《 本日のメッセージメモ》

朴栄子牧師(パク・ヨンジャ、在日大韓・豊中第一復興教会)が書かれるエッセイ「コッチュだね」が率直で面白い。どうしようもない状況の中で、少しずつ立ちあがる姿に励まされる。

テキストは申命記。「重ねて語られる神の言葉」の意。約束の地を目前にして語られたモーセの3つの説教の形が取られている。

40年に及ぶ放浪生活でユダヤの民は肉体的にも精神的にもボロボロだった。そういう時にこそ誘惑が忍び寄る。故に神が立てられる預言者の言葉に聞き従うようモーセは語った。のちにペトロも同じ箇所を引用して人々に語った。

「大草原の小さな家」の一話から、行き詰まった時、聞ける存在があることは大変ありがたいと教えられる。私たちの救いのカギは「言葉」なのだから。

永井隆博士は被爆の長崎の地で「どん底に大地あり」と訴えた。源泉はむろん信仰にあった。

朴牧師も仲間を得て、今は希望に満ちている。

今年はコロナ禍で、多くの人がどん底に落とされた。しかし、「どん底に大地あり」。イエスがいて、友が与えられ、再び歩めるようにされる。

《メッセージメモ全文》

 いのちのことば社が毎月出している小冊子に今、「泣き笑いエッセイ コッチュだね!」という連載があります。在日大韓基督教会・豊中第一復興教会の朴栄子(パク・ヨンジャ)牧師の担当です。コッチュとは唐辛子のことだそうです。

 これが面白くて、励まされ力づけられるので毎号楽しみに読んでいます。何が面白いかって、パク先生の文章が率直で、正直で、偽りがないのです。例えば、うつになって、自分自身に嫌気がさし、自分が嫌いでたまらなくなったときのこと。「うつになると、人がとても怖くなりました。誰にも会いたくないのです。いちばん会いたくないのは、牧師たち、とくに同じ教団、同じ教派の先生たち。誰も何も言わないのに、失格者の烙印を押される気がしたのです」と書かれていました。これ、私も牧師なので非常によく分かるのです。裁かれると思ってしまうのです。それは知らず知らず裁いているかもしれない自分自身の裏返しかもしれません。

 パク先生は、在日三世の方で、日本語が母語です。だからあちこちから説教や講演を依頼され、多い年には一年に40回も引き受けておられたそうです。でも五十歳を迎え、更年期となり体調が落ちたころ、外では多いに用いられる一方で、肝心のご自分の教会の教勢は最低で、教会の存続も危ぶまれるような状況に陥ってしまいました。

 残った数少ない信徒の一人が一緒に暮らしておられる88歳になるオモニ、お母さんでした。エッセイの中で普段は「タミちゃん」と呼んでいると知らされました。このタミちゃんが、認知症だと分かったのです。うつになって、自分のことだけでも大変な時に、タミちゃんが色んなことを忘れてゆくし、介護も必要となって行きます。

 そのタミちゃんに声を荒げたこと、お尻を叩いてしまったことも数回あったと隠さずに書かれています。その時のこと。「あんなにしっかりしていたオモニ。頭が良く優しくて尊敬するオモニ。そのオモニがこんなになるなんて。胸が詰まりそう、頭がカーっとして爆発しそう。ワーッと叫んだり、やけくそで「感謝します!」と怒鳴りながら足で床をダンダン蹴ったり、自分の頭をバンバン叩いたりしました」と記されていました。

 そこまでバラさなくても良いのにと思いつつ、想像すると涙が出ました。そういうどうしようもない状況の中で、彼女は自分の傲慢さに気づかされて行ったと言います。その傲慢さとは、自分が謙遜な人間だと思っていたということだというのです。ああ恥ずかしい!と言われます。努力しない人が嫌いで、上から目線で人を見ていたけど、努力したくてもできない人がおり、気力さえ湧かないこともあることを、自分がそうなってみて、初めてわかるようになった。今はほんの少し、人の痛みも苦しみも分かるようになり、苦しかったけど、決して無駄ではない時間だったと振り返っておられます。このエッセイがまとめられ、いずれ一冊の本として出ることを願っています。

 さて今日は珍しいテキストが与えられました。申命記です。面白いかと問われれば、面白くはありません。モーセ5書の一つで、直訳するなら「重ねて語られる神の言葉」という意味であり、第2の律法とも呼ばれる書物です。エジプトを脱出して40年、長い放浪の末、ようやくたどり着いた約束の地カナンを目前にして、そこに入ること叶わずモーセは亡くなります。非常におおざっぱですが、その直前に、これから新しい地に入ろうとしているユダヤの民たちに向かってなしたモーセの3つの説教が描かれている形となっているのが申命記です。

 40年に及ぶはるかな旅路がようやく終わろうとしていました。恐らくユダヤの人々は、精神的にも肉体的にもボロボロになっていたに違いありません。それなのに、残念ながら約束の地を与えられたとして、そこがいきなり天国でも何でもないのです。これまでの苦労がすべてが一気に報われる、そんな生活が待っている訳ではないのです。相変わらずの苦労がなお続くことも重々予想されます。

 そういう「疲れ切っていた人々」に向かってモーセは、それでも神さまが自分のような預言者を与えて下さるから、その預言者に聞き従って生きるよう語ったのです。間違っても占い師や呪術師のような者に頼ってはならないということが、一つ前の段落で語られています。ボロボロの状態でいる時こそ、いかにもそれらしいことが語られ心が揺さぶられる。人々の耳に表面上優しい言葉をつい求められたりするからです。神ならぬものを神として、心を寄せたくなる、悲しい誘惑が忍び込みます。

 それを断固はねのけ、ただ預言者に聞くよう語られています。しかし、ここではその預言者でさえ間違うことを隠しません。それはモーセ自身も幾つも実体験したことでした。神の命じていないことを神の名を通して語る危険性についても述べられています。預言されたことが現実とならない場合についても同様です。そういう危ない可能性もあることを率直に語った上で、しかしあなたがたは神が立てられる預言者の言葉に従えとモーセは語りました。

 かつてペトロがエルサレムの神殿で、足の不自由な人を癒した出来事がありました。その時その様子を見た人々は、ペトロの起こした癒しを神さまからのものと思いませんでした。占い師や呪術師のような、ペトロ個人の力によるものと見て集まって来ました。

そこでペトロはこの申命記18章を用いて彼らに説教をしたのです。使徒言行録3章に記されています。22節には、『モーセは言いました。「あなた方の神である主は、あなた方の同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる」』とあります。申命記を引用しながら、預言者たちの口を通して語られて来た救い主イエスについて語ったペトロでした。癒しのわざは彼個人から生まれたものではありませんでした。

 しかし正直に言って、しんどい時はなかなか他者を受け入れることはでません。なおさら神さまが、です。どん底にあっては、言葉はもちろん、神の存在すら信じることが難しいことでしょう。それでも、絶対無理かというと、そうではないのです。パク先生が今月、「大草原の小さな家」というドラマの一話を紹介しておられました。

 『丘の上の「お化け屋敷」と呼ばれる荒れ果てた家に、主人公ローラが悪ふざけで一人入っていくことに。そこには亡き妻の帰りを待ち続けながら、孤独にひきこもる老人が住んでいました。ローラは見つかって大目玉を喰らいます。が、好奇心がやがてあわれみとなって関わるうち、ふたりは友だちになります。しばらくして、その妻が病死したことを知ったローラが現実を告げると、激しく拒否されます。そして、なすすべもなく、そっと庭に聖書を置いて去ります。しかし、その聖書は開かれたのです。翌日、訪ねて来たローラに、妻が天国へ行ったと信じたいから助けて、と老人が懇願するラストシーンには、胸が熱くなります。』と、11月号にありました。

 そのドラマのように、行き詰まってどうにもならない時、なお自分自身でどうにかできることは少ないのかもしれません。何もできないから教えて、と聞ける存在が必要なのでしょう。私たちには、やっぱり言葉が救いのカギとなるのです。

 NHKの朝ドラでも同じような場面が放映されました。戦時中の戦争責任に苦しんだ主人公が、長崎の永井隆博士のもとを訪ねるのです。被爆した教会に「どん底に大地あり」と書かれた板がうちつけられてありました。永井博士の言葉です。どんなに考えても意味が分からない主人公は、遂に博士にその言葉の意味を尋ねるのです。博士は言いました。「どん底まで落ちて、大地を踏みしめ、共にがんばれる仲間がいて、初めて真の希望は生まれる。」

 ドラマのセリフではありますが、その通りだと教えられました。本来の主人公と永井博士は実際に親交がありましたから、あながち作り話ではないでしょう。どん底の大地を共に歩んでくれる仲間はいるのです。自身も被爆しながら、何も医療道具のない中で懸命の治療を続けた永井博士でした。その力の源はイエスを主とする信仰にありました。

 パク先生は「傲慢な私を赦して下さい。何もできなくてごめんなさい。どうか助けて下さい」と祈りながら、朝早く教会の近くのごみ拾いをしていたそうです。しばらくして、ひとりの友人がハングル教室を、もう一人がカフェを手伝うから一緒にやろうと声をかけてくれたのだそうです。『やってみれば?じゃなく「やろうよ!」なんです。なんてすばらしい友でしょう』、と書かれていました。

 どん底に大地ありです。さっき歌った子ども讃美歌の通りです。歩いてゆけば、友だちがきて、二人になって、四人になって、神さまの子どもになって・・・。

 今年は思いがけぬコロナ禍に襲われて、未だ展望は見えません。正体がよく分からないので、気づかないうちに力を奪われている、そんな感じです。これまでの当たり前の過去を失って、どん底のようにも思われます。しかしどん底に大地あり。イエスがいて、友が与えられて、知らぬ間に再び歩めるようにされることを信じる者です。 天の神さま、私たちを憐れんで下さい。力を与えて下さい。友を備えて下さい。