《 本日のメッセージメモ》  

ALS嘱託殺人事件から、「安楽死」や「命」についての意見が相続いている。岡山の難波さんは、夫の体験から「難病で苦悩が始まるが、そこからが人生だ」だと思うと投稿した。 テキストは、手紙全体として「反キリスト」への反論として、キリスト者は神の「永遠の命」の中に置かれていることを綴る。 当時の状況を知らずに読むと、キリスト者の優越を感じさせられるが、そうではない。神に属するとは、神から来ると訳した方が分かりやすい。 

手紙最後の「偶像を避けなさい」(21節)は、現代にも通用する。具体的な偶像だけでなく、この世の価値観を至上とする生き方もまた、偶像崇拝の一つであり、それに今も満ちている。 私たちにとって、課題はない方が良い。しかし一つ無くなっても、またすぐ次の課題が待ち受けている。歩みは途上だ。  

信仰は個人のものだが、信仰が目指す幸福は、一個人に帰結するものではない。 私たちは、信仰を通して命や人権への感性を磨き養いたい。「そこからこそ人生」だと思える歩みをなしたい。そうして、この世の価値観とは一線を画す自由な雰囲気の漂う教会へと成長してゆきたい。

《 メッセージ全文》

8月に衝撃の事件が明るみに出ました。京都市で、難病とされるALS筋萎縮側索硬化症を患っていた女性に依頼され、薬物を投与して殺害したとして医師二人が逮捕された事件です。  

SNSを通して、それまで面識のなかった医師が関わったとしてALS嘱託殺人事件と呼ばれています。そのことは確かに大きな事件ではあるのですが、それよりも、そもそも女性が病気を苦に安楽死を望んでいたということ、その是非について私もこの方あれこれと考えました。多くの方々が様々考えて来られたことと思います。ご自身もALSの患者である国会議員の船後靖彦さんは「死ぬ権利」よりも「生きる権利」を守る社会にと訴えておられました。  

先日、この事件について4人の方々の投稿が新聞に載りました。そのうちの二人は、自分の夫がALSだった方です。愛知県のSさん(60歳)は、数年前夫を亡くされましたが、「患者さんの過ごしていたつらく苦しい日々を思うと涙が出ます。誰だって生きたいし、家族もずっと一緒にいたい。でも進行性の病は心身ともに疲弊させ、症状や進行度合いは様々。患者を一くくりにするのは間違いだと思います。  

私も夫を楽にしてやりたいと何度も思いました。どんな姿でもいいから生き続けて欲しいと思えなかった自分の心情を思い返すと、今も胸が苦しくなります。」  

こう書いておられます。全くその通りで、お連れ合いを愛すればこそ、どんなにしんどいことであったかを想像するのです。  

もう一人は岡山の難波幸矢さん(75歳)です。夫の紘一さん・幸矢さん夫妻ともども、学生YMCAの先輩で、存命中は、多くの集会でご一緒しました。投稿の途中、「夫は筋ジストロフィーを10年間患い、33年前に亡くなりました。死去の3日前まで、口の機能だけ残る状態で教員として高校で授業をしていました。移動や板書は生徒さんたちが協力してくれました。校長や先生方、生徒さんに感謝でした」とあります。段々と病気が進行して、最後はその記述の通りになる過程を、時々に聞く機会がありました。その頃は私は幼くて、夫妻の苦労や苦悩にそれほど深い理解は持ち得てはなく、ただ会えることが嬉しかったり、病気を抱えて飛び回る姿を単純に偉いなと思っていたに過ぎませんでした。  

そのNさんが更に次のように書いています。 「難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や否定や怒りが一度に押し寄せる。でも、「そこからこそ人生」だと私は思います。「人生って何?」「命って何?」。その人が 人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」  

短い文章の中に、私もかいま見せていただいた夫妻の歩みがぎゅっと凝縮していると感じました。また、いちキリスト者としての一つの信仰のありようをも見せていただいたように思いました。  

さて、今日与えられたテキストの一段落には「永遠の命」という小見出しが付けられています。13節にあなたがたに「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」これらのことを書き送るのだとあります。この訳はちょっと過ぎます。「悟らせたいから」ではなく、直訳して「知らせたいから」が良いと思います。著者は私たちの命が、もっと大きな神の命、つまり永遠の命に包まれていることを深く知らせたかったのです。 この手紙を最初から読むと、「反キリスト」という言葉が何度も何度も登場します。当時は、キリスト者や教会に対して、それを認めないだけでなく、否定し、誹謗中傷を投げかけ、具体的な攻撃、迫害に満ちた時代だったのです。  

手紙の一番最後に「子たちよ、偶像を避けなさい」と書かれていることが気になります。相手方の立ち位置を思い浮かばせる文言です。彼ら反キリストの人々が違う宗教の偶像を崇拝していたのは間違いありませんが、それだけではないと想像します。  

偶像は、すべて人間の手によるものです。女神像とかのような目に見える人形の像もそうですが、それだけに留まりません。生き方にも関わるのです。人生の価値をすべてお金に換算するような拝金主義も偶像の一つです。同じように、他者の生き方を認めず、この世の価値観だけで一切を見る現実主義もまた偶像主義だと言わねばなりません。  

この手紙の著者が、手紙の締めくくりに「永遠の命」について再三記述し、最後の最後に「偶像を避けなさい」と記したのは、まさに反キリストの人々が「永遠の命」を切って捨て、現実の価値観を最優先する生き方をよしとしていたからでしょう。  

そして、その文言の前に、「わたしたちは知っています」という言葉が三度も繰り返されています。現実のことだけを重視する反キリストの人々とは違って、私たちは既に教えられ知っているはずです、という思いがそこには込められているのでしょう。  

18節には「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」とあり、19節には「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」とあります。 もしここだけを、当時の状況を知らずに読むなら、逆に大いに反発される記述だと思います。キリスト者は何という傲慢な、偉そうな連中だとそしりを受けても仕方ない文章です。  

言うまでもなく、本来誰もが神から命を与えられ、生まれながら神に属するのです。神と言う言葉を用いるかどうかは別にして。でもここで著者が言っている「神から生まれた者」「神に属する者」とは、「救い主イエスを通して、新たに神に結ばれた者」という意味です。「属する」ではなく、神から来たと訳しているものもあります。その方が直訳です。この世の論理ではなく、罪を赦され、神に聞き従う新しい生き方を与えられた人を指して「神から生まれた」「神から来る」者と著者は書いたのです。反キリストの人々からの攻撃に対するためにです。  

18節の続く「罪を犯しません」はちょっと足りない訳です。キリスト者は罪を犯さないというのではないのです。正確に訳すると「罪を犯し続けません」となります。つまづきや過ちを見過ごすことはしない。だから例え間違えても、それを忘れたりなかったことにしたりはしない。目をつむって誤りを犯し続けることはしない、なぜなら神からお生まれになった方、すなわちイエスがその人を守って下さり、悪い者は手を触れることができないから、それがキリスト者なのだと訴えているのです。  

17節に「不義はすべて罪です」とあって、引いてしまうような印象を受けます。しかしイエスを通して神さまの前に「義」とされたなら、その義以外は、著者には不義であるのです。そうならそれらの不義は的外れだということになります。

救い主の十字架と復活のゆえに赦されたことを信じるならば、それを否定するばかりでなく、中傷し迫害を加える、この世の強者の論理に立つばかりの当時の社会は、「この世全体が悪い者の支配下にある」と断定して無理もない状況だったのです。  

ですから、的外れを犯し続けはしないこと。悪の世には染まらないこと。私たちは神の永遠の命の中に置かれていること。これらを既に教えられ知っているはずだ、と念を押したのです。そして最後に偶像を避けよ。神ならぬものを神にしてはならない。もしかしたら、その最たるものは自分自身かもしれないから。こう書き記しました。当時読んだ人たちには、恐れて籠らず、押し出されるような大いなる励ましとなったことでしょう。  

現代に生きる私たちは、特に日本に生きる私たちキリスト者は、幸いにもこの手紙のように否定されたり、迫害される状況にはありません。それは社会が成熟したからというよりも、悲しいかな反発を覚えられるほど目立たない、誠に小さな存在であるからでしょう。  

それでも、偶像を避けなさいと著者が最後に綴った文言は、今も十分に生きています。 私たちの周囲は、「課題さえなかったら幸せ」という誤った偶像の価値観に満たされているからです。それで、うっかり自分だけの幸せを追い求める信仰であったら、どうでしょうか。  

課題はなかったら良い、それに越したことはありません。でも、残念ながら課題は与えられ続けるのです。これさえなかったら、これさえ解決したら、あとはバラ色の人生だと思っている。望んでいる。それでそれなりに解決のために誰もが頑張っています。逆になかなか解決できないので、疲れたり、絶望したりもします。それは悲しい現実です。だけど、万一それが解決しても、多分また次の、別の課題が待っているのです。  

Nさんは「でも、そこからこそ人生だと私は思います」と書かれました。誰もがそう強くあることはできないかもしれません。でも実は強さ弱さの問題ではないのです。そうではなく、受け止める姿勢の問題なのです。  

「人生って何?命って何?その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです」ともNさんは書きました。一人では無理だからです。  

信仰は言うまでもなく、一人ひとり個人のものです。でも信仰を得て目指す幸せのあり様は一個人に帰結するのではありません。もし一人が幸せになるなら、少なくともその周りの皆にもそれが伝播しなければ、本物ではないのです。  

だから私たちは、そもそも足りない者として、しかもいつも課題を負う者として、信仰を通して命や人権に対して、互いに敏感な感性を養いたいと思います。世の中のすべての課題を具体的に担うことはできませんが、せめてその一つだけにでも向き合って、それを担って、「そこからこそ人生」だと思える歩みをなしたいと思うのです。    

神さま、私たちがいち個人の幸せを追う信仰ではなく、イエスを通して命と人権への感性を養い、この世を覆う価値観とは一線を画す自由な雰囲気を漂わせる教会へと成長できますように。