「犯罪」と混同されないよう、敢えて「的外れ」と訳したほうが分かりやすいのです。的外れと言葉を置き換えて残りを読みます。

 イエスは「あなた方の中で的外れの経験のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言いました。もし単純に犯罪を犯したことのない者と言われたなら、相手は律法学者やファリサイ派ですから、「私はそんな犯罪は犯していません」と堂々主張する者だらけではなかったでしょうか?

 「的外れの経験のない者が、まず」と言われたので、そこは腐っても律法学者であり、ファリサイ派でした。思い当たる節は幾つもあったでしょう。彼らでなくても多分、何もない人などいないのです。こうして皆、その場から立ち去って行きました。
 続けてイエスは後に残された女性に「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを的外れと定めなかったのか」と問い、「主よ、誰も」と返事が返ると、「わたしもあなたを的外れに定めない。行きなさい。これからは、もう的外れを犯してはならない」そう声をかけたのでした。

 律法学者やファリサイ派たちの問いかけそのものが「的外れ」でした。最初に紹介したYさんの出来事。彼女が受けた数々の仕打ちは、全くの的外れだったとしか言いようがありません。ましてや、と思うのです。ましてや慰安婦とされた人たちの苦しみはいかばかりだったか。

 日本には政治家の中にも、その歴史を否定する人たちが少なからずいます。塗炭の苦しみに寄り添わないで、心からの謝罪もなく、もう戦後補償は終わったと知らぬ顔をする人たち。これこそ、的外れ以外の何物でもありません。

 的外れが、神に聞き従って生きる真の生き方からはずれることであるなら、神の愛と憐れみが誰にどうかけられるかを聞くことが的をはずさない生き方です。不都合な真実から目を背けないことです。

 イエスは女性に「これからは的をはずさない」よう語り含めました。単なる道徳の勧めではありません。しっかり現実を見て、不正に対して身を構えよということだったと思います。間違っても、次からは罰を与えるぞ、という脅迫ではありませんでした。罰則をもって律するのが、神さまのやり方ではないのです。

 コロナ禍で「自粛警察」という事態も起こりました。自分の正義だけしか見えないことを正義とは言わないでしょう。私たちは、「的をはずさないよう」女性に声をかけたイエスの遺志の上、イエスの遺志の中を、イエスの遺志の後を生かされています。私たち、時にそれを聖霊と呼んでもいます。イエスの残した遺志は、愛、そして真の正義です。誹謗や中傷や断罪ではなく、このイエスの遺志を求めて生きたいと思います。

天の神さま、求めるべきものを確かに示して下さり、感謝します。どうぞイエスの残した愛と正義によって、生きることを得させて下さい。