《 本日のメッセージメモ》

 「100日後に死ぬワニ」(きくちゆうき作)は、不慮の事故で亡くなるまでの、当たり前のワニの日常が描かれている。命が愛おしく、切ない。

本日からアドヴェント。イエスの誕生を待ち望む時だが、敢えて言えば、誕生から始まる死への道のりを覚える時でもある。

聖書には「終わり」という言葉が「終わりの日」、「終わりの時」として用いられる。裁きの時を意味するが、神(の思い)が支配する世の始まりをも意味する。イザヤ2:4には、その日真の平和がもたらされる。故に「主の光の中を歩もう」と。

現実には、世界には未だに争いが絶えない。自国第一主義がもたらす残酷な現実。パウロはローマの圧倒的権力をよく知った上で、「目覚めの時は既に来ている」(ローマ13:11)と述べた。

かつて一部しか知ろうとしなかった神の力。イエスを通し、信仰とは丸ごと信じることと知らされた。目の前の現実だけで未来を判断しないということだ。光の武具を身に着ける(13:12)、イエスを身にまとう(13:14)とは、そのことを示している。

イエスの終わりは、この世的在り方の終わりの始まりだった。「夜は更け、日は近づいた」(13:12)のである。

《 メッセージ全文》

 「100日後に死ぬワニ」というお話があります。「きくちゆうき」という漫画家の四コマ漫画です。もともとは去年の12月からツイッターで連載されていました。私は絵本で知りました。絵本は全部の作品が載っていないので、コミックも買いました。

 その帯に「あたりまえ。だから愛おしい。」と書いてあります。全くその通りです。主人公のワニは普通のワニです。特別格好がいいとか、お金持ちとか、地位があるワニではありません。格別な事情を抱えているのでもありません。どこにでもいて、誰もが経験するであろう普通の毎日を送っているワニです。

 時給1000円のアルバイトで生計を立てています。楽ではありません。でもネズミの友だちもいますし、好きな子もいます。毎日いいことが起る訳ではありません。退屈な日もあります。でもたまにラーメンを食べにも行きます。密かに立派なことを続けているワニでもありません。でもたまにごみを拾ったり、小さな良いことをしたりもします。

 そういう何気ない日常ですが、一つ一つの作品の下に「死ぬまであと〇〇日」とカウントダウンが書かれています。病気で死ぬのでなく、思いがけない事故が起きるのです。その日から100日さかのぼった一日から、その日までの100日間の「あたりまえ」が描かれていて、事故はショックだけど、それまでのあたりまえが何とも愛おしい。切ないことこの上ないです。

 多分相当数の人は、同じように取り立てて特別なことは何もない、当たり前の日常を生きていることでしょう。重病を患ったりしなければ、明日は普通にやって来る。終わりの日を意識して、特別な一日を過ごしたりはしません。ところがその平凡な日常が、実はとてつもなく大事な日であることを、この漫画はさりげなく教えてくれるのです。

 あと100日後に主人公は死ぬ、その日を「終わり」だとすれば、それまでの日々は、直前の100日間を含めて、すべて「終わりの始まり」ということができるでしょう。そういう意味では、今日はアドヴェント、イエスの誕生を待ち望む時がスタートする訳です。が、私たちはイエスの死を知っていますから、イエスの誕生はすなわちイエスの死の始まりである訳です。

 もちろん、イエスだけでなく人は誰でも誕生の時から死に向かって生きる存在です。それが何日後、何年後に訪れるかは分かりません。人によって違います。だいたいは平均寿命ぐらいは生きると算段して、人生の設計図を立てます。

 それより早ければ、「まだ若いのに残念」と惜しみます。それなら、イエスは30過ぎで亡くなったのですから、今とは事情が違うことを考慮しても、相当に早い死だったことになります。その上、当局ににらまれての十字架刑による死であれば、何とも無残過ぎる「終わり」でした。アドヴェントにあって、私たちはイエスの誕生を心に刻む時、30数年後に迎える早すぎる悲惨な終わりをも心に刻んで過ごすことができるでしょうか。

 福音書に記されている弟子たちの様子を読めば、仮にあと100日後にイエスが死ぬと分かったとしても、彼らにそれを避ける方法もなかったし、残り時間を惜しんで、特別な時間を過ごしてその日を迎えるようなこともできなかったことでしょう。それは私たちもきっと同じです。無念です。「終わり」だけを意識するならそうなるのです。

 さて、聖書には「終わりの時」とか「終わりの日」という言葉が時々使われています。それは誰かの死という意味合いではありません。またこの世の破滅というような意味合いでもありません。裁きの日という意味で使われることはありますが、裁かれて天国に行く人と地獄に落ちる人が決定されるというような意味でもありません。

 そうではなく、聖書で言う「終わりの日」とは、神さまの治める世の中がやって来るという意味です。その時この世がどうなるか、例えばイザヤ書2章に描かれる様子が象徴としてよく知られています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と4節にあります。そのように、終わりの日は、神さまがやって来て立たれる日、そことでは人々はもう戦いをやめ本当の平和がやって来る、つまり真の救いの日という意味であるのです。

 それは人間的な、この世的な在り方、人間が身勝手に支配して来た世界が終わる日であって、言い換えれば神さまによるまことの平和の「始まりの日」と言うことです。だからあなたがたは、その主の光の中を歩もうとイザヤ書では呼びかけています。

 人の罪はいろいろありますが、戦争ほど人間の欲望の罪が凝縮したものはないでしょう。しかも多くの人生を奪い、具体的に心と体を傷つけます。イザヤ書の時代だけでなく、イエスの時代を超えて今を迎えてもなお、私たちは戦いの終わらない時代を生きています。

 かつて75年前の日本は「大和民族の優秀さ」を誇りました。ドイツは「ゲルマン民族の優秀さ」を誇りました。その誇りは周囲を見下すものとなりました。自国第一主義のもたらす当然の結末でした。

 誰かが誇って威張る時、その陰に隠れて耐えるしかない人が必ず生まれます。当たり前ですが、そこには対等の人間関係などありません。どんなに言い繕っても、一方的な主従関係でしかないのです。或いは利害関係でしかないのです。そこに愛はありません。

 パウロは当時のあちらこちらを旅し、ローマの圧倒的権力を重々承知していました。しかもしばしば残酷でした。ローマの平和は明らかに歪んでいました。やみくもに立ち向かっても空しい結果が出ることは明らかでした。ですから今日のテキスト13章の最初の一段落では、とりあえず命を守るためにぼかした文章を書きました。

 しかし続く8節からははっきりと記したのです。利害で結ばれる人間関係は対等ではないのです。互いに愛し合うことができません。だから「借りがあってはならない」と言明しました。愛し合う関係であったら、借りも許されますが、そうでない関係での貸し借りは歪むのです。10節では「愛は隣人に悪を行いません」と重ねました。その裏に、ローマの現状やそこにすり寄る者のあり様が透けて見えるようです。

 そして、現実に直接ローマに抗うことは難しい現実はあるけれど、内面での目覚めの時は既に来ていると続けました。更には、光の武具を身に着けよう、イエス・キリストを身にまとおうと語りました。それは、イエスを丸ごと信じるということでした。かつてパウロは懸命に律法を守りながら、部分的にしか神を信じていませんでした。一部だけ信じて全体は信じなかったのです。

 私たちもその愚を犯します。例えば、香港の現実を知らされると、つらくなります。こんなことで良いのかと憤ります。にも関わらず有効な策が何もなくて、地団駄を踏む思いです。まるで何も進んでいない気になります。現実はこうなんだ、未来など望めない。神もへったくれもない・・・と。

 ですが、かつて27年も投獄されたネルソン・マンデラさんは、南アフリカ大統領になって大きな仕事をしました。今年どうなるかと思われたアメリカでは、次期副大統領に黒人女性のハリスさんが決まりました。

パウロも当時のローマの様相では、変えようのない現実に、砂を噛むような思いでいっぱいだったでしょう。それでもパウロにとって、「いつの日にか」ではなく、既に知らされた「終わりの日」がもうありました。確かに現実にはまだ実現していません。テキスト8節で「人を愛する者は、律法を全うしている」とあり、10節で「愛は律法を全うする」とありました。「全うする」と訳されたプレーロオーという言葉は、実現するとも訳せますし、直訳すると「満たす」という意味です。

パウロにとって、イエスの生涯との出会いは、実現であり、満たされたものとなりました。ですから信じるとは、目の前のことだけ、現実だけを見て、未来を信じないことではありませんでした。未来を含めて、丸ごと信じることが信仰でした。イエスの終わりは、この世的在り方の終わりの始まり、ローマのあり様の終わりの始まりだったからです。

十字架上の死は、三日後の復活によって覆されました。夜は更け、日は近づいたのです。アドヴェントに当たって、私たちもこの世的あり様の終わりの始まりを希望のうちに心したいと思います。

天の神さま、新たな始まりを覚えながらアドヴェントを過ごす者とならせて下さい。