《 本日のメッセージメモ》
 戦争時代と同じく、10年前の東日本大震災の時も、コロナ禍の今も、国やマスコミが体制に都合の良いスローガンを繰り返し流す。
テキストは「召し使いたちへの勧め」が語られる。現代では受け入れられない内容だ。しかも、悪い主人にも、十字架のイエスを模範と用いた上で、「従え」というのだから驚く。
その最大の原因は時代にあった。当局の目があり、あからさまに抵抗を促すようなことは、決して書けない状況下にあって、著者は表現に苦しんだに違いない。結果、「悪には善で」という文言となったのか。
「黙従」という普段は使わない単語がある。黙って従うことだが、本来は真に神に聴くことが前提にある。
東大の本田由紀教授が「やりがい搾取」に対して、警鐘を鳴らしている。権力側からの「役に立て」という発想には気を付けねばならない。
それは信仰においても同じだ。黙って従うことが、自分で考えないことにつながってはならない。体制に都合の良い生き方を貫く必要などない。
万一、踏み絵を踏まねばならない事態になったら、迷わず踏めば良い。命のほうが大事だからだ。そして次の歩みに備えるべきだ。

《 メッセージ全文 》

 戦争中に掲げられたあまたのスローガンの一つに「報国は生活改善から」というものがありました。国に報いるため、それぞれ個人が身近なところでできる生活改善をしよう、という訳です。

 今なら、余計なお世話だ!と反論できますが、当時はできませんでした。少なくとも公には。余計なお世話だと思っても、せいぜい心の中で舌打ちをする程度だったでしょう。
 いち個人が自発的にそうする、それを選択するのなら自由です。でも国がそれを言う、それを支える体制が言うとなると、大変です。今言いましたように、あからさまには反論できなくなるからです。
 こうしたスローガンは、文言自体がもっともらしいので、それだけで反論しづらいムードを醸します。東日本震災のあと、テレビをつけるたびに「みんなでやれば大きな力に」とか「今わたしにできること」とかいうコマーシャルがあふれました。公共公告機構とかいうから、いかにも公の機関かと思ったら、いち民間団体だそうです。
 あの頃、うるさい!と感じていました。あんたに言われる必要ない、と思っていました。わたしがひねくれているからでしょうか?今、あの頃に似たような感覚を抱かされています。しつこく繰り返されると、洗脳されたような気になります。先週15日に、東京都の居酒屋などへの時間短縮規制が解除されたのですが、都がしきりに言うのです。「解除されても、気を緩めないように」って。まったく都になったら、大変ですよ。都民じゃなくても鬱陶しいだけですよ。

 さて、今日与えられたテキストも、鬱陶しいです。恐れ多くも聖書に対して、牧師が鬱陶しいとは失礼かもしれません。「召し使いたちへの勧め」という小見出しが付けられています。この時代に、召し使いって何?とまず思ってしまう小見出しです。
 そして読むと、中身には更に驚かされます。

 召し使いは、心からおそれ敬って主人に従いなさい、というのです。それも善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい、と18節にあるのです。無慈悲なと訳されていますが、意地の悪いとか、ひねくれたとも訳せる単語です。誰がひねくれた主人に従いたいでしょう。
 それが更に19節、「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と続くにあっては、驚きのあまり言葉を失ってしまいそうです。
 もっとも、一つ前の段落では、「すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが皇帝であろうと、総督であろうと服従しなさい。」とありますから、ましてや召し使いの主人に対して従うことは当然のことなのでしょう。
 しかも、召し使いが主人に従うための根拠に、イエスの生涯が用いられているのです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪にに対して死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(22~24節)
 こう続いて行きます。言われればその通りで、誰からも何の反論も持ちえないイエスを持ち出されては黙って聞くしかない文章となっています。一体誰が書いたのか、ですが、ペトロの名前が用いられてはいますが、よく分からないのです。それで余計に腹立たしいですね。

 今の時代には、到底受け入れられないようなこんな箇所がどうして聖書とされているのでしょうか?いっそ削除しても良いのではないかと思えます。しかし、その理由は、すべて「時代」にあるのでした。この手紙が書かれた、動かしがたい当時の状況が確かにあったのです。まずは、この召し使いたちとは、職業として自らそれを選んだ人たちではなく、奴隷として否応なく召し使いとされた人たちだったのです。
 一段落前の皇帝や総督、そして召し使いが仕える主人たち。中には超超珍しく、良い人もいたかもしれません。でもそれは本当に一握りの人で、皇帝を筆頭にほとんどは「悪」としか言えない人たちのオンパレードだったでしょう。
 キリスト者がそうでなくても著しく迫害された時代です。少なくとも権力者の目が光っているさ中に、みんなで力を合わせて倒しましょうなどと訴えることなどできませんでした。下の身分の者が上に抵抗して良いという考えそのものが、まだなかったのです。それ自体が罪であり、悪でした。一揆など起こしても、圧倒的に押しつぶされました。さりとて、「悪を制するために悪を」とも言えません。当局の目をうまくかいぐぐらねばなりません。著者は唸ったはずです。

 私の知り合いに、「黙従」という言葉の好きな人がいます。通常、ほとんど使わない単語だと思います。あれこれ屁理屈を言わないで、黙って従え、ということです。でも、本当は、黙して神に聴いて、一番なすべきことは何かをしっかり考えるということだと思います。

 手紙の著者は黙従の末に、とりあえずイエスを模範として、悪には善を行うことで立ち向かうことを結論としました。それは、下手に動いて捕らわれてしまったら、終わりだからです。どんなに信仰が素晴らしくても、それで捕まり、万一死んでしまっては意味がありません。あなたがたの真の主人は、他の誰でもない「魂の牧舎であり、監督者である方(25節)=イエス」だということを、暗に書きました。それが当時としては精いっぱいの表現だったと推測します。
 ただ、そうは言っても、やっぱり現代の私たちとは相当に事情が乖離した手紙であるのは間違いありません。私は、これらの文言が、著者が必死で考え抜いた挙句の切ない結論だったと思っていますが、だからと言って同意はできません。

 イエスの十字架は、イエスだから担わされた、担い得た出来事であって、イエスに従いたい者であっても、同じことを要求はできないと考えます。誰でも可能なら、それではイエスの業にはならないのです。それでもこれは権力者の手紙ではなく、権力に抗おうとした、いちキリスト者からの手紙です。敢えて言えば、著者は誰に強要されたのでもなく、懸命に自分で考え抜いて書いたのだという一点を学びたいと思います。

 東京大学の本田由紀教授が「やりがい搾取」という言葉を13年前に用いました。雇う側が「やりがい」を強く意識させることで、働き手が低賃金や長時間労働といった悪い環境に順応してしまう構図のことです。
医療や介護や保育などの退陣サービスは、献身的に顧客のニーズに最大限応えようとして働き過ぎる傾向があります。自分たちの仕事は他の人々の生活や生命を成り立たせるのに貢献している。この「奉仕性」がやりがいとなって、低賃金で働くのも仕方がないと思ってしまうのです。と、本田教授は説明します。日本社会の奥底に、社会に「役に立て」という発想が沁み込んでいると分析されています。
それと全く同じではないのですが、宗教の世界にも似たような危険性があるでしょう。戦前の日本は、天皇制という名の宗教に支配されました。つい最近では、オウム真理教が起こした大事件がありました。真面目に奉仕する、黙って従う、純粋な人ほどに、社会に、誰かに役に立とうとするあまり、かえって加害者になることがあるのです。多分、下手に黙従して、自分自身で考えないからです。信仰の世界でも、やりがい搾取があってはなりません。悪い主人に黙って従うことがあってはならないのです。
私たちはよく生きねばなりません。よく生き抜かねばなりません。ですから、万一権力者から踏み絵を踏めと言われたら、よく生き抜くために踏んだら良いのです。体制に都合の良い生き方を貫く必要はないのです。命と引き換えにして守る信仰などありません。引き換えにせず、踏んだとしてもその後のために、密かに賢く、しかし力強く次へと歩めば良いのです。

天の神さま、信仰を通して自分で考える力が養われますように。