《 本日のメッセージメモ 》
米大統領選挙戦を通して、分断と分裂の現実をまざまざと見た。
テキストは、洗礼者ヨハネの辛辣な言葉に満ちている。それもそのはず、ファリサイ派とサドカイ派が多数、「洗礼」を受けに来たのだ。
両者は本来相合わない関係。だがそれぞれの意図があって共にやって来た。しかも双方「アブラハムの子」なる自負に立っていた。その欺瞞をヨハネは強く叱責した。神の福音は、誰にも注がれるものだから。
かつて同様の自負に生きたパウロは、イエスと出会って変えられた。弱さこそが必要だと。強さは弱さを顧みないことだ。いたわり合いは、互いに足もとを見つめ合うため心の向きが変えられること、と島崎光正さんは述べた。
神の前に、人は同じ。ドングリの背比べをしても意味はない。が、ドングリはそもそも背比べなどしない。
私たちも各自の生を生きながら、互いに足もとを見つめ、いたわり合う者でありたい。「わが上には」という作品に滲む島崎さんの深い思いを受けたい。
〇島崎光正(しまざき・みつまさ)
1919-2000、クリスチャン詩人 両親を失い、
二分脊椎のため下半身が不自由だった。小学校校長に励まされ、28歳で受洗。多くの詩を作った。
身障者キリスト教伝道協力会長など歴任。
《 メッセージ全文 》
先週3日に行われたアメリカ大統領選挙は、未だ確定せず、混乱が続いています。作家の室井佑月さんが「今国会が開かれてるんだよー。おかしくね?」とツイッターしていました。国会中継もやってたんですが、余りにも大統領選挙ばかりになっていたテレビ各局に苦言を呈されたのです。
かくいう私も、恥ずかしながら、どうも気になって、先週はテレビやパソコンで、大統領関連のニュースを投票以来、相当見てしまいました。見たからってどうなるものではないのですけど。ただ、二人の候補が伯仲している一方で、支持者も含め余りにも態度や対応が正反対です。選挙を通して、分裂し、分断され、溝が深まっているアメリカの様子をまざまざと見た思いがしました。
意見や主張が違うのは当たり前ですが、その相手に限度を超えた表現で、しかも強い口調で批判ばかり言い募る光景は、到底民主主義の在り方ではありませんでした。相手もまた同じ人間、同じ国民であれば、最低限の節度を守って相対して欲しいものです。
そのことは、視線を足元に落とすなら私たちの教会や教団でも当然同様ですし、広く見るなら違う国、別の国民に対しても同様だと思います。アメリカは過去4年間で相当傷ついてしまいました。これから改めて再構築、再出発してもらいたいと願っています。
さて、最低限の節度を守って欲しいと思いながら、今日与えられたテキストはかなり厳しい出来事が描かれていました。洗礼者ヨハネの言葉が何とも荒い、きついのです。
でも無理もありません。何とヨルダン川の現場に、ファリサイ派やサドカイ派の人々がやって来たのです。それも一人二人ではありません、「大勢」(7節)来たとあります。彼らとて同じ人間ではありますが、余りにも立場が違うのです。
ちなみに釜ヶ崎でデモを行うと、不思議にたくさんの警察官がやって来ます。守りに来てくれるのではなく、監視のために来るのです。だから勢い労働者の言葉が荒く汚くなります。こら、ポリ公!ひっこんどれ!・・・
同じ人間ですが、余りに立場が違うのでそうなるのです。立場が違うというより、そこに共にいることの中身が違うのです。これは分かっていただきたいと思います。今日のテキストも同じことを描いています。
ファリサイ派とサドカイ派が、何で荒れ野のヨハネの所にわざわざやって来たのでしょう。ファリサイ派はご承知のように、徹底的に律法を守って救いに与かりたい人たちでした。でも逆に言えば、いつその律法を通して救いからはずれる不安に怯えてもいました。だからそれを補完するものがあるなら、例え形だけであっても遠慮なく求めたのです。つまりヨハネによる洗礼です。
サドカイ派は一言で言うなら祭司貴族の集団です。現状維持を好む裕福な祭司長や長老、律法学者たちの特権グループで、彼らこそが最高法院(サンヘドリン)を構成し、実効支配していた、まさに当時の権力者集団でした。ユダヤのあちこちから洗礼を受けるためにヨハネのもとへ人々が集まって来ることを、到底よしとはしていなかった人たちでした。彼らが、普段ならまずしないこと、都会から辺鄙な荒れ野にやって来たのは、ヨハネの視察であり、監視のためであったでしょう。或いは無言の脅迫もあったかもしれません。
ついでに言えば、この両者は普段は仲が悪かったのです。生活態度も信仰的態度も違うからです。本来は互いに合わないグループでした。それがヨハネの観察ということで一致したので、一緒にやって来たということだったのでしょう。同じ目的のためなら、仲が悪くても一緒になる。福音書に繰り返し記録されている人間の姿です。
双方とも悔い改めのためにやって来たのではありませんでした。しかも、彼らは自分たちをアブラハムの子孫として選ばれたものという自負において結びついていました。
荒れ野で、質素な身なり、生活を続けながら、ひたすら神に聴き、人々に悔い改めの洗礼を授けていたヨハネとは全く対峙するところの連中だったのです。
もしヨハネがこの世的な価値をほんの少しでも大事にし、この世的地位にへつらう者だったなら、他の一般人を後回しにしてでも彼らを優遇し、洗礼を授け、そのことを光栄に思い、誇りにしたかもしれません。
しかし、ヨハネはそういう人ではありませんでした。自分の後に来る、聖霊の炎で洗礼を授ける人のことを知らされていました。それはただ自ら行っていた悔い改めへの導きの洗礼に勝って、真の命への清い誘(い
《 メッセージ全文 》
先週3日に行われたアメリカ大統領選挙は、未だ確定せず、混乱が続いています。作家の室井佑月さんが「今国会が開かれてるんだよー。おかしくね?」とツイッターしていました。国会中継もやってたんですが、余りにも大統領選挙ばかりになっていたテレビ各局に苦言を呈されたのです。
かくいう私も、恥ずかしながら、どうも気になって、先週はテレビやパソコンで、大統領関連のニュースを投票以来、相当見てしまいました。見たからってどうなるものではないのですけど。ただ、二人の候補が伯仲している一方で、支持者も含め余りにも態度や対応が正反対です。選挙を通して、分裂し、分断され、溝が深まっているアメリカの様子をまざまざと見た思いがしました。
意見や主張が違うのは当たり前ですが、その相手に限度を超えた表現で、しかも強い口調で批判ばかり言い募る光景は、到底民主主義の在り方ではありませんでした。相手もまた同じ人間、同じ国民であれば、最低限の節度を守って相対して欲しいものです。
そのことは、視線を足元に落とすなら私たちの教会や教団でも当然同様ですし、広く見るなら違う国、別の国民に対しても同様だと思います。アメリカは過去4年間で相当傷ついてしまいました。これから改めて再構築、再出発してもらいたいと願っています。
さて、最低限の節度を守って欲しいと思いながら、今日与えられたテキストはかなり厳しい出来事が描かれていました。洗礼者ヨハネの言葉が何とも荒い、きついのです。
でも無理もありません。何とヨルダン川の現場に、ファリサイ派やサドカイ派の人々がやって来たのです。それも一人二人ではありません、「大勢」(7節)来たとあります。彼らとて同じ人間ではありますが、余りにも立場が違うのです。
ちなみに釜ヶ崎でデモを行うと、不思議にたくさんの警察官がやって来ます。守りに来てくれるのではなく、監視のために来るのです。だから勢い労働者の言葉が荒く汚くなります。こら、ポリ公!ひっこんどれ!・・・
同じ人間ですが、余りに立場が違うのでそうなるのです。立場が違うというより、そこに共にいることの中身が違うのです。これは分かっていただきたいと思います。今日のテキストも同じことを描いています。
ファリサイ派とサドカイ派が、何で荒れ野のヨハネの所にわざわざやって来たのでしょう。ファリサイ派はご承知のように、徹底的に律法を守って救いに与かりたい人たちでした。でも逆に言えば、いつその律法を通して救いからはずれる不安に怯えてもいました。だからそれを補完するものがあるなら、例え形だけであっても遠慮なく求めたのです。つまりヨハネによる洗礼です。
サドカイ派は一言で言うなら祭司貴族の集団です。現状維持を好む裕福な祭司長や長老、律法学者たちの特権グループで、彼らこそが最高法院(サンヘドリン)を構成し、実効支配していた、まさに当時の権力者集団でした。ユダヤのあちこちから洗礼を受けるためにヨハネのもとへ人々が集まって来ることを、到底よしとはしていなかった人たちでした。彼らが、普段ならまずしないこと、都会から辺鄙な荒れ野にやって来たのは、ヨハネの視察であり、監視のためであったでしょう。或いは無言の脅迫もあったかもしれません。
ついでに言えば、この両者は普段は仲が悪かったのです。生活態度も信仰的態度も違うからです。本来は互いに合わないグループでした。それがヨハネの観察ということで一致したので、一緒にやって来たということだったのでしょう。同じ目的のためなら、仲が悪くても一緒になる。福音書に繰り返し記録されている人間の姿です。
双方とも悔い改めのためにやって来たのではありませんでした。しかも、彼らは自分たちをアブラハムの子孫として選ばれたものという自負において結びついていました。
荒れ野で、質素な身なり、生活を続けながら、ひたすら神に聴き、人々に悔い改めの洗礼を授けていたヨハネとは全く対峙するところの連中だったのです。
もしヨハネがこの世的な価値をほんの少しでも大事にし、この世的地位にへつらう者だったなら、他の一般人を後回しにしてでも彼らを優遇し、洗礼を授け、そのことを光栄に思い、誇りにしたかもしれません。
しかし、ヨハネはそういう人ではありませんでした。自分の後に来る、聖霊の炎で洗礼を授ける人のことを知らされていました。それはただ自ら行っていた悔い改めへの導きの洗礼に勝って、真の命への清い誘(いざな)いでした。ですから、自分にはその人の履物を脱がせる値打ちもない(11節)と自身の立ち位置を粛然と受け止めていました。
だからこそ、烈火のごとく彼らに言い放ったのです。「蝮の子らよ!」(7節)と。彼らにそれぞれ密かな算段があったのは分かっていました。にも関わらず、洗礼を受けに来たと平然とのたまう。冗談ではありません。「悔い改めにふさわしい実を結べ!」(8節)、「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな!」(9節)と続けざまに厳しく叱責したのは当然の成り行きでした。
神さまの思いは血統でもなく、何らかの目的達成のための権益集団にでも向いてはない。それどころかその辺の石ころからでもアブラハムの子らを作り出すことができる。良い実を結ばない木を切り倒す斧は、もう木の根元に置かれていることを恐れよ、ヨハネの憤りの言葉が続きました。彼らはこれをどう聞いたことでしょうか。恐らく素直にはとても受け入れられず、ただ自分たちのプライドが傷つけられた怒りだけが残ったのだと想像します。
石ころからでもアブラハムの子を作り出すことができる神さまから見たら、私たちはそれぞれの少々の努力の度合いの差や生き方の違いなど、ほとんど同じ程度、ドングリの背比べのようなものであることでしょう。
イエスに出会うまでは、自他共に認める律法主義者だったパウロには、そのかつての自身の生き方の傲慢さが誰よりも分かっていたに違いありません。それでガラテヤ書で、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」(ガラテヤ3:8)と書きました。神さまの愛と正義は、ユダヤ人のみでなく、一部の特別な人だけでなく、あまねくすべての人々に注がれるからです。
それから2000年が経ちました。自分たちだけが正しいと居丈高になる人たちの様子をテレビで観ました。悲しくて、とても腹立たしいです。ですが、自分自身を振り返ります。私も、何か失敗したり、つまづいたりして精神的に参ってしまうその時には、自分の弱さをほとほと感じます。でもそうでない時、私はしばしば強いのです。強いということは、肉体的に丈夫とか、力持ちとかということではありません。この世を力強く生きるための、地位だとか資金力とかを持っているということでもありません。それらはもちろん「強さ」を構成する具体的な武器ではあるでしょうが、本来的な意味での強さとは、「弱さを顧みない」ことだと思います。
自分が弱い時にはその弱さが自分自身にあることを実感するのに、強い時はその弱さを何ら顧みないのです。すなわち他者への配慮をしない。他人をいたわらない。そう言い換えても良いと思います。
パウロは己の強さを誇っていた時には、思ってもいなかったであろうことをコリント書Ⅰに記しました。「体には弱さが必要である」という驚くべき言葉です。何故なのか、口語訳聖書によって、12章5節を読みます。「それは、体の中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。」
『このような「いたわり合い」とは、生まれながらの人間が、自己を立て、自己拡張を本位とするのに対し、互いに足もとを見つめ合うために、心の向きが変えられるということではないでしょうか。』詩人の島崎光正さんはかつてそう書きました。
私たちは神さまから見てドングリです。でもドングリは、そもそも他と自分を気にして背比べしたりしないのです。変な競争などないのです。パウロが知ったように、弱さは体の中に分裂がなく、つまり一致のため、一つであるためにあります。またその弱さの故に、私たちはいたわり合うのです。いたわり合ってお互いの足元を見つめ合う時、心の向きが変えられるものと心から信じます。
最後に島崎光正さんの「わが上には」という詩を読んで終わります。
わが上には
神様 あなたは私から父を奪われました。母を奪われました。姉弟もお与えになりません。その上、足の自由を奪われました。松葉杖をお貸しになり、私はようやく路を歩きます。電柱と電柱のあいだが遠く、なかなか早く進めません。物を落としても楽に拾えません。乳のにおいを知りません。母の手を知りません。私は何時も雪のつもった野原に立っていました。鳥の羽も赤い林檎の実も落ちてはいませんでした。私は北を訪ねました。けれども、知らない人は答えました。それは南であろうと。私は南にゆきました。また別の人が答えました。それは、北であろうと。生まれてから三十年経ちました。私は今、机の上にかさねたノートを開いてみるのです。此処には悲しみの詩が綴ってあります。神様 これがあなたのたまものです。恐らくこほろぎの鳴く夜ふけ 母ある者は、布団の裾をたたかれ安らかに眠りについたでしょう。妻ある者も抱き合いながら眠っていったでしょう。母はふたたび起きてみるでしょう。けれども、私は眠らずに覚めて書きました。こんなにぎっしり 落花のように手帖を埋めました。足ある者は、遠く旅立つひまに 私は更に埋めました。おお幾歳月……私の詩は琴のように鳴りました。森のように薫りました、いたみは樹液の匂いを放ちました。
神様、これがあなたのたまものです。
天の神さま、私たちを人と比べ合わず、まして大声で物を言ったりせず、かえって互いに足元を見つめ、いたわり合う者として下さい。強さではなく、弱さを糧とすることができますように。