《 本日のメッセージメモ》
中学時代の夏休みの読書感想文。別の生徒が書いた文を写して提出。それを褒めてくれた国語教師。「贖罪としてのキャッチャー・イン・ザ・ライ」とK牧師は書いた。思いがけず力が働く。
テキストはマタイ福音書の中の、イエスから弟子に向けた最後の説教。「すべての民族を裁く」と小見出しがつけられているが、裁きとは「見られること」。ここで語られたのは、すべてを神が見ておられるということだった。
故に打算して言動する必要はなく、すべて目の前のことに愛をもって働けば良い、とのイエスの思いが込められていた。
弟子たちに語ったことを誰より実行したのは他ならぬイエス自身。彼こそは打算なく、愛のわざを尽くした。ただ、それは現実には迷惑もかける。例えば金銭面で。
聖書は男性が記したので、イエスの旅に多数の女性が同行したことの詳細は余り書かれていない。が、ルカ8:3には女性たちが旅の内実を支えたと記録されている。
それに支えられ、イエスは誰彼を食卓に招いたのだろう。そうして「歓待」した。その食卓に敵意などない。ただ共にいて楽しい食卓だった。それが私たちの救い主イエスである。
《 メッセージ全文》
ある方が、中学生の時の苦い思い出として、「告白」の文章を書いておられました。夏休みの宿題の一つだった読書感想文が、新学期が始まる頃になってもできていなかったのです。
たまたまある通信に載っていた、別の中学生が書いた読書感想文を丸写しして提出しました。そうしたら国語担当のH先生がすごく感動して、卒業の時にサインを頼れたというのです。
彼は将来はプロの選手を目指す野球少年でした。そんな少年がとても読むとは想像しなかった「ライ麦畑でつかまえて」という本の感想文を書いたので、H先生は驚いたのでした。先生はサリンジャーが大好きでした。「あなたがプロ野球選手になったら、この子はサリンジャーを読む野球選手だったんですよって自慢したいから」、ということでサインをちょうだいと願ったH先生でした。
しかし彼は結局プロ野球選手にはなれませんでした。何と神学校に進んで牧師になりました。神学校時代にその本を初めて読んだのです。そうして、主人公が、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、がけから落ちそうになった時に捕らえてあげる人になりたかったことを知りました。
本の原題は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でした。野球をやっていた頃の彼のポジションはキャッチャーでした。今、「自分は人間をとる漁師」、すなわちキャッチャーをやっていますよ、とH先生に報告する彼でした。現在カンバーランド長老教会の牧師であるKさんのなかなかに優れた文章でした。特に付けられていたタイトルに感心しました。「贖罪としてのキャッチャー・イン・ザ・ライ」とありました。この場合のライはライ麦畑のライに、「嘘」の意味のライが重ね合わせられているのでしょう。
人の感想文を写して提出した、その嘘偽りを、H先生は単純に喜んでくれました。それが何より忘れ難い思い出であるのです。Kさんが最終的に牧師になったこと自体は、この文章の「落ち」に過ぎません。しかし、ここに人間の作為を超えた力が働いたのだと思わずにはおれませんでした。
さて、今日与えられたテキストは、マタイによる福音書の中で、イエスが生前なした最後の説教の箇所でした。この後は逮捕に向かって刻々と状況が切迫して行きます。イエスはエルサレムにやって来て、神殿で話をしながら、神殿に見える様々な不条理を心に留めたことでしょう。その第一は、金持ちが優遇され、貧しい人たちが隅に追いやられる格差の現実でした。
捕らえられる前、最後にオリーブ山において弟子たちに向かって最後の説教をなしました。その結びの箇所が今日読んだテキストです。既に三度に渡って、繰り返し自らの死と復活の予告をして来ました。現実に逮捕が近づいている不穏な状況は、弟子たちにも漠然と伝わっていたでしょう。そんな中での彼らへの最後の説教でした。「すべての民族を裁く」と小見出しがつけられています。「最後の審判の例え」としている聖書もあります。
「裁き」と聞くと、私たち何だか怖いし、不安になります。でも、一言で言えば、「神さまはすべてを御覧になっている」ということが、今日のテキストの内容だと思います。
弟子たちの不安な心理を知り、また神殿にあふれるこの世の不条理を知って、最後にイエスが語りたかったのは、「神さまはすべてを知っておられるから、下手な小細工・計算をする必要はない」という弟子への思いであったでしょう。
当時、羊飼いは日中は羊と山羊を一緒にしていましたが、夜には二つに分けて寝かせませした。夜間、羊には新鮮な空気が必要だったし、山羊には温かさが必要でした。それで二つのグループに分けたのです。
それぞれに必要なことを羊飼いたちはよく知っていました。その羊飼いを「王」になぞらえて、羊は右、山羊は左と例えて神さまが人を見ることの中身をイエスは話したのです。羊は良いもの、山羊は悪いもの、という意味ではないのです。
ただ、人々を二つに分けた時、右のものは自分の必要なことをしてくれたもの、左はそうしてくれなかったものという位置づけになっています。聞く者はだから、自分はどちらだろうかと気がかりになります。
でも、この話は、どちらの側に立つか立っているかを問う話ではないのです。右にいるとされた人たちは、王(神さま)から認められましたが、何故そうだったのか分かっていませんでした。認められるような言動をなした自覚がない。というよりも、認められたくて、打算で動いたのではない人たちだったのです。
ところが、左側の人たちは、まさにその反対。認められたい欲望があり、認められると算段して言動した挙句、それが王(神さま)には認められなかった人たちでした。ですから彼らの王への反論には、不満・不平が透けて見えます。彼らとて、他者に何もしない人たちではなかったでしょう。しかし「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」という王の言葉にあるように、彼らは相手を選んで何かをなした。この世の基準に照らして選択したということだったのでしょう。
いずれにしても、イエスの例えに込められているのは、神さまはすべてを御覧になっているということ。その人間の行為が、何に基づき、誰に対してなされたのかは知られている。だから、あなたがたは下手な小細工を弄するようなことは何一つ必要ないし、不安に思う必要もない、そういう弟子たちへの思いであったのだと思います。やっぱりH先生の打算ない思いこそが、神さまに覚えられているということです。
そして、もう一つ明らかに言えること、それは右に分けられた人たちにかけられた「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたから」(35節)という言葉の中身を、誰よりも実行したのが他ならぬイエス自身であったということです。
今から申し上げることは、すべて想像の話です。イエスこそは、良い意味で、全く打算・計算をしない人、できない人だったと思っています。悪い意味で言えば、それは周囲に結構迷惑な話だったかもしれません。
例えば、有名な5000人の給食の出来事。結果としては、イエス自身の力によって、わずかな食べ物が豊かに分かち合われた訳ですが、そもそも人里離れた場所に、課題を抱えた大勢の群衆が押し寄せた時、イエスは彼らの様子を、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんで、後先を考えないで延々話を続けたのです。その結果、何か食べるものを買いに行けるような時間ではなくなってしまいました。その場所だけでなく、時間への配慮もなかったのです。同時にお金への配慮もありませんでした。それなのに弟子たちに「食べ物を与えるよう」命じています。
イエス一行に、伝道の旅を続けるに十分な豊かな資金があったでしょうか?あったはずはありません。もともとガリラヤ湖の漁師だったような弟子たちに、密かな貯金があったはずもありません。旅の途中で、出会った数少ないお金持ちからの特別な資金提供はあったかもしれませんが、基本は貧しい一行でした。だからこそ空腹になった弟子たちが麦畑の道中で、麦をつまんで食べたのです。
聖書は男性が記しました。だから女性のことは詳細には描かれていません。福音書で言えば、記録魔であったルカだけがわずかに記録しています。8章1節からの一段落を読みます。「すぐそののち、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。12人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
イエスの旅は、男性だけでなく、ガリラヤからずっと多くの女性たちをも連れての旅でした。実のところ、彼女たちこそがお金にせよ、日々の食事にせよ、互いに出し合い協力して旅の内実を支えたのです。
イエスはこの世的算段をしない人だったと言いました。ただし、彼女たちへの感謝は折に付け露わにしていたのではないかと思います。そうでなければ弟子たちがみんな逃げた後、十字架の最後までそこに留まり残ることはなかったでしょう。
多くの人たちを引き連れる旅は大変だったと私たち想像します。でもそんなこの世の現実を計算するイエスではありませんでした。内実を女性たちが支えていることを知った上で、しかしなおイエスは来る者を拒むことはなかったのです。この世的打算をしないのに、驚くべき行動に出る人でした。徴税人マタイの家に招かれた時、そこには他の徴税人や罪びとと呼ばれる大勢の人たちがイエスと弟子たちと共に食卓に付きました。3つの福音書に記されている出来事です。本来彼らが招かれた訳がありません。私はイエスが招いたのだと確信しています。或いは「彼らも一緒に」と招待主に迫ったのだと思います。何も打算がないだけに、恐れもなく、最強の招きだったでしょう。
今日は収穫感謝の日です。残念ながら、愛餐会は今年はできません。例年、テーブル上にささげる収穫物もありません。互いに分かつものはないのです。でも、イエスならどう言うでしょう?どうするでしょう?何もないから来るな、と言うでしょうか?
感染予防のために、今年断念したことは致し方ないことです。そしてそれは当面続きます。それでも私たちは、イエスは「招いておられる」ことを忘れたくないのです。少なくとも、あなたは条件に合わないからダメなどと決して人を限定したり、排除したりはされません。むしろ、誰に向かっても「是非、おいで下さい、ご一緒しましょう」と招かれる人です。だから変に緊張せずに、恐れを持たず、構えず共にいることができます。そうして席に着いたら、「よく来て下さった」と誰よりも皆を歓待されるのです。そこに敵はいません。楽しいだけです。それが私たちの救い主です。
天の神さま、あなたの下さるすべてのものに感謝します。その深い愛に応え、私たちも愛のわざに励む者とならせて下さい。