2020年10月11日 片岡 正義教師@日本基督教団 東神戸教会

ルカによる福音書16:19〜31

先日、ある生徒が悲しそうな顔をして、私の方へやって来ました。

「なぁ、聞いて。さっきの授業で先生が出席番号順に質問当ててたのに、

何故か直前で順番飛ばされて、私だけ指名されなかってん。なんか悲しかったわぁ。」

人は人から忘れられた時、強い悲しみを抱きます。

私に気付いてほしい。誰か一人でいい、私の側にいてほしい。

本日の登場人物もそのように傷付き、孤独を感じていました。ラザロという男です。

彼は、ある金持ちの門前に、できものだらけの貧しい姿で横たわっていました。

「横たわる」と訳されているギリシャ語は、「投げられた」という意味も含んでいます。

つまり、貧しい人・ラザロは何者かによって門前へ連れて来られ、

 汚い物かのように放り投げられた、ということです。

そもそも彼は、21節「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」と思っていました。

当時、食事の席において、手についた油を拭き取る為にパンが使用され、

 人々はそのパンを次から次へと、机の下に捨てていました。

ラザロは食卓から落ちるパンでも良いから、とにかく腹を満たしたい程に空腹でした。

しかし、貧しい姿の彼が食事の場に同席することは許されず、

 その場から排除され、門前へ連れ出されてしまったのです。

彼に対する扱いは「排除」だけでなく、パンを机の「上から下へ」との構図は

 物理的・心理的に明らかな「上下関係」という差別を表します。

当時の認識では、身体のハンディキャップは本人か両親が過去に罪を犯した罰の表れ、

 と考えられていました。

殴る蹴るの身体への暴力だけでなく、関係を遮断する心への暴力も日常的にあったのです。

自ら門前へ来ることすらできない程に疲弊しきっていたラザロでしたが、

 誰からも相手にされず、拒絶され遠ざけられ、関係を持つ者はいません。

存在を全否定され刻まれた傷は想像するしかありませんが、彼は身も心もボロボロでした。

一方で、ラザロや民衆とも比較にならない程に輝きを放つ者がいました。

この家の主人、金持ちの男です。

この金持ちの男は、いつも紫色の衣や柔らかい布を身にまとっていました。

当時のローマ社会において、紫色の衣服を着用できるのは上等な身分の者だけでした。

暮らしが安定している彼の様子は19節に記されていて、

 「ぜいたく」は「素晴らしい」を、「遊ぶ」は「祝宴」を意味しています。

他の聖書では『毎日、豪華に楽しく宴会する』と訳される程で、

 この金持ちは、所有している「地上の富」を自らの楽しみの為だけに用いていました。

隣人とのつながりを見失った自己中心性や憐れみの心の欠如が描かれており、

 彼は、ラザロや他の民衆に「下層民」のレッテルを貼り、自らの暮らしと分離しました。

この「分離した者」との言葉に由来するのが、ユダヤ教の最大派閥「ファリサイ派」です。

今日の聖書箇所より以前の14節「金に執着するファリサイ派の人々」が居て、

 彼らがイエスを「あざ笑った」ことが本テキストのきっかけとなったので、

 ある種、このたとえ話はイエスから彼らへの警告でもありました。

律法学者たちは教師(ラビ)と呼ばれ、民衆に律法の教育をしていましたが、

 律法を守れない者たちへの反応は、非常に冷ややかでした。

収入の十分一納税や丸一日全ての労働が許されない安息日などが規則としてありましたが、

 生活に余裕が無く、税金を捻出できないそれぞれのお財布事情などは御構いなしでした。現代、コロナ禍において休業要請が出されましたが、

 生活の為に営業せざるを得ない人々とそれをバッシングする人々のイメージです。

その民衆を「地の民」として軽蔑し、遠ざけ、

 あの者たちは神に救われない、我々と「分離」して扱われるべきだ、と主張しました。また、そうすることにより、自らの立場や権力を確固たるものとしていきましたが、

 イエスは福音書において、度々彼らと論争しました。

安息日にも関わらず、人助けや麦の穂を摘んだイエスは彼らから総ツッコミを受けますが、

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」

 と律法の遵守という「地位への固執」より、人命を最優先とした返答の記述は有名です。

ファリサイ派の彼らはひとつの巨大な集団を形成したことにより、

 集団外の人々の存在が見えづらくなり、

 「隣人」との言葉自体が意味する範囲も極端に狭まっていたのでしょう。

だからこそ、そのような考えを持っていたファリサイ派の人々を

 金持ちの男と照らし合わせ、揶揄するようなたとえ話を語りました。

それが、22節以降の展開として顕著に描かれています。

金持ちの男もラザロもそれぞれに召されますが、

 金持ちの男は陰府でさいなまれながら、もだえ苦しんでいましたが、

 ラザロは天使たちによって、宴席にいるアブラハムのすぐ側へ連れて行かれました。

22節「アブラハムのすぐそばに連れて行かれた」との記述は、

 口語訳聖書では「アブラハムのふところに送られた」と記されています。

「ふところに連れていく」は「食卓に共につく」ことを意味し、

 これはラザロが「最大の神の救い」を受けたことを明らかにしています。

つまり、地上では人々からは嘲られ罵られたラザロでしたが、

神の目から見ればかけがえのない者であり、自分は尊い存在であることを知りました。

このたとえ話は、ルカによる福音書にのみ記録されています。

ということは、記録者がルカ福音書を通して、

 私たち読者へ伝えたいメッセージを受け取るのに、最適な物語だと言い切れます。

ルカ福音書のメッセージ、それは「弱者を強める神の姿」です。

 当時の社会的弱者と言うと、女性や子どもたち、病人や貧しい人たちを指します。

貧しい者が神からの最大の祝福を受ける、この「金持ちとラザロ」の他に、

 天使ガブリエルから母マリアへ「おめでとう」との呼びかけから始まる「受胎告知」や

 歴史的に対立していた敵国の傷ついた旅人を介抱する「善いサマリア人」のたとえ、

 失われた悲しみから喜びへと変わる「無くした銀貨」や「放蕩息子」のたとえなどが

 ルカ福音書にのみ記録されている代表作です。

つまり、自分が望んでいない、また思ってもいない状況にあっても、

 必ず神は私たちを助けてくれる、というメッセージが込められています。

低くされた者を高め、弱くされた者を強め、悲しみを喜びに変える神は、

 私たちに生きていく力である「糧」を与えてくれるのです。

イエスのいくつかのたとえ話において、名前の付けられた唯一の人物が、

本テクストに登場するラザロです。

ラザロには「神が助けられる」との意味があります。

 そのラザロは、必死に「パン」を求めました。

これは私たちが生きる上で必要不可欠な日々の糧を表しますが、

 今日の全ての讃美歌に記されるように「主の愛、御言葉、祈り」など

 様々に言い換えることができます。

新しい生活様式が叫ばれる昨今、なかなか共に食卓を囲むことが難しいのが現実です。

しかし、そのような状況に置かれている私たちのことも神は決して見捨てず、

 省みてくださっているはずです。

きっと「みんな可哀相に…」といった同情ではなく、

「大丈夫だよ、心配しないで」という励ましを与えてくれながら

 一人ひとりの祈りを聞いてくれているのではないでしょうか。

そして、このような今だからこそ「食糧」だけでなく

 様々な「糧」を共に分かち合える可能性を

 東神戸教会の皆さんと共に見つけていきたいと強く思います。

私たちの新しい信仰様式が、今求められています。

主なる神様、みんな揃って礼拝を守ることが今すぐには難しいかもしれません。

しかし、物理的に距離はあったとしても、心の距離は離れることがありませんように。