《 本日のメッセージメモ》
 今年の流行語大賞候補に「総合的」「俯瞰的」の語が入るだろうか。
 創世記の天地創造物語。アダムのあばら骨を抜いてエバが造られた。完全・完璧だったはずのものに、神は敢えて「欠け」を作られた。互いに補い合うように、と。
 パウロは、当時「完全な者」を自認する人たちに向け、自分こそはそうだった(3:5~6)と書いた。生きるに有利だった多くの物を獲得したパウロは、イエスと出会って、伝道の旅では迫害され、今や獄中にいる。
 しかしイエスを知ることのあまりの素晴らしさに、獲得したものは損失、塵あくただという。
それ故、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走ろう」(13・14節)、と呼びかける。
 獲得したものを忘れ、イエスに向かい、わき目を振らず、自分の道を歩むのみ、ということだ。
不自由な環境にあって、彼は天の国=イエスが立つ新しい都を夢見ている。
 故・李仁夏(イ・インハ)牧師が「福音において人生の価値基準は逆転する。すべての人々が新しい都に集まることが許される」と書いている。
 現状、パスポート(条件)なしに世界を移動できない。だが、私たちはもともと欠けがあり、互いに補い合うよう造られた。条件を求められない国の実現に向けて生きたい。それが神のみ心。

《 メッセージ全文 》
 今年も早いもので、今日は10月第3週を迎えました。もうしばらくすると、今年の流行語大賞の候補が発表されると思います。今年はきっと「3密」とか「ソーシャルディスタンス」とかコロナ関連の言葉が並ぶことでしょう。
 ですが、ここに来て、「総合的・俯瞰的」という言葉も候補に挙げられるのでは、と予想しています。何か意味がよく分からないんですが、およそ「総合的・俯瞰的」でないような人たちが、それを口にするインパクト感はあるような気がします。
 俯瞰とは、高いところから広く眺めることですから、その反対語は、下から狭く見上げること、つまり仰視とか主観的という言葉が当たります。総合的・俯瞰的に見て、問題がない人を選びたいということなので、逆に部分的・主観的に見ると問題がある人は選ばれないということになります。無論それは極めて一方的な見解ですから、はなはだ失礼な物言いではあります。

 さて、先週は結婚式の司式をするに当たって、改めて創世記の神の天地創造の箇所を読み直しました。第六の日に神は人を造られ、見よ、それは極めて良かったと満足の言葉が1章の最後に記されています。
 造られた神自身が極めて良いと満足したのですから、それは何ら問題のない、完全であり完璧ということを表しているのでしょう。ところが、神はその問題のないはずの人の様子を見て、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言って、パートナーを造る訳です。
 完全であるなら、それは失敗・ミスをしないということでしょうし、いつも満足できる訳ですから、自ら寂しいとか一人では満たされないとか人生に不満を言わないということだと思います。

 実際、人自身が何一つそんな欲求を訴えないのに、神自らが「一人でいるのは良くない」、つまり満足だけで生きることをよしとしなかったということです。しかも、パートナーを造るに当たっては、人アダムのあばら骨を抜き取ってエバを造ったと書かれています。
 完璧であったはずのものから、骨を抜き取った。これは神自身が完璧なもの、完全なものを壊したということを意味します。パートナー、仲間を作るために、わざわざ人を欠けのある器に設定し直したのです。この時から、欠けがあることこそが、人としての新たな状態とされた。だからこそ、人はパートナーと共に、互いにその欠けを補い合う存在として生きるように示された。これが人間の創造物語に込められている、人が独りでいるのは良くないとした神の思いであると思うのです。

 でも、その後、欠けがあることを人間はしばしば欠点と捉えます。相変わらず一人で生きるよう、その欠点を自ら補うため、様々な努力を重ねるのです。なるべく色んな能力を持つマルチ人間であれるよう頑張るのです。総合的・俯瞰的に見て、問題のない人物になるためです。

 宗教ですら、その目標達成のための道具となりました。完全な者となるために、ユダヤの人たちは割礼を受けました。律法を守って、できるだけ信仰的に成熟した「完全な」存在であろうと努力したのです。
 パウロがその一人でした。今日のテキストの一つ前の段落では、まさにそのことが述べられています。3章の5節・6節を読みます。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。」
 その上、パウロはギリシャ語が話せましたし、ローマの市民権も持っていました。当時のユダヤの社会では、申し分のない条件、生きるに有利なものを備えていたのです。そのように完全な者として生きた頃は、自信に満ちあふれていたに違いありません。
 ただ、完全な者として生きようとしたのは、彼一人ではありませんでした。同じように生きようとし、似たような努力を重ね、ついには自らを「完全な者」と称する人たちがユダヤ教徒にも、キリスト教徒にもいたのです。
 確かにかつてはパウロも彼らと同類の人でした。でもイエスに出会った今は違うのです。それまで努力し、獲得し、積み重ねて来た、当時の社会では明らかに有利となることごとの一切を今は損失、塵あくたとみなしていると繰り返し書いています。8節にこうあります。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。」
 そして、得ようと頑張って来たものを捨て去り、イエスと出会って示されたものをもう得たのだとは言わないのです。それは努力して獲得できるものではないからです。捕らえたいというのです。それは自分は完全な者ではない、欠けある器という告白とも言えるでしょう。
 完全ではない、すなわち欠けある者のなすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走ることだ、と13節・14節で記しています。これだけ得たということを誇って来たかつての生き方、つまり後ろのものを忘れ、前のもの、つまりイエスに自分の全身を向けて、ひたすら走る、つまり他のものに惑わされず自分に与えられた道を歩み抜くこと、それだけだと語る訳です。

 イエスを知ることのあまりの素晴らしさ、それ故に他のものは損失。ただそれを知ろうとして生きるのみ、このパウロのようには私たちなかなか言うことができません。これまで得て来たものを損失だとも簡単には思われません。でも何かを獲得するのに必死だった生き方ではない、何もそのような条件のない生き方が本当は自由なのだと想像することはできるので。

 かつて体制側の人間として、教会を迫害していた頃のパウロには人生を生きる上での直接の辛さはなかったでしょう。むしろ自慢の立ち位置だったに違いありません。ところが、イエスを信じた今の現実は、不自由だらけです。伝道旅行するあちこちで迫害を受けます。ユダヤ教徒からすれば、彼は裏切り者でもあります。そしてこの手紙を彼は獄中で書いている状況なのです。でもそこ獄中から天の国、つまり新しい都を夢見ているのです。

 川崎の在日大韓教会牧師だった李仁夏先生が生前こういう文章を書かれました。
「イエスの福音は、神の国の到来の約束をもたらした。福音において人生の価値基準は逆転する。最も小さく、弱く、抑圧された者が第一位に置かれ、少数者が抑圧から解放され、自らを取り戻すことが約束されている。すべての国とそこに住む人々は「新しい都」に光栄と誉れを携えて集まることが許される。いかなる人種、いかなる少数者も、自らの主体を完全に認められ、尊重される。この来るべき世界像は、私たちの主イエス・キリストのあがないの業によって、すでに私たちに与えられている。そして、世界のすべての民は、この新しい共同体に招かれているのである。それゆえ、民衆と共に苦しむ闘いは、決して空しいものに終わることはない。それは輝かしい希望に満ちたものである。」

 パウロと私たちには一つの共通点があります。それはイエスと直接出会っていないということです。パウロも直接出会い、直接教えられたのではないのです。にも関わらずイエスが来るところ天の国と示されました。この世に私たちの籍があるのではなく、わたしたちの本国は天にあるのだ(20節)と示されたのです。人生の価値基準が逆転されたのです。そこは、そこに入るためのあれこれの条件が要らないところです。死んで初めて行く場所ではありません。あれこれの条件の要らないところから、救い主イエスが来られる。新しい都です。私たちはそれを待つのだと、パウロは言うのです。この世のしがらみにがんじがらめにされている心を解放するためにです。これは信じることができます。

 イエスが示した天は、特別の条件を得た特別の人だけに入国が許されるところではないのです。すなわち、パスポートが要らないのです。この世界に、現実にパスポートが必要でなくなったら、誰でも自由に行き来できるようになる、天の国・新しい都はそういう場所であるのでしょう。
 残念ながら現実はそれには到底至っていません。今年は外国どころか、国内ですら出かけるのに躊躇します。敢えて行くとすれば、パスポートの代わりにマスクが絶対必要です。先週三日間鳥取にいて、どこか心が落ち着きませんでした。鳥取ナンバーばかりの道路を、神戸ナンバーで走ること自体、勇気が要りました。ただ本当の意味で、総合的・俯瞰的に言うなら、それは誠に小さな恐れに過ぎないでしょう。

 それよりも、私たちはもともと欠けを抱える器、だからこそお互いに助け合い、補い合って生きる存在として造られた。そのように生きることができるところこそ、天の国であり、そこは確かに条件を求められない豊かな場所。そんな場所が実現できたら素晴らしい。そのようなところ、新しい都に一歩でも近づけるように生きたい。そんな期待と喜びを抱いて歩むことが、神のみ心に適うことと確信します。

天の神さま、閉塞感に満ちるこの世にあって、あなたからの励ましを感謝します。どうか何も条件のない、パスポートの要らない新しい都に、私たちすべてを招いて下さい。