《 本日のメッセージメモ 》
 テキストは、「光の子として生きる」と小見出しがつけられた一段落のうちの残り半分。当時、キリスト者或いは教会に敵対する人々がいて、彼らの生活態度は著しく悪かった。それと同じように生きるのではなく、堂々と清く生きるよう著者は呼びかけている。
イエスは「わたしは世の光である」(ヨハネ8:12)と語った。電気のない時代、これを聞いた人々の光のイメージは太陽のような光だっただろう。 
エフェソ書の著者にとっては、キリスト者はイエスの光に照らされてある「光の子」だった。
一方、イエスは人々に向かって「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)とも語っている。 そこではまず「あなたがたは地の塩」と語り、燭台の話へと続く。ここでの光のイメージはローソクやランプの光だった。
明治学院が作成した「ヤバいぜ、バイブル(聖書)」は斬新だ。マタイ5章13節からのメッセージには「しょっぱい まぶしい でも、うれしい」とあって、あなたの賜物はどんなものか。塩はほんのわずかでも十分な効果を発揮し、光はどんなに弱くても暗闇の中で大きな希望を生み出すということを覚えていてほしい、と綴る。
説教題はお寺の掲示板に書かれた文言を拝借し付け加えた。どんなに小さくとも、私たちが光であろうとする在り方が「光」。それが新しく生きることである。

《 本日のメッセージメモ 》
 私事ですが、1964年、5歳の時に東京オリンピックを親に連れられて観に行きました。その時、新大阪で新幹線に乗りました。小学校6年生の時の修学旅行はSLで行きましたから、それより7年前に新幹線に乗ったのは、実に画期的な出来事でした。

 ただし、トイレしか覚えていないのです。和式でしたが、生まれて初めての水洗トイレでした。何故か、履き替え用のスリッパがあって、余りに緊張した私は、スリッパをトイレに落としてしまったのです。母親からひどく叱られました。

 せっかく岡山から東京にオリンピックを観に行って、ひかり号に乗ったのに、覚えているのがトイレにスリッパを落として叱られた痛恨の思い出だけで、何とも悲しい初体験でした。以来、ひかり号と聞くと、その体験がトラウマとなって繰り返し思い出されるようになりました。

 さて、振起日の今日与えられたテキストは、聖書日課に従ってエフェソ書5章の11節からを読みました。本来は6節からの一段落の途中からを読んだ訳で、全体として「光の子として生きる」という小見出しがつけられています。

 パウロの名前が用いられた書簡ですが、著者は誰かよく分かってはいません。特定の教会というより教会全体へのお勧めが書かれています。

 7節に「だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」という注意が書かれています。12節に「彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことです」とあって、どうやらキリスト者或いは教会に敵対する者たちがおり、彼らの生活態度が相当に堕落していたものと推測されます。

 5章の最初からを読むと、3節で「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」とあり、4節の「卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません」と続いています。口にするもの恥ずかしいとは、みだらなこと、汚れたこと、貪欲なこと、下品とされることごとだったのでしょう。

 その一つ一つは具体的にどういうものかは分かりませんが、キリスト者はそういった表に出されてはまずいような暗闇の業に生きるのではなく、光の子として堂々と、清らかに生きようという呼びかけになっています。

 18節に「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」とあって、私などはちょっと居心地が悪いです。でも大いに納得します。私が言うのですから、本当です。あんまり「清く正しく美しく」とは行きませんが、今日は光について話します。

 ここで用いられている「光の子」という表現は、私たちにはちょっと面白いと思うのです。イエスは「人の子」と自ら言いましたし、アブラハムの子というような、〇〇の子というフレーズは、ユダヤでは珍しくないのです。でも日本人にはその表現はなじみがありません。

 今日の聖書日課には、新約ではもう一か所、ヨハネによる福音書の8章12~20節が選ばれています。そこではイエス自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と語っています。エフェソ書の著者が「光の子として」と呼びかけている背景には、このイエスの言葉があるものと思われます。

 確かに、イエスこそが私たちを照らす光であるのです。そのイエスに従う者は、ですから光そのものというよりも、「光の子」である訳です。著者がそういうイメージでキリスト者を語りたかったのでしょう。

 ところで、余談になりますが、ヘブライ語で光はオールと言います。その派生語が、オーラです。ラテン語では、ルーメンとかルクスと言います。そしてギリシャ語では、フォスという言葉です。映画スター・ウォーズのジェダイたちが用いる力フォースは、このフォスから来ていると私は推測しています。英語のライトやドイツ語のリヒト同様、案外に身近な様々なところで、光という言葉が使われているのです。

 2000年前、電気も電池もない時代、当然蛍光灯や懐中電灯などありませんから、光と言えば昼間は太陽の光であり、夜は油を使うランプかローソク、或いはたいまつ、それが人々の光でした。

イエスが「わたしは世の光である」と語った時、聞いた人たちは世の隅々までを照らす光と言えば、太陽のような光景を思い浮かべたことでしょう。当然だと想像します。

 ところがイエスは別の場面では、「あなたがたは世の光である」と群衆に向かって語っているのです。これはマタイによる福音書の5章13節からの一段落に記されています。どの記述でもギリシャ語フォスが使われています。一方では、自分自身を光と言い、他方では人々にあなたがたは光と言ったイエスでした。人々に向けて語った時の、光のイメージはどういうものだったでしょうか。

 去年、素敵な聖書の教科書が作られました。作ったのは明治学院テキスト作成委員会で、新教出版社から出されました。その名も「ヤバいぜ、バイブル(聖書)」です。とても斬新で、刺激的で、深い内容に仕上がっています。

 旧約から20か所、新約から20か所、合わせて40の聖句が選ばれてメッセージが書かれています。そのうちマタイ5章の13節から16節のページには、「しょっぱい まぶしい でも、うれしい」とタイトルがつけられています。

 イエスはここで、まず「あなたがたは地の塩である」(13節)と語ったのです。それに続けて「あなたがたは世の光である」(14節)と語りました。更に「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(15節)と続けました。そうであれば、ここでの光のいめーじはローソクの光でしょう。

 このページに紹介されている資料の一つが写真家の桃井和馬さんの「すべての生命にであえてよかった」という本です。そして文中彼のこういう言葉が書かれています。四国のお遍路さんを行った体験です。

 「漆黒の闇に包まれた日暮れ後のへんろ道も、頭につけた小型ヘッドライトの明かりだけを頼りに歩き続けるのですが、これが面白い!足元を照らす明かりは、私が一歩進むと、ちょうど一歩分だけ前に進み、消すと、道そのものが見えなくなります。」

 真理への示唆を与えられる言葉だと思います。光によって、これから歩んで行くはるか先まで、道が照らされる訳ではないのです。一歩一歩歩く、その目の前だけが照らされている。その先までは見えないけれど、でもそれで歩いて行けるのです。むしろ全部が見通せたら、歩く気にはならないかもしれない。でも消してしまったら、その目の前の道までもが全く見えなくなってしまう訳です。
 
テキストのメッセージには次のように書かれていました。

 出口のないトンネルだと思っていた暗闇の向こうから小さな光が見えた時、絶望的だった人間に大きな希望がもたらされる。イエスは「あなたがたは世の光である」という言葉でもって、次のように語っておられるのだろう。「あなたがたは死という闇を見つめて生きるのではなく、命の光に照らされ、いつも希望をもって生きなさい。そして、そのような希望を持ったあなたがたが世に出て行き、人々の希望となる灯火を掲げる働きを担いなさい」と。

 あなたの賜物はどんなものだろうか。塩はほんのわずかでも十分な効果を発揮し、光はどんなに弱くても暗闇の中で大きな希望を生み出すということを覚えていてほしい。
 
 本当にそう思います。「あなたがたは世の光である」と語ったイエスの、その光のイメージは小さなローソクのような光だったかもしれません。大光量のライトに慣れている現代の私たちには、それは弱弱しく頼りなさげに見えることでしょう。ですが、そうであっても、その光は確かに暗闇にあっては希望の光であるのです。

 今コロナ禍にあって、これまで体験したことのない不自由の中に皆が押し込められています。のぞみなどないというより、のぞみは今は何も聞かれない状況です。それを我慢し、無理やり受け入れることが新しい生活様式なのではありません。

 今日、或るお寺の掲示板に書かれて人気を博した文言をお借りしました。「のぞみはないですが、ひかりはあります。」というものです。それに「こだまもあります」と付け足しました。

 イエスの光を受けて、どんな光であっても、私たち自身が光であろうと立ち続けること。その在り方・生き方が「光」なのだと思います。もちろん、言うまでもなくイエスの光を浴びながらです。「こだま」でも良いのです。どんなに小さくても、私たちが希望になる、希望とされるのです。それが新しく生きるということです。

天の神さま、イエスという光に照らされ、私たち自身もまた光とされるよう促して下さり、感謝します。そのように生きられるよう、なお導き、励まして下さい。