《 本日のメッセージメモ》

 神の救いの約束を覚える契約節。が、コロナ禍の今年は、例年にない距離感を感じる。

夕刊に「川崎戸手教会」の記事が連載された。それで創立した関田寛雄牧師の著書「あなたはどこにいるのか」を再読してみた。

小学生の頃、祖母であるお光ばあさんから「曲がっているものをまっすぐに見るにはどうすれば?」という問いを受けた。後に「まっすぐに」見ることと知った。

迫害の予告のあと、イエスは弟子たちに直球の励ましの言葉を与えた。残念ながら、それを直ちに自分のものとはできなかった弟子たちだった。

関田牧師は、キリストが「まっすぐに」自分を「曲がったもの」として見てくださるから、私は曲がった自分に絶望しない。私も私を「まっすぐに」見ようと思う。隣人をも社会をも。―と書いた。

弟子たちはどこかで自分を過大評価していたから、イエスの「恐れるな」という励ましを受け取れなかった。

自分を自力で「良く」しようとするのではなく、

自分も隣人も社会もまっすぐに見つめたいと思う。その立ち位置から命の輝きを知らされることだろう。

《 メッセージ全文》

 今日から待降節までの5週間を、契約節として、神さまが私たちを救うと約束された、その契約について覚える時を過ごして行きます。日本基督教団の新しい教会暦では、降誕前節として9週間に渡るカウントダウンの時でもあります。

 しかし今年は例年ほどにクリスマスを待ちわびる思いになれそうにはありません。いつもの楽しいパーテイーができそうにはないということもあります。が、それよりも精神的痛手の方が大きいのです。コロナ禍にあって、ソーシャルディスタンスという言葉が繰り返し使われました。それは感染防止のために必要なことではありましたが、言葉以上に人と人の距離を作ってしまった感があります。

 それに留まらず、私たちにとっては、人と神さまとの距離までもが遠くなってしまった気がします。感染終息にめどが立たず、経済状況が悪化する中で、これまでの歩みが過去のものとなって、何だか神さまだとか、信仰だとか言ってる場合じゃない、そんな雰囲気になっているのかもしれません。

 先週一週間、夕刊に川崎戸手教会のことが連載されました。「河川敷の教会と人々」と題されたシリーズでした。この時期に、どういう経緯があってか分かりませんが、学生時代に訪れたことがある教会なので、嬉しかったです。

 タイトルの通り、多摩川の河川敷に建てられた小さな教会です。在日コリアンの人たちの集落の中の教会です。青山学院で教えられていた関田寛雄先生が立ちあげられました。豪雨のたびに浸水するところで、昨年も台風19号で1階が水没し、今年8月まで町内会館を借りて礼拝を続けて来ました。この間、河川敷の外に会堂を建てることを決意し、昨日古い会堂最後を記念する礼拝を行って、年内には解体されるようです。

 現在は2000年から大阪・西成出身の孫裕久牧師が牧会しています。その話をしていると長くなるので、本筋に戻します。関田先生の記事で懐かしさを覚えて、先生の著書を1冊読み返しました。「あなたはどこにいるのか」と題された講話集です。2015年に出されたものです。

 神さまって、本当にいるのか。いるとしたら、どこなのか。そんなことを感じてしまう今にぴったりの題に思えました。そして特に先生の祖母であるお光ばあさんの思い出の文章に強く惹かれました。その箇所を紹介します(p.102)

 「このお光ばあさんを私が知ったのは、大阪の吹田にいて小学校2年で私が母を失ったころです。そのころ、すっかりやさしくなっていた祖母があるとき私に妙なことを聞きました。火鉢の箸を取り上げていわく「曲がっちょるものをまっすぐに見るにゃどうすりゃよいぞね」と。子どもの私は考え込んでしまいました。いろいろと答えてみても、「なんの、なんの」と首を振るばかりで受けつけません。業を煮やした私はとうとう「そんならどうしたら曲がっているものがまっすぐに見えるんや」と、かぶとを脱いでしまった。祖母はニコニコ笑いながら「まっすぐに見ればええのじゃ」と言う。「そんなことがでけるかい、おばあさんずるいずり」とかなんとか言ってその時はわからないままにうやむやのうちに過ぎてしまいました。その後十数年、私はふとこのことを思い出して、祖母の言う意味がわかったとき、私は心に大きなショックを受けました。まことに「曲がっているもの」を「曲がっているもの」として「まっ直ぐ」見ることが「まっすぐ見る」ということなのである。「曲がっているもの」をあたかも「まっすぐ」であるかのごとくに見るならば、それは「まっすぐ見る」ことをしないで「曲げて」見ていることである。そこに嘘が始まる。「おばあさんはやっぱりえらい。おばあさんは正しかった」と気がついて、頭を下げようと思ったとき、すでに祖母はこの世の人ではありませんでした。」

 小学校低学年の時のこの禅問答のような問いかけを忘れなかった関田先生も偉いですが、それを小学生の孫に問いかけ、答えを教えなかったお光ばあさんがやっぱり偉いです。この文章を読んで、私は今コロナ禍で起こっている事の一つが分かったように思いました。人と人との距離を取らざるを得ない現実の中で、SNSなどでヘイトスピーチ的な発言がこれまで以上に拡散してしまっています。誰かが何の根拠も裏付けもなく誰かに対して「反日」とか書き込むと、真実であるかのように広がるのです。曲がっているものがまっすぐのように振るまいます。彼らはきちんと文章で表したりしないのに、繰り返しツイッターでのつぶやきに煽られてしまうのです。そしてまともな方がしばしば叩かれることになります。日本学術会議会員の推薦拒否など、まさに神さま、「あなたはどこにいるのか」と叫びたくなるような悪夢です。

 さて、今日読んだテキストは、今後迫害されることをまず予告した後での、イエスの弟子たちへの励ましの記録でした。短い一段落の中に3回も「恐れるな」という言葉が使われています。

神さまの真理は必ず表わされるということ。その神をこそ畏れよということ。その神は1アサリオン、わずか数百円で売られている雀よりも更に、髪の毛一本まで深く知る愛で支える神であること。だから恐れるな、と語ったのです。

 まさにまっすぐの、直球の励ましだと思います。とても分かりやすい言葉です。ただそれでも当時の弟子たちに、直ちにその思いを実践することは難しい励ましでした。恐れるな、と言われて、「はい、もう恐れません」とは行きませんでした。この世への恐れはなかなかきついものがあります。だからこそ、イエスの逮捕の際、ペトロを筆頭に、彼らは全員逃げ出したのでした。この世へ対する恐怖心は、そう容易く克服し得るものではないことでしょう。それは今だってそうです。

 しかし、それでも私たちは、自身の人生を、人間の命をできれば輝くものとしたいと願っています。この世の評価を得て、この世に対して輝くという見た目の輝きという意味ではなく、本当に喜び、希望を抱いて歩む人生の輝きという意味においてです。

 関田先生がお光ばあさんの思い出の後に書かれた文章を読みます。(p.103)

 「私たちの経験する毎日の生活の中でも、お互いがまっすぐに見合っていないところからどんなに多くのゴタゴタが起っていることでしょうか。キリストの福音はこの世へのさばきです。神はキリストにおいてこの世をさばかれました。しかしそのさばきは救いへといたらせるさばきです。救われるためにはさばかれねばなりません。キリストは人を「曲げて見る」ことはなさりません。「曲がっている」人を「曲がっている」人として見たまいます。キリストは「まっすぐに」見る方です。しかし、私は「曲がっている」私に絶望しません。キリストが「まっすぐに」私を「曲がったもの」として見てくださるから私は安心しています。この「曲がった」私が「まっすぐな」私と見誤られるとしたら、私は居ても立ってもいたたまれません。キリストが私を「まっすぐに」見ておられるから、私も私を「まっすぐに」見ようと思います。隣人をも社会をも「まっすぐに」見ようと思います。そして、キリストの愛によって「まっすぐに」なろうと思うのです。」

 弟子たちがイエスからの直球の励ましを与えられたのに、受け入れられなかったのは、きっと自分をまっすぐに見ていなかったからだと思います。どこかで自分を過大に評価していたに違いありません。このまま、輝かないつまらない人生のまま終わったりしたくない、そんな思いに囚われていたことでしょう。自分は頑張れば、もっと良くなる。もっと輝きたい。その思いを否定しませんが、これはココからファインに留まることになるでしょう。

 それは弟子たちだけのことではありません。現代に生きる私たちもまた同じです。でも、基本的に私たちは、人の努力だけで己をまっすぐに見つめることはできない存在ではないでしょうか。相当に客観的であろうとしても、どこかに自己愛を潜めています。

 きっと関田先生の言われるように、まっすぐに見てくれる存在があってこそ、例え自分が曲がっていても、それを絶望せず受け入れられるのだと思います。その上で私たちも私たちを、そして隣人をも社会をも「まっすぐに」見つめる者でありたいと思うのです。その立ち位置から命が輝くものとされると信じます。

私は良くないかもしれない。美しくないかもしれない。弱い。その真実をまっすぐ見つめて下さる方が私に言われる。「恐れるな」と。ココからシャインです。

天の神さま、あなたの導きを支えを感謝します。現在の社会がくすぶっていようと、先にある輝くみ国を望んで、希望のうちに歩む者として下さい。