《 本日のメッセージメモ》

 散歩中、認知症で徘徊している老人と出会った時のこと。彼女は自分の家はどこか分からないが、「待っていれば迎えが来る」ことを確信していて、不思議な平安を与えられた。

テキストには「キリストの愛を知る」と小見出しがつけられ、それによって満たされるよう著者の願いが祈りとして描かれている。

わずかな一段落に、3回も繰り返して「内」という言葉が用いられる。キリストの住まい、神の働きはすべて私たちの心の内である。

しかし私たちは勘違いする。豪華な神殿に象徴されるように、神を外に求め、探してしまう。それをしているうちは、出会いはないだろう。

建物のような見える形にだけでなく、人間の手で作られた儀式の中にも求める私たち。高揚感は与えられるが、それは神ではない。

神もイエスも私たちの持ち物にはならない。特別な場所に留まる方でもない。「キリストの愛の広さ・名がさ・深さ」は、人の知識をはるかに超えるもの。

私たちは生涯を通し、信仰によってそのことを学ぶのだ。

《 メッセージ全文》

何も運動らしきことをしていませんので、せめても朝夕の散歩くらいはと思って、続けています。たくさんのSPを引き連れて歩く首相とは違って、何の変哲もない、ごく近所を歩くだけの散歩ではありますが、続けていると、思いがけないことがあるものです。

たまに十円拾ったりとか、良いことがあります。百円拾った時は大喜びになりました。我ながらいじましいです。つい先日はスマホを拾って、届け出ました。朝から良いことをした満足感に浸りました。持ち主に無事戻っているといいんですが。

母校のジャケットを着て歩いていて、ある方が私のすぐ脇にクルマを留めて「何年卒業ですか?私も同窓です!」と声をかけられたこともありました。

それから、どうやら認知症の老婦人が下着姿で徘徊していたところに出くわしたこともありました。自宅までは分からなかったのですが、ぽろっともらされた名前から、関係の方が判明して、そこにお連れすることができました。一安心でした。

この時、この女性は自分の家がどこかは分からないのに、「待っていたら迎えが来る」から大丈夫と何度も言いました。それまでにも同じようなことがあったのでしょうか、本人には迷っている様子も困っている雰囲気もなくて、むしろとても落ち着いていて、普通に大丈夫と言い切る姿を印象的に覚えています。

おうちはどこですか?と聞いても住所は言えないのです。でも、自分には迎えに来てくれる人がいるから安心している様子で、あんまり心配しなくてもいいのかもしれない、という不思議な平安を与えられたような気持ちになりました。

さて今日与えられたテキストには「内」という言葉が3回使われています。全体として「キリストの愛を知る」という小見出しが付けられていて、キリストの愛を知ろう、そのことを通して、19節にあるように、「ついには神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という著者の祈りというか、願いが書かれている個所になります。

3回使われている「内」という言葉ですが、最初は16節、「あなたがたの内なる人を強めて」という箇所。次は17節、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」という箇所。そして20節の「わたしたちの内に働く御力によって」という箇所、合わせて3か所になります。

このうち17節は「あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの内に住んでくださいますように」という聖書協会共同訳のほうが良い訳だと思います。「キリストを住まわせ」という新共同訳の訳は、ちょっと尊大過ぎる気がします。

いずれにしても、ここでキリストの愛を知ろうという著者の呼びかけは、すべて読む人たちの心、内部に焦点が当てられているのです。敢えて3つを縮めてまとめると、「内なる人(私たちの心)が強められ、その心の中にキリストに住んでいただき、神さまの力が心の中で働く」ということになります。

著者がしつこいほど「内」ということを強調した背景には、わたしたちの信仰への誤解があるからでしょう。うちではなく、外にそれを見ようとする誤解です。例えば当時のユダヤ教の神殿が、ソロモンの時代よりは劣っていたとは言いながらも、壮大な作りだったことは、「外へ向かう」ことの象徴的な表れと言って良いでしょう。

神さまが住まわれるところは、神殿です。だから豪華な作りとなる訳です。単に大きいだけでなく、金を贅沢に使ったり、白亜の大理石が用いられたりします。装飾もあれこれなされます。大体多くの宗教でそうなっています。

幸いにも私たちの教会は、そんな豪華な作りではありません。でも、時々ノンクリスチャンの方の訪問があります。神社やお寺に参拝するのと同じ感覚で、ここに神さまがおられると思って来られます。そして、その前で頭を垂れて祈りを捧げる訳です。

その気持ちを否定するつもりはありません。世間とはちょっと違う異空間に身を置いて、心を静め、気持ちを清めたいという願いは、よく分かるのです。ただ、そうやって私たちは神さまを外に見つけよう、探そうとしますけど、残念ながらそれをしているうちは発見が難しいのかもしれません。何故なら、著者の記したように、それは私たちの内に働くものだからでしょう。

このことは、見える形のものに限りません。今、作家の池澤夏樹さんが「また会う日まで」という新聞小説を書いています。池澤さんの母方の祖父のお兄さんで、実在の人物が主人公です。クリスチャンで、軍人で、東大で天文学を学んだという人です。

今は海軍兵学校の生徒だった頃のことが連載されていますが、規律正しい、厳しい日常の中で、かえって独特の感覚が作られ強められて行く様子が描かれています。少しだけ紹介します。兵学校の朝の場面です。

「そして7時45分、「衛兵隊用意」の号令で、小銃で武装した生徒の一個分隊が行進を始める。7時55分、次のラッパ。「軍艦旗、揚げ方!総衛兵列式整列!」敷地の一角に模造のマストがある。一人が索を握り、二人が畳まれた軍艦旗を広げて索に結び付ける。「10秒前!」と時計係の生徒が大声で告げる。当直将校が「気を付け!」と号令する。生徒全員が直立不動になる。「時間!」と「揚げ!」と「捧げ、銃(つつ)!」がほぼ同時に発せられる。「君が代」を奏でるラッパの音(ね)と共に白地に赤で日輪と十六本の光条を描いた軍艦旗がゆっくりしょうとうへと上ってゆく。」

 皆さん、この光景を思い描いてみて下さい。およそ「愛」などという世界の真反対に位置する軍隊の世界、なのにちょっと格好いいのです。何だか気持ちが酔って来そうになりませんか?

 小説では次のように続きます。

 「儀式というのはその場にいる全員を感動に誘うものだ。あの時、わたしは確かに感動していた。この仲間と一心同体と思っていた。わたしの心は本来神の国に属していたのだが、この瞬間はそれを忘れていた。」

 軍艦旗を掲げる練習が毎日秒単位・分単位で繰り返されます。一糸の乱れもなく訓練されるのです。儀式ですが、誰か人間が作ったものに違いありません。見える豪華な神殿に酔うのも人間ですが、こうした儀式にも酔って我を忘れるのです。

 普段と違う、特別な場所で、特別な時間を過ごして、気分が高揚する。そのこと自体が悪いことではないけれど、うっかりそれが信仰に結ばれるなら、誤解であり、間違いということです。

 言うまでもありませんが、イエスも神さまも、建物の守護神ではありませんし、形あるものの守り神でもありません。今こうして、神さまを思い、イエスを思い献げているこの礼拝の場に、きっと神はいて下さると信じます。

 けれども、神さまは私たちだけの神さまではなく、イエスもまた私たちの持ち物にはならないのです。ここに神さまが共にいて下さるのと同時に、より困難で、より困窮している人たちの元に神さまはおられるし、イエスもその人たちと一緒に働かれることでしょう。

 一部の人の持ち物にはならない、特別な場所にだけ留まらない、人の都合の良い作り物ではない方が、私たちの造り主であり、救い主であるのです。それが「キリストの愛の広さ、長さ、深さがどれだけであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と綴った著者の思いです。私たちは、生涯を通して、信仰によってこのことを学んで行くのです。

天の神さま、あなたの住まいはどこでしょうか。それが私たち一人びとりの心の内なら幸いです。どうかそこに立ち、そこに力を与えて下さい。