《本日のメッセージメモ》

 世界聖餐日は、1936年アメリカの長老主義教会で始まった。北米から戦後日本にも入り、1956年、教団は宣教の日と共に制定して今に至る。

異なる文化・経済・政治の状況にあってもなお、世界の教会がキリストの体と血を分かち合うことを通し、主にあって一つであることを自覚し、お互いが抱える課題を担い合う決意をする日、と定義されている。

現実にどこまで達成できているかは心もとない。聖餐式も人間による儀式だが、プロテスタント教会はカトリックに比べると、重みが少ないかもしれない。

学生時代にミクロネシアの教会で与かった聖餐式は、具材を超え、生き生きとした喜びの聖餐式だった。

私たちは事柄の「意味」を問う。信仰であっても、それは大切な作業だ。しかし救い主の十字架と復活を信じる信仰は、それ自体が説明し難い出来事から出発している。

パウロは「ああ、神の富と智恵と知識の何と深いことか」(13節)と書いた。この世の知恵を追い求めたパウロは、結局人間の限界に気づかされたのだ。

上馬教会の「キリスト教って、何だ?」の後書きに、聖書はどの本より謎が多い。でも「謎はロマンだ」と記されている。

神の計画は謎。にも関わらず、神だから伝わる想いは必ずある。

《メッセージ全文》

 今日10月第一主日は、世界聖餐日です。世界宣教の日でもあります。毎年の定例の行事として聖餐式を行って来ました。世界中の教会で聖餐式が行われますので、私たちの教会も当然それに参加するのだ、ということでした。

 それで、特段にこの行事のことを説明することもありませんでした。今年はコロナ禍の中で、東神戸教会だけでなく、多くの教会がこれまで聖餐式を取り止めて来ました。再開しても、牧師だけが聖餐に与かる形態のところもあるようです。

 そもそもは1929年に起こった世界恐慌で、失業し、貧しく、日々の生活も心もとない人々のことを思って、アメリカの長老主義の教会が長老主義の教会内だけで、この行事を行ったのが始まりでした。せめても気持ちは寄り添いたいということが奥底にあったと思います。1936年のことでした。

 それが更に第二次大戦へと世の中が傾斜して行く中で、1940年に北米キリスト教連盟によって、全世界のキリスト教会が、それぞれの教会において聖餐式を守り、国境・人種の差別を超え、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日として提唱したといいます。

 これが戦後、WCC世界教会協議会で推奨され、NCC日本キリスト教協議会を通じて日本の教会にも広められました。1956年、日本キリスト教団はこの日を制定しましたが、同時に日本から世界へと派遣されている宣教師、或いは世界から日本に派遣された宣教師の働きを覚える世界宣教の日も制定しました。

 異なる文化・経済・政治の状況にあってもなお、世界の教会がキリストの体と血を分かち合うことを通し、主にあって一つであることを自覚し、お互いが抱える課題を担い合う決意を新たにする日、という定義になっています。

 その成立にも、制定にも歴史と深い意味がある訳です。しかし残念ながら、崇高な目標の割には、世界中の教会で聖餐式を行うことが、現実にどれほどの意味を持っているのか、わずかなりとも成果が上がって来たかというと、はなはだ自信を持てません。

 カトリック教会は、毎週の礼拝自体を「ミサ」と呼びます。クリスマスの「マス」と同じです。ミサはラテン語、マスは英語。「ミサ」は、感謝の祭儀と言われ、礼拝自体が聖餐を意味します。それで毎週の礼拝だけでなく、集会ごとに繰り返し聖餐式を行うのです。

 そういうカトリック教会と違って、プロテスタント教会の聖餐式は教会ごとに取り決めが違います。毎週行っているところもありますが、多くは第一主日とイースター、ペンテコステ、クリスマスなどの行事の日というところもあり、行事の時だけというところも少なくありません。

 カトリックは与かる聖餐のパンを「聖体」と言って、それ自体がキリストの体と信じる信仰です。一方、プロテスタントは、聖餐式はイエスを記念するものと捉えています。その違いのせいか、プロテスタント教会では、カトリックほど聖餐式の重みがないように思います。説教のほうが重要だと考える方も多いことでしょう。

 ただ、ここで聖餐式の意義や意味合いの話をしたいのではありません。9月の役員会までは、私もコロナ禍だから、10月の聖餐式も無理だろうと考えていました。悲しいかな、今まで行わなくても特別影響は何もないと感じています。そんな中で思いがけず、行うことを考えて欲しいという意見が出されました。

 こんな状況下だから無理して行わなくても良いと考える人も少なくないと思います。恐れや不安の気持ちは分かります。でも一方で、やり方を工夫して聖餐式を行うことにも意味はあるように思います。

 それは世界聖餐日の意味合いとか、儀式としての聖餐式そのものの意味合いとかを改めて考えること以上に、イエスの最後の晩餐を思い起こすことは大事だという理由です。

もともとそれが聖餐の食事でした。でも次第に食事が乱れて来たので、憂えたパウロが形を整えたのです。人間の手による儀式ではあります。でもそこにはイエスを忘れないという強い願いと祈りがありました。

今般、どういう形で聖餐式を行えるか考えるに当たって、かつて学生時代に行ったミクロネシアでの聖餐式を思い起こしました。それはタロイモもファンタグレープの聖餐式でした。そんな形の聖餐式は後にも先にも初めてでした。そこでは当時それしか手に入らないのですから、誰も疑問に思っていませんでした。と言うより、中身を超えてそれを共に食べ、飲むことの喜びに満ちた聖餐式で、とても感動したのです。楽しさと笑顔にあふれていて、私たちが神妙な顔つきで重々しくあずかる聖餐式とは一線を画していました。ただの儀式ではなくて、信仰に直結している生き生きとした「食事」に感じられました。具材より式を行うことの具体的な喜びが大事だと改めて思った次第です。

 パンでなければ、ぶどう酒でなければ正式な聖餐式とは言えない、と断じる人もいるのかもしれません。そんな聖餐に与かることの意味はあるのかと問う人もいるかもしれません。

 私たちの信仰は、魔術ではありませんし、カルトのように洗脳して聖餐式に何事かの意味があるよう思い込ませるものでもありません。むしろ、一人ひとりよく考える姿勢が大切ですし、それをすることにどんな意味があるか、疑問を持つことは信仰生活においても当然だと思います。

 しかし、そうだとしてもそれがすべてでもないのです。私たちの信仰は、もともと説明のしようのない不合理から出発しているからです。キリスト教信仰の原点は、救い主イエスの十字架と復活にあります。

 「十字架」とは、客観的に言うなら「敗北」です。当時の権力者たちから不条理な死を与えられました。抗うこともできず、無残に死ぬほかなかった、言わば敗北でした。また、「復活」は逆に客観的に合理的に語ることはできない出来事です。冷静に言うなら、非科学的というしかない出来事です。

 そういう原点を、嘘偽りと主張する人たちを超えて、キリスト者は信じ受け入れました。そしてそのイエスを記念するための聖餐式が生まれました。信者同志が、兄弟・姉妹と呼び合うこと。聖餐式でイエスの体と血を飲み食いすること。これらはキリスト者ではない人たちには、信じがたい気持ち悪い、ぞっとする行為でした。

 意味を問い、意味を求めることは大事な態度ではあるものの、それをすべて合理的に説明できるものではないのでしょう。また、上辺だけを見て避難糾弾する人たちには、多分分からないことがあると思います。

 この世に迎合する必要はありませんが、一方で世間から極めてはずれることもどこか怖いことです。信仰にはそういう要素があると思うのです。

 パウロは徹底的にユダヤ教の信仰を極めようとした人の一人でした。分かることを追い求めましたし、意味を尋ねました。一方で、懸命に律法を遵守するべく務めました。その上でイエスと出会い、神さまの真意にたどり着いたのです。それは、すべて分かったということではなく、分からないということが分かったということでした。だから今日のテキストで「ああ、神の富と智恵と知識の何と深いことか」(13節)と書いたのです。それは驚きであり、逆に言うと人の富と智恵と知識の限界を知った謙遜でもありました。

 人間に神さまのなす一切が分かるはずはないのであって、それ故にこのテキスト11章では、その神の救いの業は「秘められた計画」なのだと記したのです。この秘められた計画とはギリシャ語でミュステーリオンと言い、英語ミステリーの原語です。

 最近すっかり人気の上馬キリスト教会ツイッター部ですが、夏に出た最新本「キリスト教って、何だ?」の後書きに「聖書はほかのどの本よりも「謎の」多い本です。でも、謎はロマンだ」って書いてありました。同感です。

 聖餐式はともかく、神さまの計画は謎です。必ずしも私たちの願いや思いとしばしば添いません。だから時々がっかりします。でも思いがけず違う形で届けられることがあります。神だから伝わる想いは、必ずあるのです。自分の知らなかった世界です。そうでなければ、私たちがここにいる意味がないのです。 天の神さま、すべてが分からなくてもよしとして下さる恵みに感謝します。あなたの富と智恵と知識の深さを知る者として下さい。